2020年12月12日

断想・・・

 
先週、都立多摩総合医療センター 精神神経科の医師の指示による、心理士による「心理テスト」3種類が終わった。その分析と結果報告は、1月はじめに医師によって行われる予定だ。
 
個人的にいちばんたのしかったのは第一回目の「ロールシャッハテスト」であった。
ご存知だと思うが、左右対称の画を10枚みせられて、それぞれの画が何に見えるか?と質問される。
本当にいろいろに見えるものである。
「この画が○○以外に見えることなんてあるんだろうか?」と考えてしまうような画も含まれていた。
 
その後、「何故この画がそう見えたか?」 という質問がある。ひとつの画が、まったく関係のない別の画に見えることもある。それについても、どの部分がそう見えるのか?という問いが為される。

さらに、この中から、いちばん好きな画、いちばん嫌いな画を選ぶ。家族をあらわす画をそれぞれ選ぶ。そして自分を表す画を選ぶ。
 
「世界はわたしが見ているようにある。」 どのように見えても「間違い」というのは存在しない。
 
一方で現実の社会というのはこれとは逆に、画を見せられて、「ここに二頭の馬がいます」といわれれば、それに否ということはできない。問題は見る側が世界を=目の前の画をどう見るかではなく、その画に何が描かれている(とされている)かなのだ。そしてそこに描かれている「二頭の馬」が、揺るぎない「現実」ということにされている。
 
 
心理テストの結果に関してわたしが希望するのは、とにかく特殊であること。
「狂人」でも「驚くべき知能の低さ」でも何でもいい。少数派でさえあれば。

「わたしは誰とも似ていない」という、いわばわたしの切実な「孤独感」「孤立感」を受けて、そもそもこの心理テストが行われたわけだが、わたしが希望するその結果が、「あなたはきわめて特殊な存在です」というものだというアイロニー。ちなみに「極めて特異な存在」に優劣は存在しない。「特殊性」「一回性」」というものには「比較の対象」及び「優劣の規準・尺度」が無く、「序列」から隔てられた存在なのだから。
 
 
先日眼科に行った時、横に、携帯用の酸素ボンベを持った男性がいた。
袋に入っていたのでよくわからないが、小型(?)のもののようであった。 
それを見て思わず微笑んでしまった。
なぜなら、わたしも外に出るときには、(電車やバスに乗るときには)音楽を聴くヘッドフォンと、更に、その上に被る、遮音用のイヤーマフが欠かせないからだ。
もしこの国の電車やバスがもっと静かなら、わたしはどこへでもいけるのに、とつくづく思った。
わたしも彼と同じ「障害者」である。


ほぼ毎日自転車でスーパーに行っているが、いつも人が清算するレジに並ぶ。
先日あるお年寄りが、何度入れてもお札が出てくると困っていた。店員が来て、「曲がっていたり折れてたりするとお札が出てきちゃうんですよ・・・」
つまり、それらはまっとうな紙幣ではないとみなされるわけだ。
 
「屈折」したり「捻じ曲がったり」している者は「人に非ず」という時代も遠くはないのだろう・・・遠くはないどころか、現代(いま)がまさにそういう時代なのかもしれない。
 
それを眺めていて、「おばあちゃん、もういいよ、こんな時代・・・」とつくづく思った。「ぼくたち長生きし過ぎちゃったね・・・」
 
確か記述式の心理テストで、「私があこがれるのは」だったか「私が羨ましいと思うのは」という設問に、わたしは、「既にこの世を去った人たち」と記入した。
 
そしていま、わたしは酸素ボンベを欠かすことができない人や、自動清算機でまごまごしているお年寄りの存在にどれほど支えられていることか。
 
「出来ない人がいる」 ということがどれほどすばらしいことか。
 
 
「無」「ゼロ」を起点として、「さて、この世界は他ならぬ自分にとって生きるに価するか?価するとしたらそれは何故か?」同じように「生きるに価せずと判断したのならそれは何故か?」
これは人間存在にとって根源的且恒常的な問いであるはずだ。
 
一方で「生」を、「目前の現実」を起点として、いかにしてそれに遅れずについてゆくか?
万一遅れたら、倒れたら、いかにして追いつくか・・・それのみにこころを砕いている者と、わたしと、所詮話が、言葉が通じるわけがないのだ。 











0 件のコメント:

コメントを投稿