2020年12月20日

わたしの現実

 
このところ、生きていることが殊の外苦痛だ。一日12時間は寝ているだろうか?しかし、残り12時間も起きているという自覚が無い。
 
やることが無い。やりたいことが無い。本を読む気になれない。映画を観る気になれない。
 
働く気はまるで無い。また、仮に月30万円、趣味や遊興費に使ってもいいからと金をもらっても、使い道が無い。
 
以前は「夢は第二の生である」というネルヴァルの言葉を引用したりしたが、最近は夢も見ない。見ているのかもしれないが覚えていない。
 
「人生はこれを生きるよりも、これを夢見たほうがいい。もっとも、生きるとは夢を見ることに他ならないのかもしれないが・・・」と、プルーストは言ったが、もはや、夢に逃避することもままならなくなっている。
 
自己の内面世界が消え去り、わたしにとって不快な「現実」「外の世界」が容赦なくわたしの内面を蹂躙する。もはやわたしには、外界に拮抗するような強固な内的世界を作り上げる気力も能力も残されていない。
 
「人間は自由の刑に処せられている」と言ったのは、サルトルだったか、フロムだったか・・・
 
しかしわたしは決して「自由」ではない。自由にバスや電車に乗ることができない。
外の世界に出ることに(公共の交通機関を使った移動に)大きな桎梏が、制約がある。
 
「聴覚過敏」というものをよく知らないが、それは「音そのもの」「音という刺激・信号」に対する生理的な拒否反応ではないのか?
 
無論わたしにも「音と言う刺激」への拒否反応はあるが、それ以上にわたしを苦しめるのは、何故、薬局で、小鳥のさえずりが、せせらぎの音が聞こえるのか?いったい何のために?という途轍もなく大きな疑問である。
 
 
わたしが気軽に立川駅界隈に行けず、自宅に戻れないものだから、母がここで暮らすために必要なものを運んでくれている。わたしは、もう母は、父と、弟の世話だけ見てくれればいいと思っている。
 
あと数回、必要な品を持ってきてくれれば、当分母がここに来ることもなくなるだろう。
 
そうすればわたしは完全に一人。
 
為すことなく、会う人無く、行く場所無く、話す者無く・・・
 
わたしがひたすら望むことは、母の負担を1グラムでも減らすことである。ただし、わたしがここで、それなりに人並みの生活をすることを望まれてもそれに応えることはできそうにない。
 
人並みの生活とは言うまでも無く、「食事」と「睡眠」と、なんとかひとりの時間をつぶすことである・・・
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

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