2018年10月1日

「懐かしい風景」の「書き割」感…


先月海辺の町へ引っ越していったKさんから便りが届く。多分訪ねて行く事はないだろうが、イラスト入りの手書きの地図が同封されていた。
駅の改札を出て、踏切を渡り、商店街を抜けて少し歩くと、Kさんの新居・・・(といっても2DKのアパートだが)があるらしい。
駅前の商店街のとっつきに揚げ物屋、というのだろうか、コロッケやカツ、アジフライ、サラダなどを売っている店があって、夕方になると、下校途中の中・高生が、ファストフード店感覚で立ち寄り、「チーズ入りカツください」と、白い割烹着を着た店のおばさんに声をかける。「持って帰るの?今食べるの?」「今食べます!」
そんなやりとりがあるという。そこでは焼き鳥も売っているらしく、先日Kさんが焼き鳥を二本頼んだら「ハイ。焼き鳥二本ね!二本!」と大きな声で言われて恥ずかしい思いをしたと書いてあった。

わたしが大田区の馬込に住んでいたときにも、「馬込銀座」という商店街の入り口に「天勝」という揚げ物屋があって、時々揚げたてのコロッケやメンチカツを買った。串カツもおいしかった。しかしその店も、わたしが10年前に郊外に引っ越してから数年たたずに店仕舞いしてしまった。

わたしがKさんの便りを読んで感じたのは、そんな店がまだ残っているんだ、という懐かしさではなく、なんというか、もっと不思議な感覚だった。
わたしは外に出ることはないが、仮にそういう昔ながらの風景をどこかで目にしたとしたら、わたしはきっと「うれしい」「懐かしい」とは感じないだろう。
かつてわたしが、その風景の中で生きてきた世界は、とうに失われてしまっている。そんななかで、突然当時のままのような街並みや、店、建物に出くわせば、真っ先に感じるのは、おそらく強い「書き割感覚」だろう。
仮にその店一軒だけではなく、昔ながらの商店が並んでいたとしても、その一帯がすべて書き割り染みて見えてくるはずだ。

わたしは自分のブログに 'A man with a past ' 「過去と共に生きる男」或いは
'Clock without Hands ' 「針のない時計」=時が止まっていること・・・などというタイトルをつけるくらい、「今の時代」に適応できない人間だ。
けれども、好むと好まざるとにかかわらず、今・現在に存在しているわたしが、「むかしのような店」や「時が止まったような場面」に出会った時、奇妙な「演出感」を感じるのは不思議ではないだろう。

そしてそのような、かつては庶民の日常生活とまったく地続きであった店や場所が
特別視されることに強い抵抗を覚える。一昔前、どこにでもあったような喫茶店や食堂、蕎麦屋、ラーメン屋、そして木造住宅が、なにやら貴重なアンティークのように扱われ、もてはやされているのが、ひどく軽薄に思え、不快なのだ・・・

極めて端的に言えば、昔ながらのものが今尚残っているというのは、何処か奇妙で、不自然で、芝居めき、書き割り染みていて、馴染めないのだ。
骨董品など、時代がついていることが第一の価値である品物以外の、あらゆる種類の有形無形の「古さ」・・・それは最早「現在の現実」にはありえないはずである。「過去」と「現在」が同一の次元(同じ時空間)に共存し得る筈はないのだから。

ところで、昨日の内科での健康診断で、風邪をもらってきたのだろうか、それとも滅多に外に出ることがないのに外気に触れたので体調を崩したのだろうか、風邪気味である。
すると母が、温かいうどんやおじやをこしらえてくれる。まるで昔の母親のように。
わたしはふと、この人は本物の母親だろうか?と思う。だってまるで昔のままだ・・・


◇◆◇


昨年、わたしはこのような感覚をショート・ショートに書いたことがある。
これが今のわたしの「現実観」なのだ。


「駄菓子屋さん」

「ただいまあ。」
元気のいい声とともに子供たちが小学校から帰ってきた。ランドセルを放り出すと早速妻のいる台所へとんでいき10円をねだる。天気のいい日はほぼこれが毎日の光景になっている。
「ほんとうにしょうのない子たちねえ・・・」と妻はいいながら、買い物かごからがま口を取り出して兄弟にそれぞれ10円づつ手渡し、玄関に向かって駆け出してゆく子供に「あわてて落としてももうあげないわよ!」と笑顔を見せる。

子供たちは帰ってきたばかりの小学校への道を引き返してゆく。目的は小学校の隣にある駄菓子屋である。そこは子供たちの間で「ばあちゃんち」── この場合「ばあちゃん」は、「おばあちゃん」のような発音ではなく、「ばあ」の、「あ」の字にアクセントがつく──と呼ばれている。
そこで子供たちは10円で買い物をしてから土手の方へ遊びに行くのだ。

おばあさんがいつもお店にいて品物を売っているので子供たちが勝手にばあちゃんちと呼んでいるだけで、この駄菓子屋に決まった屋号のようなものはない。木造の店の中にはおおきなガラスの瓶に入ったいろいろな色のお菓子やおもちゃが並べられている。タコ糸のようなものが付いた三角錐の形をしたあめや、麩菓子、薄くて丸いウェハースのような桃色のせんべいに、あんずのジャムをつけて食べるおかし、赤や青や黄色い色のセロファンにくるまれていて、口の中に入れるとシューっと泡立つラムネ菓子。その他にもめんこやビー玉、ベーゴマ、女の子たちがゴム跳びに使うゴム紐や、縄跳びのなわも売られている。店の奥には正月の売れ残りだろうか、埃をかぶった凧がぶら下がっている。

わたしは子供たちが出て行ったあと、なんとなく自分もその店に行ってみたくなった。

「こんにちは」わたしは駄菓子屋の店先に立った。
「へえ、いろんなものがあるんですねえ。懐かしいなぁ!」
ばあちゃんは「いらっしゃい」と言ったきり終始ニコニコしているだけで余計な愛想はなにも言わない。これがいいのだ。
「何かお探しですか?」とか「こちらが子供たちに人気の飴です」などというどこへ行っても聞かされる型どおりの接客は聞き飽きた。
わたしは店の奥にチラと眼をやる。奥は座敷で、店との仕切りになっているガラス障子の内側には、上に人形の置かれたテレビ、柱時計、○○酒店と書かれているカレンダーなどが目に入る。柱も、長押も、天井も、佃煮のような色をしている。座敷の向こうには小さな庭があるようだ。つつじや椿の木などが見える。

わたしは数枚の、今は無くなってしまったチームの野球カードと店の片隅の棚でやはり埃にまみれていた豪華客船のプラモ、そしてあんこ玉を買って店を出た。

小学校の校庭にすでに人の姿はなく、ばあちゃんはわたしが店を出ると店の前に出していたすっかり塗りの剥げた丸椅子を片付け、飼っているのだろうか、時々この辺りに見かける白黒のぶちねこの頭をなでながらガタガタと店の戸を閉てている。

町内のスピーカーから「夕焼け小焼け」のメロディーが流れる。

あんこ玉を口へ運びながらわたしはふと思う、もし、まだ十に満たない子供たちが「ばあちゃんち」が、「ジュブナイル Co. Ltd」という企業が、全国に展開しているチェーン店で、あの「ばあちゃん」も、「派遣社員」だと知ったらどうだろうか?おそらく彼らはキョトンとするだけだろうし、チェーン店や「ハケンシャイン」の意味も分からないだろう。だから夢が壊れるということもない。ちょうど毎年夏に近所の小川で採ってくる蛍が、わたしたちの住む市と、地方の自治体と連携して「養殖」しているホタルであることを知らないように・・・

わたしはジュブナイル株式会社製のあんこ玉を頬張りながら、プラモの箱に吹き付けられた、古道具屋の演出用に販売されている業務用「人工埃」を「フーッ」と一吹きして家路についた。
え?箱の中身だって?もちろん「ホンモノの模型」さ・・・









4 件のコメント:

  1. 何度かコメントを書いて、送信できなかったので、もしかしたら何通にもなってしまうかもしれなくてすみません。

    はじめまして。

    「駄菓子屋さん」のお話は、私がずっと抱えてきた、自分の中と外の大きなずれの不快感の正体だったように感じました。

    「全部偽物なのに、それに反応しなくてはならない」というのが、私の苦痛でした。
    表面的な物事が頭の上を滑って行くような。
    その「作られたもの」の偽物感にどの人も気がついていないように感じて、とても居心地が悪く感じていました。

    私は外の世界に興味はありません。
    なぜか、ここに存在していてはいけない気がするのです。
    私は人が怖いです。画一化された「同じにしか見えない均等な雰囲気と行動と思考」が、生きている感じがしなくて・・・

    「駄菓子屋さん」を読んで、この社会の偽物感のカラクリの発端を見つけたようで嬉しかったです。

    あなたのブログは落ち着きます。
    ありがとうございます。

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    1. はじめまして、電子うさぎさん。

      古くから他のサイトで知り合った人以外で、純粋にブログで初対面という方ははじめてです。
      よくまあこんな奇妙な、特殊なブログを見つけましたね(苦笑)

      もし他の記事も読んで下さっていたらお解りと思いますが、わたしの問題も、自分の感受性・美意識と、外界のそれとの齟齬にあります。

      「フェイクであることに誰も気づいていない」というよりも、そもそも「本物 / 偽物」という概念自体がないのではないかと思います。つまり目の前に便利なモノがある。それを使う。ただそれだけのことではないのでしょうか?

      わたしの「本物」の基準というのは、若かった頃、そして40代=2000年前半までの外界の様子です。それを基準に世界を視てしまいます。ただ、わたしは自分自身が極めて特異な存在だと思っているので、何故皆がわたしのように感じないのだ?という憤り(?)のようなものは持っていません。
      たった一人で、この感性を、ある点で持て余しつつ、放棄はすまいと思っています。

      人がみな
      同じ方向に歩いてゆく
      それを横目で見ているこころ(啄木)

      そんな感覚は昔からありました。均質性、同一性の怖さは、わたしにもわかります。

      「駄菓子屋さん」まで読んでくれてありがとうございます^^
      なにかの考えるきっかけにでもなればなによりです。

      電子うさぎさんのブログも随分凝った作りになっていますね。
      まだ自己紹介を拝見しただけですが、少しづつ覗きに行きます。

      わたしのブログは落ち着きますか?
      こういう性格ですので、なるべく「攻撃的」にならないようにしているつもりですが、根底に現代社会、人間への「怒り」「絶望」の要素があるので、それが滲み出ているかもしれません・・・

      気が向いたらいつでも思ったことを書いてください。
      コメントの重複は気になさらずに、その場で反映されない場合はも一度試してください。いっぱいになってしまったら、後で同じ投稿を削除すればいいだけですから。

      コメントをどうもありがとうございました^^

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  2. こんばんは。Takeoさんのブログは、どうやって辿りついたのか分からないのです。

    何処かの誰かがリンクを張ってくれていたのだと思います。

    私は、検索エンジンとは仲が悪くて、なかなか使いこなせません。
    検索エンジンで引っかかるキーワードを知らないのだと思います。
    なので、Takaoさんのブログは、道々、人に尋ねながら辿り着いた感じです。

    まだすべてのブログ記事を読んでいないのですが、「あ、ここにおりましたか?」と、勝手に嬉しくなりました。

    私も、しっかりとした肌で感じる記憶や、感覚を肌で感じていたのはデジタルがまだ一般的ではない時まででした。
    それ以降は、自分の足が動かないというか、そこでスタックしてしまった感じです。

    それらの激流から逃れる為に、10年ほど前に海と山しかない場所に避難してきました。
    それでもネバーエンディングストーリーの「虚無」は近づいてきていて、「これ以上向こうは海だから逃げられないよ」と、困っています。

    私もスマホの普及のスピードにとうとう追いつけなくて、一応持っているのですが、時々電池がカラになっていますよ。
    SNSは海外の人との連絡用と、なぜか、タンブラーです。気楽です。
    (日本独特のルールが無いからです)

    そうか・・
    偽物と本物の区別という概念さえない・・・。
    心に触れる前に、目の前にある物で用が済んでしまうのですかね。
    星新一の世界ですね。

    Takeoさんのブログに渦巻いている苛立ちや怒りは伝わってきます。
    それも、直球で。
    かなり小気味が良いです(^^)

    私のブログにも立ち寄って下さったのですか?
    凝った作りのテンプレートに手を加えただけですが、そう言って頂けると素直に嬉しいです。

    武蔵野も変わったでしょうね。
    以前、一瞬、西国に住んでいた事がありまして・・・
    それでホッとしたのかなあとも思います。

    自分が異物になってしまった感覚を言葉でどう表現したらいいかと考えあぐねていたら、お会いできました。
    私は人が怖いのに、やっぱり、誰かを探してしまうのでしょうね。

    はい、気が向いたらお邪魔します。
    こちらこそありがとうございます<(_ _)>

    丁寧なお返事に気をよくして、また書いてしまいました。
    本当に、心地が良いんですよ。

    では、また参りますっ

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    1. こんばんは、電子うさぎさん。

      普通は(?)ブログのコメント欄で「対話」するということはほとんど見かけませんが、わたしはここで延々と話すことに抵抗がないのです。こちらも読んでくれた人に疑問がある以上はできるだけ答えたいし、逆にわたしが思わぬ視点を得ることもあります。その点で、回数に関してはお気遣いなく(笑)

      わたしはブログ村のメンタルヘルスのカテゴリーのブログをいくつかフォローしていますが、それ以外でも、わたしの知る限り、このブログをリンクしているサイトというのを見たことがありません。唯一、「哲学カテゴリー」のqinggengcai「青梗菜」さんがリンクしてくれていますが・・・

      わたしは基本的に「ケンサク」というものをしないんですよ。アートを除いて。
      特に検索したいことがないからというのが単純な理由ですけど。
      最近の投稿を読まれていたらわかりますが、わたしもタンブラーをやっていて、それに投稿する絵や写真をイメージ検索します。
      フェイスブックもやはり海外の友達が多いですね。

      「人が怖い」を、もう少し厳密に言うと、わたしは日本人が怖いですね。
      ちょっと覗いただけで正確ではなく、申し訳ありませんが、わたしは日本語=母国語では人と通じ合えないと感じてるんです。
      片言の英語で書いている自分は、明らかに日本人であるわたしよりも、自由で、もっと自己肯定感も高い。

      その辺も確か記事の中に書いてあると思います。(苦笑)
      話す言葉によって人格が変化するというのは実感としてあります。

      西国近辺、というよりも、武蔵野線のガードを超えた、国分寺、「お鷹の道」辺りが「開発」され、随分変わってしまいました。

      わたしは現実に自然の中に住むことができないので、せめて、絵の中に逃避しています。

      人嫌いでも、完全な孤独にはなれない、そんな気がします。細い糸のようでも繋がりが欲しいと思うのではないかと、わたしの個人的な感想ですが。それに、心底からの人間嫌いと話せるかどうか?それも人によるかな・・・

      わたしは広告が目障りなので「ブロガー」を使っていますが、電子うさぎさんのブログも広告がなくスッキリしていますね。
      これまでに出会ったことのないブログです。

      少しづつ、拝見していこうと思います。「異物になってしまった」ということが、どううことなのか?など。

      いつでも気軽にお越しください。^^




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