私はおんみを 炎よりも更に好む
炎は世界を限界づけ
或る一定の範囲を照らすが
しかしその範囲のそとでは 何ものも炎について織らぬ。
だが 暗さは万物を抱いている ──
さまざまのものの姿を 炎を 動物たちを そして私を。
暗さは人々をも いろいろな勢力(ちから)をも
獲物としてつかむ ──
一つの大きな力が
私の直ぐ近くで働いていることは、 在り得ることなのだ。
私は「夜」を信じる。
まだ一度も言われたことのないすべてのことを私は信じる。
私は自分のいちばん敬虔な感情を 自由に生かしたい。
まだ誰ひとり 敢えて憧れたことのないものが
私には いつか必然ことと成るだろう。
わが神よ、もしこれが僭越ならば お赦しください。
私はただあなたにこういいたいだけなのです ──
私の最善の力が、憤りも持たず いじけもしない
一つの本能のようであってほしい、と。
子供たちはそんな風にして、神よ、あなたを愛しています。
滞りなく流れ 両腕をひろげて大海へ(おおうみ)へ
大河が流れ込むときのように、
繰り返しながら成長しつつ
私はあなたへの真を告げたい、かつてこれまでに
誰もがしなかったようなふうに、あなたを告げ報せたい。
もしこれが思い上がりであるならば
この驕慢を
私の祈りに許容(ゆる)しておいてください、
私の祈りは こんなに真摯に そして孤独に立っています、
雲に包まれている あなたの額(ぬか)の前に。
◇
わたしは闇、幽暗に対置するものとしては、炎よりも寧ろ「光」を選択したい。何故なら、炎は自然界に存在するものだが、陽光を除き「光」は人工的なものだからだ。
私の最善の力が、憤りも持たず いじけもしない
一つの本能のようであってほしい、と。」
この詩行にわたしは共感する。「私の最善の力が、憤りも持たずいじけもしない、一つの本能のようであってほしい」
「私の祈りに許容(ゆる)しておいてください、
私の祈りは こんなに真摯に そして孤独に立っています、
雲に包まれている あなたの額(ぬか)の前に。」
率直に言えば、私のいのりはこんなに真摯に云々と口に出せること自体が、驕慢にすらおもえるのだ。
ミレーの絵の中で、一日の労働を終えた、貧しい農夫たちが、黄昏の畑で祈りを捧げている。彼らもまた心の裡では、ここにあるような、自己の神への祈りに対する重み、軽重のようなものを感じているのだろうか?神を持たぬ者にとって、信者の神に対する己の位置というものはわからない。それでも、農夫たちにとって、神と自己とは正に一体であり、神に祈るということは、今日の日を無事に終えたことを、そして今日一日の糧を感謝しますというごく素朴で、純粋なものではないのだろうか?祈りを捧げるということは、彼らが日々生きる上で「自明の事」であって、敢えて、祈りを、その重さ深さを対象化するということが、なにか不自然なことのようにおもえるのだ。名もなき労働者たちにとっての神、そして神への祈り、語り掛け、それと、リルケの神とはどのように異なる存在なのだろう。
◇
人格を持ち、人間の姿をした神への信仰はわからないが、わたしにも信仰はある。
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