再び、昨夜引用した文章を引いてみる
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「なぜ自文化理解ということは問題にならないのか」という問いに答えてみよう。
自分がその中で生きている生活世界の文化を理解するということ、つまり「自文化理解」ということが問題として立てにくいのは、すでに「わかっている」自文化、つまりその中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界は、それ自体が自明性の地平を構成しており、したがって、そのかぎり、その地平は対象化されえないからである。自明性に支配された日常世界に生きているかぎり、その一部が問われるべき対象として他の諸対象から区別されて現れないのは当然のことだと言える。つまり、自文化は、すでに「わかっている」いるからこそ、一度も「理解」されたことがないのである。
翻って、異文化が理解の対象となるのは、それが私たちの慣れ親しんだ世界の自明性の地平の上に未知なるもの・不明瞭なもの・不可解なものとして現われるからである。しかし、その対象を理解するためには、それを他の諸対象との関係において位置づけるための「既得の」概念のシステムがなくてはならない。このシステムが自文化の内部にすでに構成されており、それを自覚的に用いることができれば、異文化理解に到達することも困難ではないであろう。しかし、そのシステムが自覚されているとはかぎらない。しかも、そのシステムがすでに構築されているとはかぎらないのである。
ここでまず問題とすべきなのは、だから、理解の前提となる自明性の地平を露呈させ、それを用いて理解を試みる概念のシステムを、あるいはその不在を、いかに自覚するかということである。己がその上で物事を見ている自明性の地平を方法的に対象化すること、その水準を自覚的・方法的に引き下げることがここでの問題になる。
以上から言えることは、異文化理解は、その理解それ自体が目的であったとしても、自らがその上で生きている自明性の地平を相対化する方法を身につけることを必然的に含意しているということである。異文化を「理解」することは、自分が「わかっている」世界を問い直し、そこから理解の枠組みを規定している概念のシステムを抽出し、そのシステムそのものを対象化し、「わかっている」世界を敢えて理解の対象とする認識過程への第一階梯であると言うことができる。
自分がその中で生きている生活世界の文化を理解するということ、つまり「自文化理解」ということが問題として立てにくいのは、すでに「わかっている」自文化、つまりその中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界は、それ自体が自明性の地平を構成しており、したがって、そのかぎり、その地平は対象化されえないからである。自明性に支配された日常世界に生きているかぎり、その一部が問われるべき対象として他の諸対象から区別されて現れないのは当然のことだと言える。つまり、自文化は、すでに「わかっている」いるからこそ、一度も「理解」されたことがないのである。
翻って、異文化が理解の対象となるのは、それが私たちの慣れ親しんだ世界の自明性の地平の上に未知なるもの・不明瞭なもの・不可解なものとして現われるからである。しかし、その対象を理解するためには、それを他の諸対象との関係において位置づけるための「既得の」概念のシステムがなくてはならない。このシステムが自文化の内部にすでに構成されており、それを自覚的に用いることができれば、異文化理解に到達することも困難ではないであろう。しかし、そのシステムが自覚されているとはかぎらない。しかも、そのシステムがすでに構築されているとはかぎらないのである。
ここでまず問題とすべきなのは、だから、理解の前提となる自明性の地平を露呈させ、それを用いて理解を試みる概念のシステムを、あるいはその不在を、いかに自覚するかということである。己がその上で物事を見ている自明性の地平を方法的に対象化すること、その水準を自覚的・方法的に引き下げることがここでの問題になる。
以上から言えることは、異文化理解は、その理解それ自体が目的であったとしても、自らがその上で生きている自明性の地平を相対化する方法を身につけることを必然的に含意しているということである。異文化を「理解」することは、自分が「わかっている」世界を問い直し、そこから理解の枠組みを規定している概念のシステムを抽出し、そのシステムそのものを対象化し、「わかっている」世界を敢えて理解の対象とする認識過程への第一階梯であると言うことができる。
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たとえば、「自民党は、戦後二度、短期間下野しただけで、現在に至るも日本の政財界を牛耳っている。 」あくまでわたしの記憶に拠るもので、間違いがあるかもしれないが、そのように記憶している。
これは「事実」であり「現実」である。では、所謂「自明性」と「現実」「事実」とは何が違うのか?
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先日、ルネ・クレマン監督による、1956年のフランス映画、『居酒屋』を観た。
残念ながら、期待していたほどの作品ではなかった。
主役のマリア・シェルはうつくしかったし、舞台(おそらくはセット)はアジェの写真、ボナールやジャン・ベローの絵を思わせるが、なぜか作品そのものが美しく感じられなかった。
同じルネ・クレマンによる『禁じられた遊び』には美があり、ユーモアがあり、哀しみがあったが、『居酒屋』にはそのどれをも見つけることができなかった。
絵画でも音楽でも、これはちょっと・・・と馴染めない作品は当然誰にでもあるだろう。単にそういうことなのかもしれないし、こちらの体調によるのかもしれない。
けれども、ひとついえることは、主役であるマリア・シェルのこころの動きを観る者に伝えるモノローグも、彼女の書く日記もなかったことかもしれない。画面が映し出すのは、ただ、働けど働けど我が暮らし楽にならざり。という身もふたもない「貧しさ」という「現実」だけであった。けれども、彼女の洗濯女としての生活、彼女を含め、女から女を渡り歩く色男、味方なのかそれとも敵なのか分からない気を許せない女たち、そして平凡を絵に描いたような男たち。
さすがに、人間というものの得体の知れなさを上手く描き出している。原作はエミール・ゾラ。時代は正に、アジェやボナールたちの時代である。
『居酒屋』には、逃れられない、逃れることの出来ない「自明性」に誰もが雁字搦めになっているような雰囲気が横溢している。その「自明性」とは「貧しさ」である。
僥倖でもない限り、貧しさからの「出口」はない。そこには、わたしがいつも言っている様な、貧しさゆえの高貴さも、崇高さも、生の尊厳もなかった。ただただ、貧しさを自明の事実として甘んじて安酒を飲み、喧嘩をし、場末で色をあさる人間本来の姿が、剥き出しに描き出されていた。
The poor stay poor, the rich get rich
That's how it goes
Everybody knows
ーLeonard Cohen - ’Everybody Knows’
つまり、「自明性」 とは、その「やりきれない日常」「今日もまたかくてありなん」という揺ぎ無い現実に耐えて生きて行かなければならない「格子なき牢獄」であるといわれれば、なんとなく分かる気がする。
そして自明性が決められたこと=「定め」であり「規定の路線」であるとするなら、我々はそこで、決して安穏と暮らしてゆけるものではないのではないだろうか。
◇
まったくまとまらない文章になってしまったが、わたしには、「今、目の前にある現実」と「自明性」との違いが分からない。
繰り返し書いていることだが、「これからのあたりまえ」がたちまち「これまでのあたりまえ」に取って代わるという時間的、歴史的連続性の断絶の裡にあって、「これからのあたりまえ=自明性」ということは出来ない。
今日の真実が、明日の真実に取って代わられることを、誰が自明性と呼びうるだろう?
自明性とは、政治や企業の思惑によって、日替わりに入れ替われるものではない。
自明性とは、もっと強固磐石なものであるはずだ。それは「今現在の目の前の現実」という変転常無きものではなく、寧ろ、動かしがたい「運命」に近いといってもいいし、過去数千年の人間社会の歴史の中に組み込まれた、生物としての人間の「限界」のようなものではないだろうか。
貧しきものは永久(とこしえ)に貧者であり、
富める者は、いよいよ肥え太る。
そういうものさ。
誰でも知ってることだ・・・
ーレナード・コーエン 「エブリバディ・ノウズ」
[関連投稿] 「この不思議な世界」「「審美的引きこもり」と、自明性への懐疑」「この不思議な世界2」
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