今日は「いのちの電話」で約2時間話した。最初は話が合うんだか、そうでもないのか、うまく波長が合っていない気がしていたが、終わってみれば、これまでの最長記録の「会話」だった。
わたしは「嫌われることへの怖れ」について話した。自分がまったくの「無」であり、人との関係は、受ける一方で、決して「ギブ・アンド・テイク」の関係にはなりえないのだと訴えた。もちろん「受ける」「与える」というのが、有形のものだけではないということも前提で話した。
「無力」ということ。例えば全く無力な存在である赤ん坊、逆に老い衰えた人、重い障害を持ち、自分で食事をすることさえままならない人、小銭を「恵んでもらって」いるホームレス・・・繰り返し書いているように、仮に彼らの姿を実際に見ていなくても、この世界に、わたしのいるこの地上に彼らが存在していること、或いは単にそこに「ある」ことで、どれだけわたしの心が慰撫されているか。わたしは確かに彼らに「与えられて」いる。彼らは、その存在の在り方そのものによって、すくなくともわたしという人間に「与えて」くれている。彼らは「無力」かも知れないが、決して「無」ではないし「無価値」でもない。と、いくぶん演説口調で熱く電話の向こうの女性に伝えた。
でもわたしは彼らと同じではない。うまく言葉にすることはできないが、赤ん坊や、重度の障害者や、宿無しや孤独なアル中とは違った、なにか、人を不快にさせる「何か」を持っている。上記の人たちとはまるで別種の、人を遠ざけるものを備えている。
人は皆、限りなく「球体」に近いほどの多面体だ。「この人にこんな一面があったのか!?」わたしはそれを知られるのが怖いのだ。
「でもさあ、あなたと6年間親友でいた彼女はあなたのすべてを知っていて、それでも6年も一緒にいたじゃないの・・・」受話器の向こうの、55歳のわたしより少し年上の女性は、40代の声でそう反問した。
確かにそうだ。けれどもそれはほとんど恩寵、奇跡と言っていい出来事だった。
そして奇跡は2度とは起こらない。
その彼女ですら、遂に6年目に去って行った。「奇跡の人」は6年もった。ではそれ以外は?
◇
わたしが何故、誰からも好かれないのか?或いは仮に、仮に一時(いっとき)好かれていたとしても、たちまち「正体がばれて」去って行かれるのはなぜか?
真っ先に考えられるのは「人に好かれるために自分を変えることを決してしない」ということだろう。
そういうと人は訝るだろう、「そんなにまでして守りたい自己ってなんだ?」と。
別に何でもない。わたしがわたしであり、他の誰でもないということ。それを守っているだけだ。高価な宝石を必死に守っているのではない。ちょっとかたちが違う石ころを後生大事に抱えているだけだ。
石ころに価値はない、けれども「あれともこれとも違う石ころ」であることに価値があると思っている。
第二に思想・信条が極端に異なる人と決して妥協しないということ。
例えば「自殺」ということに対して不寛容な人間と握手することはできないだろう。
◇
嘗て「美こそわたしの宗教だ」と書いたが、「差異こそわたしの信仰だ」ということを付け加えてもいいだろう。
けれども、その「違い」が、残念ながら人に好かれるような「相違」ではなく、逆に「人を遠ざけるような違い」であった。
わたしを好きになれる人はいない。これはひょっとしたら大いに自慢できることかもしれない。
◇
わたしが今使っている「ブロガー」というブログには「フォロワー」を表示する設定がある。わたしが愛読(?)している英国人のブログには現在39人のフォロワーがいる。このブログを開くとき、いつもフォロワーが38人になっていないかとドキドキしてしまう。わたしが仮にそのブログの筆者だとしたら、消えた1人によって、とても心は平穏ではいられないだろう。何故彼(或いは彼女)は、わたしのブログのフォローを止めたのか?
何故?何故?何故・・・?
その時わたしの頭には、いま現在もフォローし続けてくれている38人の存在などすっかり見えなくなっている。否、消え去っている。
見ず知らずの「消えた一人」が、現実に残った38人の「存在」をはるかに上回る圧倒的な存在感を持って、その「不在」を突き付けてくるのだ。そしてわたしは思う、
「次は誰だ?」
ある日ページを開いたら、フォロワーがみないなくなっているのではないか?
わたしは『めまい』のジェームス・スチュワートのように奈落に落ちてゆく感覚に囚われる。
◇
フェイスブック以前のSNSで友だちだったアメリカの(当時)20代前半のアート好きの女性と話したときに彼女がいったことが印象に残っている。
" Im afraid when people stop loving me?"
「いつ人がわたしを愛さなくなるか、そのことがこわい・・・」
これはいかにも20代のアートの好きな繊細な女性ならではの感覚、センシティヴィティーと言えるかもしれないが、わたしは50代の今に到るまで、この感覚を持ち続けている。
「何故かある日突然誰からも愛されなくなる恐怖」・・・しかし彼女の発言を裏返せば、「今わたしを愛してくれている人たちが・・・」という意味が隠れている。
わたしはそのような感覚も関係も持ったことがないので、正確には彼女と同じとは言えない。
そう、わたしはアンジェラと同じではない。
わたしは好きになられることがこわい。
"I'm scared someone started likes me. coz I can't stop thinking about when he / she leaves me? "
Ella Fitzgerald - Bewitched, Bothered, and Bewildered
エラ・フィッツジェラルド「魅惑されて」(1956年)
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