2022年1月18日

ぼく自身 そして困難な存在...

下のような投稿が嫌いではない。ここ数日の「穏やかな」投稿も、確かにわたしの内面の記録に他ならない。けれども、このような一連の投稿を以て事足れりとしているわけではない。「わたし」という「困難な存在」から、「憎しみ」や「怒り」が揮発してしまったわけではない。わたしは・・・このブログは、常に「嚢中の錐」でありつづけたいと思っている。

けれども、怒りや怨恨の対象が家族に向かう時、わたしのペンは動きを止め、キーを打つ指先は拳をにぎる。

わたしは苦しんでいる。常に「死」という観念と背中合わせに、隣り合わせに生きている。
ここ(立川)に移って来てから14か月が経ち、わたしは既に限界を迎えている。ここにいる限り、早晩病か自殺がわたしの生命を奪うだろう。「だから」わたしと母は、ここから、外に出ることのできない環境からの脱出を考えている。また引っ越すのだ。けれども、「ここ」から「あちら」へ移動すればすべてが解決するわけではない。
ここで外に出ることができない主な理由は、最寄り駅である「立川駅」に行くまでの約20分間ほどのバスの車内アナウンスの狂気じみたうるささにとても耐えられないからだ。過去に何度も書いたように、耳栓をして、その上に工事現場で用いる遮音用のイヤーマフを被っても、車内に流れる「横断歩道を渡るときには・・・」などという馬鹿げたアナウンスが、耳栓をした耳孔に忍び込んでくる。これも繰り返し書いていることだが、何故日本人は、横断歩道のわたり方からエスカレーターの乗り方まで、いちいちその都度教えてもらわなければならないような幼稚な国民の集まりなのか?


一事が万事で、わたしという「剥き出しの神経の束」のような人間は、東京という街の中のほとんどあらゆる「音」「ニオイ」「光景」が醜悪に感じられる。

例えば次に引っ越した先で、隣からテレビの音が聞こえてきたら?
窓を開けて、タバコのニオイが漂って来たら?
誇張ではなくわたしはもうそこには住めないだろう。

わたしは生きることに向いていない。
少なくとも人の密集した東京のような大都市で生きることはほとんど不可能に近い。


昨年11月に家族の事情から・・・主に弟との不和から、弟が住んでいた、「ここ」に交代して移り住んだ。不和の理由の一つに弟の喫煙がある。弟は嘗て、「禁煙」を試みたことが一度もない。何故か?医者に止めた方がいいと忠告されたことがないからだ。依存症である。母の言うことなど聴く耳は持たない。なによりも「タバコを吸うこと」以外にすることがない。

彼は30代前半に、統合失調症と診断され、2級の精神障害者手帖を持っている。
彼の無気力・無関心は病気に由来するものなのか、或いは生来のものなのか?それは母にもわたしにもわからない。彼とほぼ同世代の弟の主治医が、何故こうも「まったくなににも関心がないのか?」というわれわれの疑問に答えてくれるとは思えない。「医者を替えたら?」という母の勧めにもニベもない。


木村敏は『異常の構造』の中で、

彼らが場違いに繊細な感受能力を持って生まれてきたという運命が、すでにその時点において彼を分裂病者として規定していたのかもしれないのである。
(下線Takeo)

と述べている。だとしたらわたしこそ「統合失調症」(=分裂病)ではないのかと考える。「極度の繊細さ」「自明性の欠如」── わたしは少なくとも「木村敏の描く分裂病患者」の特徴を色濃く持っている。
弟はわたしの知る限り、昔から「音」にも「ニオイ」にも「色彩・光」にも、敏感でも過敏でもない。


わたしがどれほど嫌がっても、弟は喫煙を止めない。そしてまた、来る日も来る日も「なんにもやることがなく」ても、わたしのように頭を抱えたりはしない。
スマホを見てはなんとか時間を潰しているようだ。


「何故きみではなくわたしが?」── その想いを弟に対して抱いているかもしれない

「きみは毎日を為すところ無く「無駄」に過ごしている。そう。わたしにはきみは人生を「無駄」にしているとしか思えない。「生きられない・・・」という苦悶・懊悩も見られない。すべては病気に原因があるという確たる診断もない。何故わたしは、キミの犠牲にならなければならないのか?
わたしが「ここ」に戻ることができれば、(保証はないが)もっと人間らしく、自分らしい生き方ができるのに。何故って、ここは、(キミさえいなければ)窓からタバコのニオイが漂ってくることもないし、周囲の住人の立てる音に悩まされることもない。隣も、そのまた隣も、階下も、年配の女性が住んでいる・・・」

「キミがわたしのためにここを明け渡してくれたら・・・」

けれども、そうは言えないのだ。何故なら、現実に数年間(6年間?)彼は「ここ(立川)」に「わたしとの接触を避けるために」住んでいたのだから。

じゃあ何が問題なのか?

「やることがないので暇を持て余し、唯一の話し相手である母のいるここに毎日毎日通って来るから・・・」無論タバコは自分の住んでいる場所でしか吸わないということもない。

だから、今現在の状況があるのだ。


「きみはわたしがどうしても戻りたいという場所に住みながら毎日いったい何をしているんだ?せめてわたしが他所ではできないこと・・・人間らしく、自分らしく生きてくれているのなら我慢も出来るが、何故きみはあらゆることに無関心なのか?何故「スマホ」と「タバコ」だけで生きていられるのか?きみの人生ってそんなものなのか?」

その答えは永遠に誰からも得られることはないだろう。
父同様に、弟という存在も、わたしと母にとって、家族でありながら決して内面を窺い知ることのできない謎の存在であった。せめて、パスカルのいうように、「理解することは、許すことだ」(To Understand is To Forgive...) という「救い」でもあれば ── 弟の内面を、その心中を、言葉にできぬ(ならぬ)苦しみを垣間見ることができたなら・・・

もしきみに、重苦しい生の倦怠も、底知れぬ厭世観も、筆舌に尽くせぬ人間存在への不信もなく、音も、ニオイも、スマホも気にならないなら、もっと、もっと自由に生きてくれ!
わたしができない分も。






 


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