2018年10月22日

ネット依存症?


最近なにやらネット依存症のようになっている。読書に集中できないことや、映画を観る気分にならないということもあるが、しばらく遠ざかっていたアートに再び興味を持ち始めたからだ。

Tumblrと、フェイスブックで自分用に作ったアート・ページにせっせと投稿している。
前にも書いたかもしれないけれど、わたしは海外のアート系のサイトを渉猟跋渉して、興味を惹く絵や写真を見つけると、作者の名前も、作品名すらわからないまま投稿する。

例えば、チェコのサイトでおもしろそうな画家を見つけて、その人の他の作品を観ようとすると、いつのまにかスロバキア共和国のサイトに入り込んでいる。そこで出逢った画家はハンガリーの人で、今度はハンガリーのサイトに移る。そこまで来ると旧共産圏。当然ロシアやポーランドの画家の名前がチラホラと出てくる。そんな感じで、芋づる式に興味を引かれる作品にめぐり逢う。あっという間に時間が経つ。

チェコ語やハンガリー語、ポーランド語を英語に翻訳するのが面倒な時もあって、そんな時にはそのままポストしてしまう。要は作品が面白ければいいのだ。
それでも、一応フォローしてくれている人のことも考えて、タイトルくらいは英語に訳して原題と併記する場合が多い。しかし人の名前、固有名詞を他の言語に翻訳することはできないので、そのまま記載する。
各国のサイトのホームページには、言語を選択するボタンがあって、たとえば
「PL / EN」などと表示されているが、それがどの程度正確かはわからない。
ロシア語、ギリシャ語、北欧の言語も含め、欧州語間の翻訳はほぼ正確だが、日本語にはどうしても訳すのが難しい。正確に訳そうとすると手間もかかる。暇もかかる。そういう事情もあって、わたしのアート・ブログは、ほとんど日本人には見向きもされない。

百聞は一見に如かず。最近Tumblrに投稿したものをここに載せる。

ジャズを聴きながらだと、1950年代頃のニューヨークやパリのモノクロ写真が観たくなり、バッハやショパンなど聴いていると、北方ヨーロッパや英国ヴィクトリア朝の、陽の光を避けたような絵を観たくなる。


Baladins en Voyage / Baladins in travel. 1936, André Masson. French (1896 - 1987)
- Oil on Canvas -

Ovce III / Sheep Ⅲ, 1988, Rdolf Krivoš. born in 1933, Slovak.


Rush Hour, 6th Avenue & 42nd Street Elevated Train, NYC, 1945. Fritz Henle.

Man in a White Castle Resturant, Minneapolis, 1970, Tom Arndt.


こんな感じです。モノクロの写真は共にニューヨークで、見つけたのも、アメリカ=英語のサイトです。



(人生について)あれこれ考えれば考えるほど、気持ちはもつれてほどけにくくなる。ちょっと考えることに疲れたのと、やはりジャズとモノクロ写真。バロック音楽と風景写真が好きなのでしょう。そしてなによりも「古い時代」「過去」が・・・

個人的には音楽も、映画も、そしてアートも含め、所謂(本物の)「文化」は20世紀で終わったと考えています。「文明あって文化ナシ」それが「今」だと。
そして今なお文化は確実に存在しているというのであれば、それはわたしの知っている、わたしの考えている「文化」というものとは、まるで異質のものを、同じ名前でそう呼んでいるだけだと思っています。

わたしにとってのインターネットは、過ぎ去った時代の絵画や写真、そして音楽に、束の間触れさせてくれる、いわば過去へ通じる抜け穴のようなもの。
レコードではなく、CDでもなく、You Tubeで音楽を聴いて満足している自分を、ふと恥じることはあるけれど、なかなか「ちゃんとした音楽再生装置」を買いに都心に出向くことができずにいます。もちろん「ちゃんとした」というのが「高価な」という意味でないことは言うまでもないことでしょう。



少し考える必要はあるかもしれませんが、差し当たり、「医療」(分けても「精神医療」の領域での)と、わたしたちの日々の生活の基盤となる「法律・制度」以外の進歩は、もうこれ以上無用だと考えています。そしてなにより進歩し、改善されなければならないのは、明治この方、百年一日の如き旧態依然古色蒼然とした、人間の「権利」と「平等」に関するわたしたちの「意識」です。通信や移動の速度が速くなることなど稚戯に等しい。
障害を持つ者、働けない者働かない者が、等しく健康で文化的な生活を送れること、個々の持つ属性によって誰からも批判や差別的待遇を受けないということ。そのような、今更言うまでもなく当たり前であるはずの社会と、目の前の現実を見比べるとき、「新しもの好き」らしい日本人が、いかに「余りにも遅れているか」を痛感します。尤も、変えるべきところ=目に見えない本質=制度や旧弊な意識の在り方を温存し、目先の「進歩」やら「発展」などに目隠しをされ、踊らされてしまうのが、そもそも人間 ー「ホモ・サピエンス」の、しょうことない愚昧性なのかもしれません。

はは、何をいまさら愚にもつかないことを・・・こういうことを読んだり書いたりするのにうんざりして、再びアートに逃避したのではなかったのか・・・










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