①「自分たちとは違う信仰
―― 引きこもりが募らせている怨嗟も信仰だよ、
を持つ相手を異端として排除して、
自分たちの信仰を、
唯一の真理だと偽装するゲームだな。 」
―― 引きこもりが募らせている怨嗟も信仰だよ、
を持つ相手を異端として排除して、
自分たちの信仰を、
唯一の真理だと偽装するゲームだな。 」
これはこういうことですね。
「自分たちとは違う信仰を持つ相手を異端として排除して、自分たちの信仰を、 唯一の真理だと偽装するゲームだな。 」
そしてあなたの信仰は、(長期にわたる)引きこもりは「人生に対する罪であり罰である」ですね。
具体的に、どの引きこもりの方が、何処に(或いは誰に)対して怨嗟を募らせているのでしょうか?そして人を恨んではいけないという根拠は何ですか?
社会を呪ってはいけないという根拠は何ですか? それがあなたの「信仰」ですか?
人を恨まず社会を恨まず・・・絵に描いたような優等生のようですね。
http://qinggengcai.blog2.fc2.com/blog-entry-1900.html
②「引きこもりで括ってしまうと、偏見だとか、差別だとか言われるけどね。
30年も子供部屋にこもって、怨嗟を募らせてるような人に対しては、
僕は、偏った考えを持つし、扱いには差をつけるよ。
そんなの、当然だと思う。
「扱いにはいには差をつける」とは、具体的にはどのような意味乃至行為でしょうか?
現在60数万人いる40歳以上の引きこもりで、殊に30年も外に出られない人、及びその家族の苦しみはどれほどのものでしょう、それは悪ですか?彼/彼女の罪ですか?そういう人たちを差別する(扱いには差をつける)と公言するその理由をお聞かせください。何故あなたは引きこもりを憎むのですか?
具体的に聞きたいのは。「引きこもりは人生に対する罪であり罰である」という テーゼの論拠です。
◇
わたしはこれを含めた3つの投稿の削除を求めません。
ただし削除を求めないとはいえ、説明責任に応じないのなら、これらの無意味な中傷発言の削除を改めてF2Cに求めます。
とはいえ、人権意識の極めて低い国ですから、プロバイダーも、ユーザーに拒否されてそれっきりになる可能性が極めて高いとは予想していますが。
Takeoさん、こんにちは。
返信削除どうも、ご無沙汰しています。
でも、このブログはいつも見ていますよ。
※以下において「ぼく」~「私」という一人称の変化に特に意味はありません。
単なる気まぐれです。
更新されていないときも、たいてい一日に一度は見ています。
正直、過去の記事を見たりはしていませんが。
まず初めにお断りしておきますが、私がこの手の記事にコメントを入れるのは、こういう内容の記事に興味があるということではありません。
ただ単に、Takeoさんにも「味方」が居るということを伝えるためにコメントしています。
ハッキリ言ってしまえばこの手の記事に興味はありません。
だから、いつも言っているように「彼ら」のブログを読んでいるわけでもないし、その話の内容なんかどうでもいいと思っています。
それは、Takeoさんのことでも、例えば私自身のことでも同じで、何が書いてあっても話の内容はどうでもいいですね。
たぶん、そんなに「スゴイこと」は書いてないと思いますし。
ただ、私は、「多勢に無勢」というのが嫌いなんで、「彼ら」が複数である限りは、Takeoさんにも、「味方」が居る(一人でも)ということをお伝えしておきたいと思うわけです。
本当のことを言えば、このブログの他の投稿にコメントを入れたいところなんですが、今はそちらの方は「見るだけ」にさせてもらっています。
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とにかく、「多勢に無勢」に関して、「彼ら」がどう思っているのか知りませんが、「数の力」というのは「有無を言わせぬモノ」だと思っています。
そして、「絶対的に正しいモノ」は無いと思います。
「絶対に正しいモノ」が無いのであれば、そこに「有無を言わせぬモノ」を使ってはいけないというのが、私の考え方です。
前に、例の質問サイトの一件の時に、「彼」が『取り巻きって三人かよ』と言っていたと記憶していますが、「1:2」=「二倍」 「1:3」=「三倍」ですから、全く話になりませんよね。
(その時の「取り巻き」には「数の力」という意味が含まれていたと思います)
そうやって、自分に有利な状況を作るのが上手い人が居るのは仕方がないことですし、Takeoさんが、それが下手な人なのも仕方がないことですが、それらは確かにことです。
おそらく、それは「彼ら」も認めるんじゃないですか?
(まぁ、「彼ら」が『特定の人物についての話ではない』という「茶番劇」を演じると言うなら別ですが)
「絶対に正しいモノ」が無いとすれば、「絶対に間違っているモノ」も無いはずです。
その中で「有無を言わせぬモノ」である「数の力」を使っていいのでしょうか?
自分たちが「立ち回りの上手い人間」であり、Takeoさんが「立ち回りの下手な人間」であると考えるならば、そういう「有利・不利」の条件を出来る限りフラットにしてものを言うべきですね。
Takeoさんであっても他の誰であっても、複数の人間が集まって一人の人間を非難してはならないと思いますよ。
『絶対に正しいと思うのでないならば』ですけどね。
もしも、『絶対に正しい』という確信のもとに『~は罪であり罰である』というのであれば、それこそが「信仰」でしょ?
「信仰」でないならば、他人を断罪できるハズはないんですけどね。
まぁ、いずれにしても、人は「死ぬとき」に至って、きっと、ナニカに気づくことに成ります。
「死」に至って、それをどう解釈するかは人によるでしょうが、その「ナニカ」が「ナニ」であるかは、その時に成らないとわからないでしょう。
私は、「彼ら」がその時に知る「ナニカ」は、きっと、今「彼ら」が「確信しているモノ」ではないと思いますよ。
これは、決して適当なことを言っているわけではありません。
私の実体験から言っています。
つまり、そういう人をたくさん知っています。
そして、私が知る限り例外は、極めて稀です。
私が知る限りにおいて、『~は罪であり罰である』と言っているような人たちの中で、その「~は」に当たる部分が「弱いモノ」である場合、その人は「死ぬとき」に必ずみじめな死に方をするんです。
なぜならば、人間は「死ぬとき」にほとんどの場合、「弱いモノ」に成っているからです。
突発的な事故で死んだりしない限り、人間は、ほとんどの場合「弱いモノ」として死んでいくことに成ります。
つまり、その人たちは、自分が下した『~は罪であり罰である』という断罪に逆らえずに死んでいくことに成るということです。
その「~は」に何か条件を付けて、もっともらしく見せてはいても、けっきょくはそれは「弱いモノ」や「少数のモノ」です。
これは前にも書きましたが、「差別」において「条件」は意味を成しません。
その「条件」こそが「差別」なのですから。
もしも、どうしても『~は罪であり罰である』と言いたいならば、「強いモノ」に対して言えばいいと思いますよ。
そうすれば、必ず、損をしますが、きっと「死ぬとき」に至って、自分に許されて死ぬことができます。
こういうことを言うと、「宗教」や「神」の話だと思われてしまうかも知れませんが、これは私が知っている実際の人物を見て行っていることなので、そう言った「不思議なこと」の話ではありません。
まぁ、こんなことを言ったって、聞く耳を持たない人たちですから、意味はありませんが、私は、『どうぞ、どうぞ、ご自由に、イチかバチか人生を賭けて試してごらんなさいな』と言うだけです。
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たまにしか、コメントしませんが、いつも見てますから。
それでは。
こんばんは、ふたつさん。
削除お返事が遅くなりました。
>まず初めにお断りしておきますが、私がこの手の記事にコメントを入れるのは、こういう内容の記事に興味があるということではありません。
無論そうでしょう。醜悪極まりない文章の連続です。しかしわたしは、それを「馬鹿が好きなこと言ってるよ」と軽く受け流すことが出来ないのです。
穢れたものをなすり付けられたようで我慢がならないのです。
>いつも言っているように「彼ら」のブログを読んでいるわけでもないし、その話の内容なんかどうでもいいと思っています。
最近の投稿を幾つか読みましたが、気分をフラットにして、虚心坦懐の気持ちで読んでも、なんら示唆を受けるようなことも書かれていない、自身の万能観だけが透けて見えるものでしかありません。(個人的な印象ですが)
>「多勢に無勢」に関して、「彼ら」がどう思っているのか知りませんが、「数の力」というのは「有無を言わせぬモノ」だと思っています。
そして、「絶対的に正しいモノ」は無いと思います。
「絶対に正しいモノ」が無いのであれば、そこに「有無を言わせぬモノ」を使ってはいけないというのが、私の考え方です。
尤もです。ただ、彼のブログがあれだけ人気がある理由は容易にわかります。単純に彼のような人間がそれだけ多いということです。
そしてその逆がわたしです。
>そうやって、自分に有利な状況を作るのが上手い人が居るのは仕方がないことですし、Takeoさんが、それが下手な人なのも仕方がないことですが、それらは確かにことです。
その通りですね。「わたしがわたしである」ことで周囲と折り合えないのなら、時代と折り合えないのなら、社会と折り合えないのなら、それは運命として甘んじて受け容れるしかないでしょう。
また彼自身の言葉、自分はコミュニケーション能力は人一倍長けている。という場合の「コミュニケーション」の意味するところがどのようなものであるのかは、既に底が知れています。一言で言えば現行社会及び主流的思考(志向)への迎合性。他者への想像力は全く欠如しています。
>Takeoさんであっても他の誰であっても、複数の人間が集まって一人の人間を非難してはならないと思いますよ。
『絶対に正しいと思うのでないならば』ですけどね。
仮に絶対にある事柄が正しくとも、「複数の人間が集まって一人の人間を非難してはならない」と思います。
正しさは、より小さな集団、そして究極的には「個」に宿ると考えます。
言い方を換えれば、より個的だからこそ正しい。もっとも、この場合の「正しさ」というのは、「大勢でいることの誤謬性の高さ」との相関関係に於いて言っているつもりです。
「三人寄れば文殊の知恵」といいますが、この国に関して言えば、数が増えれば増えるほど、その誤謬性は高まると感じています。
◇
後半の「死に際して」、に関しては、「彼」のような「対自的心的機構」を欠いた人間に当てはまるかは疑問ですが、いい文章だと思います。そして共感する部分が多い。
>もしも、どうしても『~は罪であり罰である』と言いたいならば、「強いモノ」に対して言えばいいと思いますよ。
そうすれば、必ず、損をしますが、きっと「死ぬとき」に至って、自分に許されて死ぬことができます。
特にこの部分は。
◇
「正義・力。
正しいものに従うのは、正しいことであり、最も強い者に従うのは必然のことである。
力のない正義は無力であり、正義のない力は圧政的である。
力のない正義は反対される。何故なら、悪いやつがいつもいるからである。正義のない 力は、非難される。したがって正義と力とを一緒におかなければならない。そのために は、正しいものが強いか、強い者が正しくなければならない。
正義は議論の種になる。力は非常にはっきりしていて、議論無用である。そのために、人は正義に力を与えることができなかった。何故なら、力が正義に反対して、それはただしくなく、正しいのは自分だと言ったからである。
このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。」(298)
パスカル『パンセⅠ』前田陽一 / 由木 康訳
「人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。」
けれども、いつも言うように、弱さこそが、強さよりも好奇且尊いということを忘れずにいたいと思います。
また気が向いたら好きなことを書いてください。
ありがとうございました。
追記
削除「多勢に無勢」というのは、言い換えれば、「マジョリティーとマイノリティー」ということになります。数は力であり、正しさを蹂躙するということは、上でパスカルが言っている通りです。
改めて、「強くなければ生きてゆけない、優しくなければ生きている資格がない」というレイモンド・チャンドラーの言葉を思います。