2021年4月30日

「愛するに価する生」と「愛するに価しない生」

子供の本などの翻訳をしていて、とても不思議に思うのは、欧米のNurseにぴったり当てはまることばが、日本語にないことである。ねえや、ばあや、子守り、乳母、看護婦など、時と場合によって使い分けるのだが、どうもいま一息しっくりいかない。それらをひっくるめたような含みのある単語がほしい。

しばらくまえ、テレビで、イギリスの重度障害児を扱ったフィルムを見たことがある。画面はその子の出産場面までさかのぼるのだが 、そのとき難産で瀕死の状態の産婦が、息も絶えだえに、「ナース、ナース!」とうめいたのが、いまでも鮮烈に印象に残っている。ほとんど「助けて!」にもひとしい絶叫に、このナースがあてられていたのだった。スーパーインポーザーはこれをどう処理するか。

 (略)

「ナースとはいつくしみであり、救いである。それなしでは人間が生きつづけられぬものの謂である。・・・あらゆる孤独な魂がひとしなみに求めるもの。それは母(マザー)でも神(ゴッド)でもない。わたしにいわせればそれこそナースなのだ」──この思いは近年ますます深まるばかりである。

ー矢川澄子『風通しのいいように・・・』(1983年)より「子守りとばあやと看護婦と(ルビにナース・ナース・ナース!としてある)」

「ナースとはいつくしみであり、救いである。それなしでは人間が生きつづけられぬものの謂である。・・・あらゆる孤独な魂がひとしなみに求めるもの。それは母(マザー)でも神(ゴッド)でもない。わたしにいわせればそれこそナースなのだ」

人間が生きてゆく上で不可欠な存在でありながら、神でもなければ母でもない者としての「ナース」。神という存在は、母という存在は、「わたし」という厄介者である「重度障害者」「精神的畸形者」を無条件で抱擁してくれるだろうか?あるブログで、ある女性は、わたしにそういう存在は現れないと言い切り、また同ブログの筆者は「引きこもりは人生に対する罪」であり「罰」であると言い切った、わたしはそれらの発言の根拠を再三求めたが、遂に何の返答も得られなかった。

重度の障害者であろうと、引きこもりであろうと、無条件で受けとめ、肯定してくれる存在は、わたしたちが人間という「限界」を持つ存在である限り、求めることのできないものなのだろうか?
神に愛されるためには、こちらが先ず神を愛さなければならないのだろうか?
「信じる者は救われる」とは畢竟「信仰のないところには神の愛もない」ということを意味しているのだろうか?

またもし、神を信ずる者であれば、無選別・無条件に愛されるのであれば、神はヨセフ・メンゲレも、カーティス・ルメイも信仰の名の下に彼らを愛し、赦し、抱擁するのだろうか?
いったい神の愛とは何で、神の愛の対象とは何によって決められるのだろうか?

では母は?母の愛とはどのようなものか?母はわたしに対して、親となった責任があるといった。それは母の中では「愛」とは別の次元に在る、自ら負った、或いは、重度障害者であり精神的畸形者を生んだことによって負わされた、生涯の十字架である。

先のブログの男女は、「愛されるに価する人間」と「愛するに価しない人間」が存在すると言外に仄めかしている。「わたしという存在を抱擁するものはあらわれない」「引きこもりは罪を犯している」彼らにすれば、わたしが愛されるに価しない人間であるという理由は、1時間かけても言い尽くせないことだろう。

矢川澄子のいう「それなしでは人間が生きつづけられぬもの」としてのNurseとは、職業としての、子守りや看護婦ではない、もっと形而上学的な存在であることがわかる。神や母という存在に同列と扱われるものとしてのナース。


わたしにとって、無条件でこのわたしという存在を、その汚れ、穢れ、歪み、そして愚鈍さをもひっくるめて包み込み、全肯定してくれる存在は、神でもなければ母でもない。
ではそもそも、「愛するに価する生」と「愛するに価しない生」とは何が違うのか?
何が、そしてどこがその境界線になるのか?

しかし仮にその一線が見えたところで、わたしはその「愛される側」の円の中に移動しようとは思わないだろう。わたしは今あるがままのわたしのままで愛され、全肯定されたいのだ。けれどもそれは限りなく背徳的で頽廃的なことであるだろう。
そして、もし、今あるがままのわたしを愛せるものが存在するとしたら、その者は、おそらくは「白痴」であろう。知的で、理性的な判断を下せるもの=「神」「母」「ナース」にわたしを愛する能力は備わってはいない。重度障害者、精神的畸形者は知的な者には愛せない。
何故なら、彼らは「社会の常識」を弁えているからだ。そしてその「社会的規範乃至常識を規準に」人を「裁く」。魯鈍さを、不器用さを、そしてまたその奇怪で特殊な内的世界を。

罪人を愛し、抱擁できるものは、善と悪との違いを知らぬ「白痴の愛」=「無私」の愛だけである。

「ナースとはいつくしみであり、救いである」

ではいつくしまれるためには、救われるためには、何か条件があるのだろうか?

最近読んだ誰かの本の言葉の中に、「生まれっぱなし」という言葉があった。

人は誰も「生まれっ放し」では愛されるに価するものには成り得ないのだろうか?
殊に、重度障害者・精神的畸形者であるわたしのようなものであればなおさら・・・


「ナースとはいつくしみであり、救いである。それなしでは人間が生きつづけられぬものの謂である。」

では何故わたしは「それなしで」いま、こうしてまだ生き存えているのか・・・












 

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