2021年4月16日

モラルなき国の、差別と表裏一体の「表現の自由」について

 
今回の一件で分かったことは、F2Cの回答にあった、「当該ブログの文言が、不法であるという判断に至らなかった」という説明である。わたしはF2Cのサポートに、再三、これらの発言に妥当性・正当性があるというのなら、その根拠を説明してもらいたいと要請してきた。決して「削除」「謝罪」を求めることはなかった。
 
さて、F2Cの言う「不法性」とはいったい何なのか?同時に不法性に当たらないと言うことは、その発言は「妥当性を持つ」ということなのだろうか?
これを言い換えれば、不法性に当たらない(と判断された)場合には、何を言っても構わないということになりはしないか?
ふたつさんの言葉を借りれば『勝手に不快感を感じた者にまで責任を感じる必要はない』と言うことになりはしないか?
 
言葉によって傷つくと言うのは、「不法」な発言であるからではない。「不当な」「いわれなき」ものであるからに他ならない。そもそも不法・妥当の判断は極めて恣意的で曖昧である。(現にそれはこの国の政治(司法)及び非人間的な企業の在り方を観ていれば一目瞭然だろう。)
寧ろ着目すべきは、正に「人は勝手に傷つく」存在であると言う認識の共有だろう。
『勝手に不快感を感じた者にまで責任を感じる必要はない』
ではなく、不本意にも意図せず傷つけてしまった相手に対し、ある時には謝罪し、ある時には、自分の発言の真意を説明するというのが、所謂発言者=「表現する者の責任」となるだろう。
 
繰り返すが、人間がいつ傷つくかは誰にも、身近なものにさえ分からない。
 
"You can’t ever tell what’s going to hurt people."
— Evelyn Waugh
 
 
「何が人を傷つけるか、誰にも分からない」
ーイーヴリン・ウォー
 
同時に人間は表現する存在でもある。言葉を含めた表現の自由と、人間は「壊れ物である」という現実の間(はざま)で、いかにバランスをとることが出来るのか?
 
言論の自由の美名の下で、警官隊に守られたヘイトスピーチが公然と行われる。
これは「不法行為ではない」とされ、誰も拘束されることはない。
 
一方で、公衆便所に「戦争反対」と落書きしたものは、たちまち捕縛拘留された。
 
「日本に真の表現の自由はあるか?」と訊かれれば、「自由を履き違えた表現が至るところ跋扈している」としか応えようがない。
 
では表現の自由の要諦は何かと重ねて訊かれれば、社会的に弱い者、またマイノリティーに最低限の敬意を払った上での表現をすること。加えて、その発言・表現によって傷つけられたものがいた場合、表現者としての説明責任を果たすこと。
 
それが出来ない場合には、その者は自身の発言に責任を持てない者、即ち真の表現者ではないと見做されても致し方あるまい。
 
例えば南部であっても、アメリカで、白人たちが隊列を組んで、南軍の旗をかざして、「ニガー・ゴーバック・トゥー・アフリカ」のシュプレヒ・コールを叫んで町を練り歩くとき、彼らが、地元の警官隊に護衛されて、ということがありうるだろうか。昨年(?)亡くなった英国の映画監督アラン・パーカーの名作『ミシシッピー・バーニング』でも、差別的な警官は一人や二人ではなかった。けれども、南部の小さな村で、黒人がひとり殺されたとき、合衆国憲法はそれを看過しなかった。
 
アフロ・アメリカンは決してマイノリティーではない。
 
そしてアメリカでは、ヨーロッパ同様、人と違うことで自らを規定する傾向がある。
 
逆に日本においては、より数の少ない者がターゲットになる。人と異なる者が標的になる。
 
以上、まとまらない文章になったが、結論として、表現するということは、その瞬間から自己の表現に責任を負うということだ。且つまた、およそ、想像力の射程が短ければ短いほど、作品は貧弱陳腐であることを免れず、そして誰かを傷つけるものになるだろう。「誰かを傷つけるものになるだろう。」それはある意味避けられないことでもあろう。だからこそ、表現と作者の責任は不可分なのだ。
 
「違法」でなければ大目に見られるという日本独自のいびつな価値観が、 数知れぬパワハラを黙認し、日々多くの精神疾患を生み出している。

本来刃を光らせたジャックナイフは、「下から上へ」突き上げるものだ・・・
それが「表現自由のあるべき姿」であるとわたしは信じている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

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