いまどき日本のどんな辺鄙な村へいっても、乗りたいところで乗り、降りたいところで降りられるというバスに、お目にかかれるだろうか?
(略)
ぼくは東南アジアを旅したとき、とくにフィリピンではバスを利用して、ルソン島農村地帯を歩きまわった。(略)そのバスは百キロ、二百キロの行程を丸一日かかって走る長距離バスである。辺鄙な山岳部では一日一本のバスが朝三時に出発し、夜八時頃に終着の町に着く。
このバスはトラックの堅牢な車体に木のベンチをいくつも並べた素朴なもので、どこでも自由に乗れるし、降りたければ天井か車体のサイドを力まかせに叩くと止まってくれる。
子豚や鶏を抱えて乗り込んでくる村人は、自分の家の前でバスを止めて降りてゆく。しかも、昼食時と午前・午後のコーヒーブレークがあって、運転手と車掌と乗客が一緒に食事したりお茶を飲みながらおしゃべりをたのしみ、「さて、そろそろ出かけるか」という調子で発車しながら、驚くべきことに終着時刻は予定通り正確なのである。つまり、乗降自由、のんびり走る条件で時刻表が作成されているのだ。
これは佐江衆一が1973年に書いた、「貧しい」と見る目」というエッセイだが、(『裸足の精神』より)なんという夢のような、長閑な世界であることだろう。
高床式のニッパハウスに住み、のんびりと昼寝を楽しみ、近くの川で洗濯をしたり水牛と沐浴している東南アジアの人々を見るとき、「先進国」の日本人は、物質的豊かさのみを基準として、「なんと貧しい遅れた人々か」と思ってしまう。南の人々を「貧しい」と見る間違いには気づかない。
時間を征服しようという傲慢さや、大自然の恵み以上のものを入手しようとする果てしない欲望が近代化を進めてきたが、ぼくの東南アジア体験は、その「近代」への深い懐疑とアジア的価値感の誕生であった。
近代は長い年月かけて人間の築いてきた確実なものと、その周囲に築かれた生活を破戒しはじめている。その過ちに気づかぬ限り、日本人が恐ろしい人種としてアジアから異端視されるのは当然であろう。
田舎のバスでよく、貧しく見える暮らしでいいではないか。その心豊かにゆったりと生きる南の人々まで「進歩の論理」が侵略する権利はないし、北の人間こそ人類の滅亡へ全力で走りつづけている哀れな動物に違いない。
現在の日本人が、自分たちの暮らしが、ほんとうに「豊か」で「進歩した生活」であると感じているとは思えない。しかし人間という生き物は、決して立ち止まったり、引き返したりすることの能わざる生き物なのだろう。人間はただ「前に進むことしかできない」
いやいや、大仰な文明批判などは措いて、 わたしはここに描かれている、「どこでも乗れてどこでも降りられる」という乗り物、その中で人々がお茶を飲み、笑顔と会話を交わすという光景がなんと優雅な、そして貴族的ともいえる世界に見えて仕方がないのだ。
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