2018年10月21日

惑乱の中から…


5日前の火曜日に、久しぶりに外で人と会って話した。3年ほど前にフェイスブックで知り合った人で、昨年3月に新宿のジャズ喫茶へ、そして4月には、実に7年ぶりに美術館(渋谷Bunkamura)に誘ってくれた、というよりも付き添ってくれた人だ。
奇しくも10年前に別れたわたしの「親友」と同世代だ。

その後、また美術館へ行きましょう、夏にはこちらに越してくる前の地元といっていい大田区池上本門寺に行きたいから付き合ってください。などと言っていたが、わたしの体調が優れず、会う機会のないまま夏が往き、秋が過ぎ、冬が訪れた。その頃からわたしは精神科への通院を中止し、それとは無関係だとは思うが、心身の状態は悪くなる一方だった。

「外で会った」といっても、彼女がわざわざ電車を乗り継いで、約1時間ほどかけてこちらの最寄り駅まで来てくれたのだ。わたしは今年に入ってからまだ電車に乗っていない。
隣の国立や国分寺に比べて、何も無い谷間の町だが、一応駅前には「ロッテリア」「E PRONT」「ドトール」などがある。だがどこも「分煙」で、今はちょっとしたタバコの臭いにも過敏になっているので、「サンジェルマン」のイートイン・コーナーを選んだ。

結論から言うと、友達の存在こそがわたしの外出困難(ひきこもり)にとって、なによりの薬であるという説は間違いではなかった。けれども同時に、わたしの日々の生活の中で、彼女と会って話したその時間だけが、光を浴びて虹色に輝くしゃぼん玉のようにふわりと浮かんでパチンと弾けたように、わたしの毎日は相変わらず煩悶と屈託に雁字搦めにされている。

これまでの人生で、学生時代を除き、殆どの歳月を孤独の裡に過ごし、40代ではじめて心の友と言える人と出会い、6年という月日を共にした。そして今、わたしの体調を気遣い、出られないのならせめて最寄りの駅までこちらから行きますと言ってくれる人が現れた。けれども今、わたしの心を占めているのは、新たな友情へ期待することへの怖れなのだ。以前の友達との6年間もの交流も、一重に彼女の、極端な表現をするならば、振り払ってでも齧りついてくるほどの気持ちの上に成立していた。
暴力的なことは勿論、声を荒げたことさえないが、不機嫌になるのも、先に帰ってしまうのも、相手の気持ちを傷つけるという意味で、静かな暴力に等しいというのなら、わたしはわがままな暴君であっただろう。
そういう意味に於いて、「振り払ってでも追いかけてく(れ)る」ようなことは度々あった。

極端に自己肯定感が低く、劣等感に溺れ、言葉による自傷行為に耽る癖のあるわたしのような者にとって、他者との「対等の関係」というのは、おそらく築くことはできない。「このわたしがいったい誰と『対等』であろう?」という強い思いが底流に流れているからだ。
だから、だからこそ、押しのけても、無視しても、あくまでもついて来てくれた彼女のような存在があって初めてわたしは人と繋がることができていたのだ。
それは正にユージン・スミスの' The Walk To Paradise Garden 'の幼い妹が、べそをかきながらでもお兄ちゃんの後を追いかける姿と二重写しになって見える。

けれどもそんな、聖なる愚か者は二度と再び現れない。わたしにはほんとうに、何もないのだ。
わたしは以前の彼女の「あなたを死なせたくなかった」という真情も、またスマホ嫌いを公言して憚らないわたしに、自身、インスタグラムに投稿するのが大好きでありながら、わざわざ細かい心配りをして、場所も時間もわたしの都合に合わせてくれた先日の友人にも心から感謝している。

しかしわたし自身が、当時とはまるで変ってしまった。10年前までは、わたしはまだひとりで自由に外を歩けていたし、今よりも・・・つまり、もうわたしは老いぼれてしまい、仮に、仮に同じような人が現れても、共に出来ることがほとんどなくなってしまっているのだ。

この10年の間に急速に変わった外界に無惨な穢土を見、自身もろとも、人類の滅びを切望するようになった。平和を願い続けていた先の友は、人類の全き滅亡を望むわたしの変貌ぶりを果たしてどう見るだろう・・・

わたしは迂闊だったかもしれない。言葉の本来の意味で「友」という名に価する人物さえ現れれば、わたしは再生できるかもしれないと考えていた。
けれども、現実には、わたしと外界との間には、のっぴきならない隔たりが出来てしまっていたのだ。

自覚的には、わたしはもう日本人でないどころか、地球人ですらないと感じている。

わたしはいま、ただただ混乱している。どれほど強い愛や友情でも、癒し得ない汚辱というものがあるのか?或いは、真にその名に値する「人間」は、まだ地上に存在しているのか?
つまり・・・つまり・・・わたしは如何にして生きたらいいのか?また如何にしたら本来の意味で人間らしく生きることができるのか?




わたしが読んでいる同い年の鬱病の方のブログ、ていへんかけるたかさわるに
の今日の投稿「友人と会う」との内容の違いはどうだ。わたしのいつもの言い方をすれば、彼は病んではいるが狂ってはいない。至極真っ当な、健全な鬱病患者だ。
















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