2021年4月5日

店舗周辺での飲食は固く禁じます─ ティファニー

 
作家黒井千次のエッセイ集『50代の落書き』(1986年)に収められた「制服の存在価値」より抜粋引用する。

先日、あるデパートで開かれているウィーン世紀末の三人の画家の美術展を観に出かけた。
さして広くもない会場をまわるうちに、なんとなく作品に意識を集中できぬことに苛立っている自分に気がづいた。
観客の数は多くなかったし、騒々しくもなかったのだから落ち着いて絵を見られるはずなのに、なにかがそれを邪魔している。
原因は、壁にある絵をめぐってゆっくりと歩いている人々の動きとは異質の運動をする人間に向けての違和感が、ぼくの中に生じたためだった。
紺の制服に身をかため、上部のピンとはったツバつきのつきの帽子を目深にかぶった男子の警備員が、観客の間を二歩、三歩と進んだり、壁を背にして立ち止まったり、そこを離れて、流れの外側から人々を見守ったりしている。
ひとつには、その数名の警備員が椅子に坐っているのではなく、 立って動き回っているのが気になった。
そしてもうひとつは、服地の色こそやや明るいブルーであったものの、そのデザインの全体が警察官の制服に似ていることが鬱陶しかった。
そこに作品の飾られている画家の一人は、ポルノグラフィーを描いたとして官憲に逮捕されたことのあるエゴン・シーレだった。もし彼が生きていてこの会場に現れたなら、自分の作品が、警察官に酷似した服装の警備員たちに守られているのをみてどう感じるだろう、などと余計なことまで考えてみたくなった。
シーレがこの警備員たちのいでたちに、好意を抱くとはとても思えなかった。

わたしの若い頃の銀座、即ち20年ほど前までの銀座には、いまほど、あちこちの店の入り口付近に、制服姿で無表情の(わたしは「たちんぼ」と呼んでいるが)、それこそ警察官に酷似した警備員が、威圧的に仁王立ちしているような野暮な店はなかった。そう、これが野暮であり、田舎臭く不粋である以外のなんであろう?
皮肉なことに、警備員を配さなければならないほどの高級ブランド点が軒を連ねることによって、 逆に銀座の品と粋を失うという結果を招いた。銀座商店会(?)の面子も特に銀座を愛していたわけではなかった。愛していたのは、金の落ちる銀座、或いは「金座」であった。

日本の支店がそうである以上、そこに店を出しているフランスやイタリアの高級ブランド店の店先にも、やはりいかめしい貌をして、警棒をちらつかせた警察官によく似た警備員がいるのだろう。
 
ブルジョアってのは粋を知らないね。
ミース・ファン・デル・ローエが、「美は細部に宿る」というのなら、醜悪さ、不粋さもまた「細部に宿る」のだ。
 
 
黒井はこの文章を以下のように終わらせている
 
制服にもいろいろあるけれど、そしてそれぞれが必要に迫られてのものではあろうけれど、できることなら、その場の雰囲気をなるべく傷つけないスタイルであってもらいたい。
それとも、あえて雰囲気を破り、人々の注意をひきつけるところに制服の存在価値はあるのだろうか。

とはいえ、屡店で目にする、「私服警官巡回中」という警告も、その不快さ、不粋さに於いては「制服」と選ぶところはないのだが。

 

 
 

 

 


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