なにより口惜しいのは、自分が本当に書きたいようなブログを書けない・・・書くことができなくなってしまったことだ。
昨年暮れ頃からわたしのブログを読んでくれていた人たちは、最早現在のわたしの、代わり映えのしない日々の陰鬱な述懐を読んでくれてはいないだろう。
それほどまでに過去に書いていたものとは違ってしまっている。
そして、またいつか、前のようなものが書けるようになれるとも、少なくとも今は思えない。
現在のわたしの頭の中、胸の内、そして生活のすべてを覆っているのは、あのハムレットの独白だ。「生きる 生きない それが問題だ…」
頼るところはない。市役所や地域の保健所の保健師であろうと、都の精神保健福祉センターの相談員であろうと、きょうびこのような非効率極まりない(言い換えれば「人間的な、あまりに人間的な・・・」)ハムレット的な問題は避けて通る。
彼らは口々に言う
「生きる? 生きない?ですって?なんで『生きる』ということにクエスチョンマークがつくのかわかりませんねぇ・・・」
「あなたがね、ほんっとうに、「生きる!」「生きたい!」と決心したときにまた連絡してください。ここは「生きること」に「?」を付ける人の面倒までは見られないんですよ」
精神科医、カウンセラーとてさして変わりはしない。
「生きる意味が解らない」「何をする気も起きない」「何をしてもつまらない」そのような訴えは、たちまち「鬱」と診断され、わたしのカルテは「うつ病」の棚に投げ込まれるだろう。
けれども、生きることへの疑問、その意味の喪失、楽しみを見いだせないということ、それらが、「病んだ状態」であるとされるのは、この世界が、現代社会が、生きる価値に溢れ、たのしみに満ち、退屈や倦怠などあるはずがないという前提が無ければ成り立たないはずだ。
生きることが厭になることが「異常」であり「病気」と見做されるほど、この世は素晴らしいところなのだろうか?
「生きること」は、問答無用で「死ぬこと」よりもいいことなのか?
◇
けれども、このようなことを書けば書くほど、自らを「死地」に追いつめているような形になってしまう。
書くほどに、語るほどに、「さあ!どっちだ。生きるか死ぬか!」「白か黒か!さあさあさあ!」と、否応なしに二者択一を迫られているような気持になってくる。
しかしそれはわたしの本意ではない。「生きる」に対しても、「生きない」に対しても、わたしは同時に、双方に、クエスチョンマークを差し出している。それが、「生きること」が自明である世界や人びとにとっては、短絡に「(自)死」というイメージに結びついているだけだ。だがそれでは生きている間に、「生きることについて(立ち止まって)考える」ことはできなくなってしまう。
現代社会を軽蔑し、蛇蝎のように忌避することと、それゆえわたし自身のいのちを軽んずることとは、必ずしも地続きではない。
「現代社会に生きる意味」を見出すことも、また自裁することも、同程度に極めて、極めて困難なことだろう。
それを知りながら、尚、生きている。
「生きることの破綻と全き不首尾・・・」そんな言葉を苦く噛み締めながら・・・
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