わたしは人間である、とすれば人間にゆかりのある何ひとつわたしにとって無縁ではない、というあの古人の戒めは、こうしたときにこそしみじみと息づきはじめるような気がしてならない。
人間の心には刺激によって喜怒哀楽のあらゆる感情が生じうる可能性がはじめから仕組まれているように、わたしたちの脳裏には、ひかりによってあらゆる色彩を識別しうる能力があらかじめ具わっているはずである。
そのような人間にとって、いったい無縁な色というものがこの世にあるだろうか。とすればわたしにとっても、ある色を採り、ある色を捨てて顧みぬなどといことが、はたしてゆるされるか。
とかなんとかいいながら、たとえばいま色についてのエッセイをと乞われたときに、さあ、白なら、などとうっかり口をすべらせてしまったのは何故だろう。
数ある色のなかでも、白と黒だけはやはり特別な色と、ものごころついてこのかた信じこみ、こだわり続けてきたせいだろうか。
いったい白とは色なのか。無色と空白とはたしかに別物らしい。とはいえ、たとえば小学校の科学の実験でやらされたように、円をさまざまな色で扇形に塗りわけてくるくるまわすと、全体が、真っ白になってしまったこと、あれを思い起こせば、いわゆる純白、空白などというときのその白が、けしてまじりけなしなどという単純な構造では成り立つはずもないことを、いい加減思い知ってもよかりそうなものなのだが・・・
白は汚れやすい。穢れが目立ちやすい。あんなにあらゆる色を吸い込み、清濁併せ飲んで成立したはずの白が、あらたに付け加えられる色に敏感に反応するとはふしぎなことだ。
そういえばはじめて出した短編集も、戯れ唄もどきの処女詩集も、その汚れやすさを承知で表紙はやはり白にした。どちらも装幀者が無言のうちにこちらの意を汲んでくれてそうなったのだけれど。
魂よおまえの世界には二つしか色がない
底のない空の青さと、欲望を葬る墓の白さと (多田智満子)
白というと決まってこんな色を思い出す。
日本のお墓はあまり白の印象はないけれど、昨冬はじめて行った外国らしい外国のチュニジアで、わたしはそのような白く塗られたおびただしい墓石をみた。古いお墓も新しいお墓もみんな白かった。そういえばチュニジアという国は、家々の壁も女たちのまとう衣もみんな真っ白だった。ー矢川澄子『風通しよいように・・・』(1984年)より「白と、汚れと・・・・」
◇
「底のない空の青さと、欲望を葬る墓の白さと」
わたしはどちらにも心を動かされない。
そもそも、煌く陽光というものに上手く馴染めない。
だから絵画にしても、光あふれる絵、たとえば印象派の作品のようなものには惹かれない。
寧ろ、「翳」。
白と黒を、「明」と「暗」に対比するなら、わたしは「黒」=「闇」を選ぶだろう。
最晩年の尾崎放哉が、京大病院に強く入院を勧められたときに、「あのような「真っ白なコンクリートの箱」に入るくらいなら。放哉ここで食を断って死にます」と井泉水に己の決意を認めた。
そして小豆島の青い空と海に見守られて、この世を去った。
白という色はどこか人工的な匂いがする。
わたしの一番好きな色、それはセピアカラーであり、白と黒の素敵なマリアージュである、モノクローム=「白黒」という色である。
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