2021年4月2日

人間、この愚かなる生き物

 
いささか(?)旧聞に属する記事なので恐縮だが、『中村桂子コレクション いのち愛ずる生命誌』第3巻(2020年) 『生命誌から見た人間社会』に収められている、【「どう暮らす」の問いが欠如】(2015年10月)について思うところを述べてみたいので、少し長いが、引用する
 
 
雑誌をパラパラめくっていたら、「超高層の科学 どこまで高くできるのか?」という特集記事が目に留まった(『ニュートン』2015年11月号)。高さ300メートル以上、600メートル未満のビル「スーパートール」は、現在(2015年10月時点)世界中に91棟あるという。このうち6棟は、2015年に入ってから完成、年内に14棟が完成予定とある。超高層ビルの建設が急速に盛んになっていることを示している。しかも、これにとどまらない。「メガトール」と呼ばれる600メートル以上のビルが2棟、上海とドバイ(アラブ首長国連邦)にある。後者「ブルジュ・ハリファ」は828メートルと現在世界世界一だが、ジッダ(サウジアラビア)では1000メートルを越す「キングダムタワー」が、18年の完成を目指して建設中とある。
 (略)
超高層ビルの建設地は、中国を主とするアジア、中東、それにアメリカであり、ヨーロッパにはない。実は経済性からは、幅100メートル、高さ400メートルほどが限度とのことなのに何故これほど高いものを建てようとするのか。それは権威や富の象徴になるからだというのが、この特集のしめくくりである。
 
ところで、東京湾に埋め立て地をつくり、1600メートルの「スカイマルタワー」 を建てようというアメリカからの提案がある。まだ具体的計画ではないが、東京なら建てるだろうという目算あっての提案だろう。事実、現在の東京はオリンピックという免罪符のもと、高層ビル建設ラッシュである。
伝統あるホテルが消えるのを惜しむ声も、大きな槌音にかき消されている。新国立競技場も、1964年のオリンピックの思い出とともに、そのときの建物を改築するという案には目もくれず、巨大建設物を作ろうとした。その土地の持つ歴史も自然も人々の生活も無視した選択だった。

東日本大震災のなかで、等身大の生き方をすることの大切さを学んだはずなのに、やはり成長志向は消えず、東京は超高層への道を進んでいる。超高層ビルの特集記事には、そこでの暮らしはまったく描き出されていないのだが、巨大な閉鎖空間での生活はどのようなものになるのだろう。想像することさえ難しく実感がわかない。

最も気になるのは、そこで生まれ、育つ子供たちが、どのような感性を持つのだろうということである。東京湾岸に並ぶ50階もある高層マンションを見ても、そこでは少なくとも生き物として生きる感覚を養うのは難しいだろうと思える。オリンピック・パラリンピックへ向けての建設行為は、「若者にスポーツの場を」という疑問をはさみにくいかけ声のもと、一極集中をさらに進めている。建物の高層化で、それに応じているのが現実である。数十年という短期間で、大きく生活を変えることにどれほど責任を持てるのか。その検討はどこでなされているのだろう。少なくともヨーロッパにはその問いがあり、高層ビルを建てていないのではないだろうか。技術は技術としてだけ語っていてはいけない。またできるからといって、安直に実践することも恐ろしい。
(引用文中、行分け・太字・下線は引用者による)

 ◇

 
旧約聖書の「バベルの塔」の時代から、人間は、天まで届く建造物を作ろうとしたがる小賢しい虫のような存在だった。
 
日の下に新しきものなし。

人間が犯しうるあらゆる不善は 
 いづれも皆公然と聖書に記されたるもののみならずや? 
 
ー ウィリアム・ブレイク


無論高さ2000メートルの塔を造る事は「罪悪」ではない。
人間が遥か大地から離れて暮らすこともなんら「罪」ではない。

これらの科学技術と人間との関係について論する場合には、先ず、そもそも「人間」とはなにか?という地点からはじめなければならない、人間(ヒト)とはこの地球という惑星に住む多様な生物の一個の種に過ぎない。
 
わたしは「ニンゲン」を他の生物=動植物に比べてなんら優れているとは考えない。
無論虫と比べてさえ。
率直に言えば、ニンゲンとは元来愚かしい生き物なのだと考えずにはいられない。そもそもわたしは、「わたしたち人間の未来をよりよくするために」などという考えとは到底相容れない。滅ぶことが運命であるなら、その運命を甘んじて受け容れればよい。
 

 
詳しく思い出せないが、ルイ・マル監督のデビュー作『死刑台のエレベーター』では、いつ核戦争が起こるかわからない時代に生きる不安によって、自暴自棄になったカップルの言動が、話の流れの大きな転機となっていたと記憶している。
 
いまでも「」は人類を滅ぼすといわれる。
 
けれども、その一方で「科学技術の進化(進歩)が人類を滅ぼす」という声はほとんど耳に入ってこないどころか、誰もが、それを人類の叡智と呼び、便利さにほくそえみ、新製品が出ると聞けば、いち早くそれを獲得したがる。
 
現代人がこぞって歓迎している「利便性」「速度」「汗を流さずに済む快適さ」が、つまるところ、原子力発電所や、核開発と底を通じていることを思うことはない。
 
(兵器の類は措いて)「核(原子力)」=広く言えば「戦争・紛争」のみが人間を滅ぼし、科学技術の進歩は喜ばしいなどといっている時代ではとうになくなっている。

既に中村氏自身が前回、1964年のオリンピックの思い出とともに元の競技場を改築・・・云々と言われているが、中村氏自身その「思い出のオリンピック」がどれほど東京の街を醜悪に変貌させたかを知らないはずはない。
 
NHKの名曲アルバムや名園散歩を見ていて、心惹かれるのは、ヨーロッパの諸都市が、いかに緑と水に優しく、その傍にしか魂の憩いどころはないと誰もが認識している点である。そしてそれはおのおのの都市が截然とした様式美に彩られていることと無縁ではない。
日本人だって緑と水を愛さないわけではないだろうに、東京オリンピックに狂奔し、日本列島改造法案などという暴挙を時の首相に許した頃から、その破壊は歯止めの利かないものとなった。これまでにもあまり、市民が力を合せて美を護ったというためしには乏しいのだが、都市の中にいかに緑と水とを導き入れるかという努力の代わりに、狂犬病に罹ったかのようにわずかに残った掘割を埋め立てて高速道路とし、大川には護岸工事を施して風情のいっさいを奪うという為政者に対して、反抗の兆しも見られなかった実情からすると、この先も、有力な市民運動が展開される望みはきわめて薄い。
ー中井英夫『磨かれた時間』(1994年)より「緑の安らぎと水の憎しみ」(初出1985年)

正直なところ、わたしには、50階建てのマンションの最上階に暮らす人間の感性が分からないなどということ以前に、いたるところで携帯電話を眺めている者たちの内面がまるで理解できない。

「何かを得れば、何かを失う」
 
では「電車内でスマホに見入る彼ら群集が喪ったものとは何か?或いは喪う以前に、持っていたものとは何か? 」

繰り返すが、科学技術の進歩という名の下で、「斥けるべき進歩」と「歓迎すべき進歩」というものは分けることはできない。それはちょうどこの都市が、水の流れと情緒の代わりに「高速道路」を選んだことと同じだ。
 
「市場のあるところ詩情なし」
 
われわれは、これからますます眼に見えないものを軽んじてゆく途を進んで行くだろう。「目に見えないもの」それは「不便さ」と同義でもある。
 
最後に、中村氏はこう言っている
 
数十年という短期間で、大きく生活を変えることにどれほど責任を持てるのか。その検討はどこでなされているのだろう。少なくともヨーロッパにはその問いがあり、高層ビルを建てていないのではないだろうか。
 
はたして美を護れ(ら)ない、「責任」は為政者のみにあるのだろうか?
 
自分たちの国であるという意識があるなら、先ず市民自ら立ち上がり、為政者から国土を、自然を、率先して護らなければならないのではないか。
水と緑の豊かな穏やかなヨーロッパの国々の生活、暮らしは、政府との不断の緊張関係と、屡起こる対立の齎したものでもある。「少なくともヨーロッパにはその問いがあり・・・」しかしその「問い」乃至「疑問」はヨーロッパの為政者たちだけが持っているものではなく、ヨーロッパの国々に住む、各国の市民の美意識・問題意識が生み出したものであることを忘れてはならない。
  
わずかに残った掘割を埋め立てて高速道路とし、大川には護岸工事を施して風情のいっさいを奪うという為政者に対して、反抗の兆しも見られなかった実情からすると、この先も、有力な市民運動が展開される望みはきわめて薄い。
責任を持てるのか?などと言う前に、既に64年当時から、この国の人々には、自分の国の美と自然を護るという意識がスッポリ抜け落ちていたという認識を持つべきではないのか。そして今もその心性はまるで変わってはいないということを。
 
 
 
 
 

 


 
 
 
 

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