2022年1月12日

「空室アリ」(或いは「予め失われている自明性...」)

日本国中・・・仮に東京都に限定しても、住居の形態は問わず、すべての部屋に人が住んでいるということはない。しかし一方で、この凍てつく酷寒の夜に、路上に身を横たえている人が存在する。
これはいったいどういうわけだという問い掛けは、余りに愚か、あまりにも噴飯ものなのだろうか?

それは何故?

およそ「クニ」「国家」というものにとって、ひと(=国民)のいのちとはいったい如何なるものなのか?

10メートル、20メートル先に空き室が2つもあるアパートがありながら、冷え切ったアスファルトの上に段ボールを敷いて、新聞紙とボロ布を纏って横にならなければならない人がいる。その10メートル、20メートルは、われわれにとって遥か銀河の彼方の星への距離に等しい。

「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する ──」

何故日本国憲法には「嘘」が多いのか・・・ 


娘が訊く:「ねえ、ウチの隣のいえって、誰も人が住んでないよね」
父親:「ああ、ながいこと空き家になってるね」
娘:「さっきベンチで寝てた人、とっても寒そうだったけど、隣の家に住めないの?」
父親:「それはできないよ」
娘:「どうして?」
父親:「どうしてって、説明するのは難しいよ・・・」
娘:「夜になって寒くなったらあの人凍えて死んじゃうかもしれないんだよ!」
父親:「それは可哀想だとパパも思うけど、法律で決められたことなんだ」
娘:「法律と人のいのちとどっちが大事なの!?」

子供の「微笑ましい無智」、言い換えれば「真っ当な疑問」を、自分は世間知を持つ「大人」であるからと、微苦笑を以て封じ込めてしまっていいのだろうか?

一方に空き室空き家があり、一方に無宿者と呼ばれるひとたちが存在する。
誰ひとりとしてその明々白々たる「おかしさ」「奇妙さ」「不思議さ」について疑問に思わないのは何故か?


この世界はわたしにとって謎に満ちている。そしてそれはわたし以外の人たちにとっては、いっかな「謎」でも「何故」でもないことなのだ・・・

(子どもにとってもまた、眼差しは未開の状態で存在している。)


ー追記ー

「生活保護」を万能薬のように考えないで欲しい。
再検証し考えるべきは、そのような制度がありながら、尚多くのデラシネたちが存在するという現実なのだから。













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