2020年12月20日

「現実」ということについて


あるブログを眺めていて、興味深い記述に出会った。コメント欄に意見を記そうと思ったが、
どうやらそのブログのアカウント(?)を持っていないとコメントができないらしい。

「御坊哲」さんという方の「禅的哲学」というブログである。タイトルの下に、

「禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。」と書かれている。

今日は12月8日に書かれた「あるがままの世界」という記事から抜粋引用する。
なおこの記事は、12月6日書かれた「無色無音の世界」と対を成してるらしい。
 
 
 
科学では、感覚抜きの物的事実を真実としていますが、西田は感覚で直接とらえたもの(純粋経験)こそ実在の事実すなわち真実であると言います。逆に、科学における感覚抜きの物的事実というのは推論による解釈に過ぎないと言っているのです。このことは仏教における「あるがまま看よ」ということに通じていると思います。


 現前するものをすべてそのまま現実として受け入れる。それが「あるがまま看よ」ということであります。それは別に科学を否定せよということではありません。生きていくためには科学的なものの見方考え方は必要であります。ただ、ものごとの解釈にとらわれ過ぎて現実の世界を見誤ってはならないということなのです。禅の書物には、坊さんがやたら「喝!」と怒鳴ったり、棒でたたいたりと結構乱暴なシーンがでてきますが、これは意表を突く大声や痛みによって、相手に今生きている世界を実感させるという意味があります。私たちは感覚の世界の中に生きていることを実感するということが、地に足を着けて生きるということなのでしょう。

    (下線・太字Takeo)

  ◇

  「ものごとをありのままに」見るということが果たして可能だろうか?例えば、一枚の画が目の前にあり、その画の「ありのまま」とはどういうことだろう?「見る」「聴く」「嗅ぐ」「触る」そして「味わう」という行為と、「解釈すること」とを分けることができるだろうか? 

 
「世界」と「私」とをつなげているのは個々人の主観に他ならない。わたしの主観、わたしの眼差しと無縁の「あるがまま」の客観的世界などどこにあるのだろう。
 
西田は感覚で直接とらえたもの(純粋経験)こそ実在の事実すなわち真実であると言います。」
 
わたしも同感である。わたしがこの目で見た街の姿、この耳で聞いた車内のアナウンス。それは、「わたしの感覚にとって苦痛である」ということが紛れもない「真実」である。
 
芸術作品と、現実=外界との類比が必ずしも的外れであるとは思わない。
この画が嫌い、この彫刻は気味が悪いという者の感性がなんら「狂っていない」のと同様に、「この街は醜悪である」という感覚もまた狂ってはいない。もし狂っているというのなら、その根拠は何か・・・
 
 
 
 
 
 




0 件のコメント:

コメントを投稿