2020年12月18日

たのむから静かにしてくれ!

 
前回の医師との面談で、自分がもし勝手に自分の病名をつけるとしたら、「境界性人格障害」だろうと言った。けれども、やはりわたしにはより強く統合失調症の傾向があると感じる。
何度も繰り返すが、木村敏の言うように、「自然な自明性の欠如」というものが統合失調症の顕著な特徴だとすれば、今現在のわたしは何よりもそれに強く当てはまるからだ。
 
普通の人たちは、「いま、目の前にある現実」 を自然なこと、当たり前のこととして受け止めて特に意識することも無く日々を過ごしている。
 
さて、あれやこれやが自明のことであるならば、今更ながら事々しく言うにはあたるまいと思うのだが、どうもそうではないらしい。そこがまたわたしの頭を混乱させる。
 
常識というものは、改めて言うまでも無く、みなに共有されている認識のことではないのか?
常識とは、既にある集団の文化様式として、その構成員にとって無意識裡に内面化された言動ではないのだろうか。だからこそ、「自明のこと」と言われるのではないのか?
 
だとすれば、全ての電車、全てのバスで執拗に繰り返される、「駆け込み乗車は危険ですのでおやめください」とか「必要な人に優先席を譲りましょう」とか「やむを得ず急停車することがありますので、手すりやつり革におつかまり下さい」と一日中電車の中で繰り返されるのは何故か?
 
それらのアナウンスをここまで執拗に繰り返すと言うことは、それらは、── 「駆け込み乗車が危険である」とか「必要な人に優先席を譲る」ということは、この国では、なんら「当たり前のこと」ー「今更言うまでもないこと」ではないのだろうかと訝る。
 
バスにしても、「走行中の座席の移動は危険ですので、座席の移動はバスが止まってから・・・」なんていうのは、わたしのようなものでさえ、「あたりまえ」という以前に、ただうるさいだけの無駄口のように聞こえるのだが、何故そんなことを飽きもせずバスの走っている間中垂れ流し続けるのだろうか?
 
いったい自明のことと、自明ではないことの境目は何処にあるのか?
 
言うべきことと言う必要の無いことの境目は何処にあるのだろうか?
 
この国には所謂読書家という者たちが殊の外多いようだが、静寂を愛さず、平気で電車やバスに乗れる神経に内奥への深い沈潜など望むべくも無いと言っておく。そして思索を好むものは本を読むことよりも、寧ろ静寂の中に座すことを好むと言うことも・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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