2018年4月12日

四月のある日・・・


ああ、盗みを働かなくなってしばらくになる・・・

これはジョルジュ・ブラッサンスが歌ったシャンソンの歌詞の一節である。

わたしが図書館を利用し始めたころは、CDというものが出始めた頃で、まだレコードの貸し出しというものをやっていた。
蒲田にいたころに利用していた図書館では、内部を三十センチ四方に仕切られた棚が20くらいあっただろうか、木製(?)の書架のようなものがカウンターの傍にあって、そこにいろいろなジャンル(落語や浪曲などもあった)のレコードが収納されていた。

馬込に移ってから通っていた図書館では、棚を、腰の高さくらいで横に寝かせたような形で、収納ケースは平らに広がっている。奥の方のレコードは、からだをくの字に曲げて手を伸ばさないと届かなかった記憶がある。

このような説明は蛇足のようにも思うが、今どきは、そもそもレコード・ショップなどに足を踏み入れたことがない、という人がいないとも限らない。それにわたし自身も、10年位前までは、結構頻繁に、ビニールで出来た薄くて黒い円盤を求めて西へ東へと中古レコード・ショップを渉猟していたけれど、いろいろな店を見過ぎたせいか、それともレコードの溝のように、記憶が摩滅したせいか、かつて図書館でどのようにレコードが収められていたか、はっきりと思いだせない。



タイトルは忘れたけれど、若き日のジャン=ピエール・レオー主演のトリュフォーの映画のオープニングで、パリの中心部らしき場所にあるアパルトマンの2階(3階?)の、大通りに面した彼の部屋で、起き抜けに煙草をくわえながら、ポータブルのレコードプレーヤーにレコードを乗せ、それをBGMに朝の身支度をするシーンがやけにカッコよかった。
60年代当時のヌーヴェルヴァーグだから勿論モダンジャズだ。

わたしはパリへ行ったことはない。そして多くの人は、きっと小説=本を通してパリを知るのだろう。
わたしはドアノーの写真で、昼のパリ、元気な子供たちのパリ、そして恋人たちのパリを垣間見、ブラッサイの目を通じて、孤独な、大人たちのパリの夜をのぞいた。といっても、もちろんそれはいまのパリではなく、もう数十年前、ボリス・ヴィアンやジャック・ブレル、レオ・フェレやバルバラ、ブラッサンスが歌っていた「古き良き」パリのはなし。そして「動いているパリ」を知ったのは、もちろんトリュフォーやゴダール、ルイ・マルやシャブロルの映画によってであった。

なかでも好きなのはゴダールで、随分以前に蓮見重彦がゴダールの引用癖・・・というよりも、如何にゴダールが人から盗んだかを述べた文章を興味深く読んで、ゴダールの「盗み」の方法論に強く共感したのを覚えている。けれどもそれをどこで読んだのかは憶えていない。

わたしの好きなエピソードがある。

19世紀の英国。或る晩、上流階級のサロンで、画家のホイッスラーが、オスカー・ワイルド達の前で気のきいたセリフを吐いた。それを聞いていたワイルドは悔しがって、「ああ、今の君の台詞、ぼくが言ったのならよかったのに!」

ホイッスラーはにっこり微笑んで、「きっとそうなるよ、オスカー」





「盗む」ということはよいことだと、なだいなだは書いている。

盗みの中で最も楽しかるべきはヒョーセツである。あらゆる盗みの中でヒョーセツこそは、何度繰り返してもよいが、最も人間にふさわしい盗みである。
モリエールは悪びれずに盗んだ。シラノ・ド・ベルジュラックから盗んだのである。
日本の近代小説などというものは、外国の近代の代表的な小説を盗むことから始め、盗み通してきたと言ってもよい。
 (略)
パパはお前たちに「盗め」という。しかしこれは至極真面目な話なのである。死んだ人間からであろうと、生きた人間からであろうと、その胸から火を盗め。人間は、他の人間の胸の中に燃えている鬼火のようなものを盗むことによって、はじめて生命を得るのである。ここで盗みははじめて素晴らしいものになる。
 (略)
この地上に善人がいても、人類は滅びることをまぬがれぬであろうが、この種のぬすびとが絶えぬかぎり、精神は滅びぬであろう。
ー なだいなだ 『パパのおくりもの』(1962年)


引用は剽窃ではない。けれども、モリエールは、ゴダールは、その作品の中でいちいちこれは誰の言葉、誰の写真、誰の思想などという出自を明らかにはしない。

ワイルドもまた、ホイッスラーの言葉を、またいずれかで耳にした気の利いたセリフを、あたかも自分の言葉のようにして話していたのだろう。
そこまで行けば「本物」である。
そして「盗みを働かなくなる」ことは、とりもなおさず精神の停滞・涸渇に他ならない。
それはものの姿を映さなくなった鏡と同じだ。



ところで、わたしのレコード・プレーヤーはもう何年も壊れたまま。

ジョルジュ・ブラッサンスはじめ、シャンソンも含めてレコードは結構な枚数持っているし、『パリの四月(エイプリル・イン・パリス)』などはやはりレコードで聴きたい。もし買い替えるなら、ポータブルで手軽なものでもいいかなとも思っている。


鶯 の 啼 く や 小 さ き 口 あ い て (蕪村)


数年前までは、春になれば部屋にいても聞こえてきたうぐいすの啼き声が滅多に聞かれなくなった。公園に行くと、たまにそれらしい啼き声を耳にする。

蕪村のこの句以前は、うぐいすは、その音を聴くものだとされてきた。
蕪村がはじめて、うぐいすを、目で見る対象として詠ったのである。

レコードもまた、音楽を聴くだけでなく、それ自体、みつめるものでもあるのだろう。ゆったりと33回転で回っている姿は、流れる音楽とともに人の心を和ませる。
珈琲か、或いは好きなお酒と共に音楽を愉しみ、ふと窓の外からうぐいすの声が聞こえるようであれば、そして回転する円盤の上に、どこからか風に乗ってやってきた、ちいさな花びらが舞い落ちるようであれば・・・








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