Kさん、ひょっとしてこれを読まれているでしょうか?もし読まれたら、どのような気持ちになるでしょうか?
最近のわたしは、体力・気力の著しい衰えと共に、何事につけ判断に迷うようになりました。それは既に、何度もここに書いている「生きる 生きない それが問題だ」という最も根源的な、「存在すること」への迷いから派生しているのかもしれません。
長きに亘るこの鬱屈も、外に出ることが出来ないという状態も、元をただせば、10年前に親友を失った(正確には去られた)ことに端を発しています。
彼女がいたとき、(という言い方は、或いは誤解を招くかもしれません。わたしたちの関係は、異性の友達というよりも、寧ろ兄ー妹といった関係により近いとお互いに思っていました。アメリカの写真家、ユージン・スミスの 'The Walk to Paradise Garden' という写真に写された、幼い兄妹の姿、それが「わたしたち」の関係のシンボルでもありました。
生涯に持ったただひとりの親友・・・といっても、あのような終わり方をしたのですから、彼女がわたしたちの(或いは彼女自身の)6年間を、全くの無駄だったと思っていたとしても、それは仕方のないことです。
いずれにしても、友だちを失った年月が積み重なるほどに、わたしは外に出なくなりました。そして繰り返しますが、「再び友を持つ日」こそが、再生の日だと、これまで信じてきました。
けれども、ではわたしのいう「友」或いは「親友」とはどのような存在でしょうか。
わたしはほんとうに「友達」を求めていたのでしょうか?それとも、失った「あの人」を求め続けていたのでしょうか?
ご存知かもしれませんが、ヴァン・モリソンの歌に「サムワン・ライク・ユー」というバラードがあります。" I was looking for someone, someone exactly like you..."
「わかるかい?ぼくはずっと君のような人を求めてきたんだ」
しかしひょっとして、わたしの求めつづけているのが、「サムワン・ライク・ハー」
であるとしたら・・・
'Someone exactly like HER'は、この世界には存在しません。そしてそれを求めている限り、わたしは永遠に救われることはありません。
「友達」或いは「親友」(ソウル・メイト)の定義は人それぞれでしょう。
ではわたしにとって、友だちとはどのような存在でしょう?そう、より正確に言うなら、「彼女ではない友達」とは・・・?
友だちとは、わたしにとっては、「第二の自己」といってもいいし、「生きてゆくのに必要不可欠な支え」或いは「わたしを真にわたしたらしめてくれる存在」・・・
一方で、相手の側から見て、わたしとは何者でしょうか?わたしは友にあれこれ求める。
けれども友が、わたしの友であることで得られるものとは一体なんでしょう?
特に今のように、「廃人」・・・とまでは「まだ」行かずとも「心身ともに重く病んだ人」であるわたしの存在とは、他者にとってどのような意味を持つのでしょうか。
わたしは昔から自分を「愛されざる者」であると見做していました。(「愛されざる者」という表現は、当時彼女が、しばしば自身のことをそのように語っていたので覚えたのです)
彼女はわたしにとって世界でした。そして「友」とは、わたしにとっての「世界」です。
けれども彼女にとって、わたしは果たして何だったのでしょう?
わたしは、「嘗て友だちと呼んでいた人」を知っています。けれども、「友達」「親友」とは何かを知りません。知らないで求めている滑稽さを、どうか笑ってください。
わたしは人にいったい何を求めているのでしょう?
求めるも何も、この世界にわたしと話の通じる=心の通じ合う人が存在するのだろうか?
そんなことを今更ながら思います。
毎日が苦しくて仕方ありません。死を考えない日はありません。
そんなことを意識していなかった時、独りではあってもまだ自由に外を出歩けていた時、わたしが40歳の時、彼女は現れ、後に、何故わたしの友達になってくれたのかと尋ねたとき、彼女は答えました。「あなたを死なせたくなかったから」
Kさん、もしこれを読まれていたら、さぞかし鬱陶しく重苦しく感じられることでしょう。
わたしは今、何を求めているのか?また「求めるもの」と「求め得るもの」の差が余りに大きい時、または異なる時、わたしはどうするのか?
そもそもこの期に及んで、まだわたしは、何か、或いは誰かを求めているのか?それすらも、もうわかりません。
ほんとうは、耳の尖った口の裂けた、ボッシュの絵に出てくるような小人が肩に乗っかって、わたしの耳元で小声で話しかける日を、心秘かに待っているのかもしれません。
もう何も考えず、何も感じずにいられたら・・・
狂気とは、もうこれ以上進行することのない心痛である・・・
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