2018年10月12日

風樹の嘆…


● 自分を「狂人」乃至「狂(たぶ)れている」と主張することは、「卑屈」とは全く逆の、自分を楽にする方法なのだ。もうこれ以上落ちる(堕ちる)ことのない、泥まみれになって地べたに這いつくばっているような存在。人であって人でない「人外(にんがい)」的存在。自分をそのように規定することで、嫌われること、遠ざけられること、眉を顰められること、唾を吐きかけられることにも堪えられる気がする。何故ならわたしは「あなた方と同じ人間ではない」と自らに言っているのだから。

● どうしても人と繋がることができない。他人と心理的に、また物理的に接近しても、磁石の同極のように、どうやっても触れ合うことができない。そんな感覚が常に私の内側にある。健常者、障害者の別なく、繋がることができない。
「繋がる」というのがどういう状態を指すのか、自分でもよくわからないが、いつでも「すきま風」にさらされているような心細さ、冷え冷えとした感じ・・・
いや、人と人とが完全に一体化することができない以上、「すきま風」的空虚は、誰もが少なからず感じているはずだ。
そうではなく、もっと、手の、届かない感じ。絶対に超えることの出来ない隔たりが、あらゆる「他者」との間に横たわっているような感覚・・・

● 思考力の著しい低下。

● エミール・シオランの『生まれたことの不都合について』、ジャン・コクトーの『ぼく自身、或いは困難な存在』わたしにとってこれ以上にピッタリくる書名はない。



● 心が落ち着くような絵がいいか、或いは内なる衝動を対象化したような激した絵がいいか・・・その時々の気分に因るが、いずれにしても、穏やかな日差しに充たされた印象派的な絵画でないことは確かだ。日蔭者のわたしにとっては・・・

A Moonlit Lane, 1874, John Atkinson Grimshaw. (1836 - 1893)


Man in a Storm, Theodore Major. (1908 - 1999)


● 明らかに上のテオドール・メジャーの影響を受けた英国の70年代生まれの画家の作品

Desolate Northern Town by M P Elliott.

「荒涼とした北の街」M. P. エリオット
わたしはこういう絵を観ても、寒々しいとか、索漠、孤独、寂しさという感情を覚えることはない。
なぜって、これはそのままわたしの心の内側の世界を表現したものだから。
一木一草生えてはいないが、それがわたしにとっての外界なのだ。
・・・いや、それは正確ではないかもしれない。何故ならわたしはこの絵に描かれたような「廃墟」の上なら歩けるような気がするから。

自然もない代わりに人間もいない。
静寂の中、風の音だけがする。

嘗ては知らず、今は「群衆の中の孤独」など真っ平御免だ。
「群衆」・・・顔を持たぬ人々・・・心を持たぬ人の塊・・・プラスティックの板に魂を抜かれた人体・・・
それならいっそ何もかも消えてしまえばいい。

嘗てはわたしの心象を表現する絵としてカスパー・ダヴィッド・フリードリッヒの絵を挙げていた。けれども、今は、多分上の絵の方がわたしのこころを正確に表しているように思えるのだ・・・


A Walk at Dusk, 1830, Caspar David Friedrich. Germany (1774 - 1840)

この二枚の絵に現れたわたしの内面の変化は、いったい何を意味しているのだろうか。
厭離穢土?最早自然さえも含めてすべてが滅べかし、という想い?


樹静かならんと欲すれども、風やまず・・・








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