われらの僅かな存在を過ごすためなら
葉のはしばみに(風の微笑みのような)さざなみを立てながら
ほかのどの樹よりも少し暗い姿をして立つ
月桂樹として生きてもいいのに、なぜ
特に人間の存在を生きねばならないのだろう?
──そしてなぜ運命を避けながら
運命を求めて生きなければならないのか?・・・・
おお、幸運があることが その理由ではない。
幸運とはやがて間近く来る喪失の前面部分を
早まって利得として取ることだ!
好奇心からのことではないし また感情を試して使うためでもない、
感情は月桂樹の衷(うち)にもあるかもしれない・・・・
だが人間が人間の存在を生きる理由は、この地上の今を生きることそれ自身が大したことだからだ。そして
われわれ人間の存在が 現世のすべてのものにとって必要らしいからだ。
これら現実の滅びやすい物たちが 最もほろびやすい存在であるわれら人間に
ふしぎに深く関わるのだ。おのおののものはただ一度だけそのものとして在る。
ただ一度だけだ。それ以上ではない。そしてわれらも
一度だけだ。ふたたびはない。しかし一度だけ存在したということ 地上に存在したということ 地上に実存したということ これはかけがえのない意味のことらしい
ーリルケ『ドゥイノの悲歌』「第九の悲歌(エレジー)」より抜粋。
片山敏彦訳『リルケ詩集』(1998年)より
◇
リルケの詩には、その根底に、人間存在と、神の存在への寿ぎを感じる。人間の存在を根本に於いて肯定しているという点で、どうしても馴染めない部分がある。
「人間が人間の存在を生きる理由は、この地上の今を生きることそれ自身が大したことだからだ。そしてわれわれ人間の存在が 現世のすべてのものにとって必要らしいからだ。」
この詩行はとてもわたしの肯じるところではない。わたしは寧ろ、この地上に人間さえいなければ、と考える人間だ。・・・人間さえいなければ・・・無論わたし自身を含めて、「ヒト」という種が存在しなければ、という意味だ。
「おのおののものはただ一度だけそのものとして在る。ただ一度だけだ。それ以上ではない。そしてわれらも一度だけだ。ふたたびはない。しかし一度だけ存在したということ 地上に存在したということ 地上に実存したということ これはかけがえのない意味のことらしい」
すべての生き物が一度だけの生を生きる。しかしわたしは、「ただ一度だけであること」のみに意味を見出すことは難しい。その一度を、一度だけの人生を、どれだけ、他と異なって生きたか、どれだけ、己自身の生を、即ち「実存」を生きたかが問われるのだ。
強い者の驥尾に付した人生だって、人の真似をして生きたって一度だけという点では同じである。わたしは、一度だけの生を、可能な限り自分として生きたい。それは同時に、少数派として乃至、異端として生きるということをも意味している。
確定したわけではないが、わたしはどうやら、発達障害と統合失調症の特性を持っているようだ、幸か不幸か、この二つの障害と病は、世界の見え方が、多数と異なるということだ。
そして著しく低い知能指数の中で、表現能力だけは長けているということも、天の配剤のような気がするのだ。
繰り返すが、
「しかし一度だけ存在したということ 地上に存在したということ 地上に実存したということ これはかけがえのない意味のことらしい」
という一回性はわたしには左程重要なことではないのだ。
あくまでも「その一回」が、わたし固有の生であったか否かが問題なのだ。
そして大事なのは、「わたしがわたしを好きであるか」ということよりも、わたしとして生まれてきたわたしを、わたしとして生き抜くということ。言うまでもなく、自ら命を絶つということも、わたしがわたしとして生き抜いたことに他ならない。
最後にリルケ自身が自らの墓に刻み込むために作った詩を。
薔薇の花よ おお 純粋な矛盾よ
数多のまぶたの下で
誰の眠りでもない歓びよ
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