2021年4月10日

F2C 青梗菜ブログ記事内容への説明要求1

 一昨日夜、F2Cブログに対し、以下のURL部分の書き込みについて、「削除」でも「謝罪」でもなく、
そこに書かれている文章の意味をわたしに対し説明してくれるように依頼した。
 
削除など考えてもいない。それは、あったことをなかったことにすることに他ならない。
つまり死刑制度と同様、その行為(この場合発言)の背景に何があったのかを知ることが最重要と考える。誰にとって?それが殺人などの場合には遺族にとって。犯行を犯した者にとって。そして社会にとって。この場合はわたしにとって。であるから、問題発言があると、先ず、その言葉によって不快にさせられた者、傷つけられた者に、何を望んでいるかを尋ねるのではなく。削除という選択肢しかないというところが、一事が万事であることだなあと改めて感じた。
 
「謝罪」を求めないのは、日本の社会は、説明ではなく、謝罪して、事を収めようとする傾向があるからだ。
「言った事を取り消す」のでも「書いたことを削除する」のでもなく、「丁寧に発言の内容と意図を説明する」ことが、 なによりも優先されるべきだと考える。それは口先だけの「しゃざい」或いは反吐の出そうな「土下座」などよりも、もっとも誠実な対応だと思うからだ。


先ず説明要請Ⅰ

 
 

この前私の質問が引用されたから、
何を書いても青梗菜さんに迷惑かけそうで、
何も書けないでいました。

青梗菜さん、コメント常連の皆さん、
迷惑かけてごめんなさい。

彼の人は「困っている」かもしれないけれど、
周りが変わればいい、という考えが優先なので、
親身にしても解決しないどころか、
こちらが悪者になってしまいます。

環境が変化していくのは誰の責任でもない。
生物はみんな環境変化に主体的にそれぞれの形で
変容していくものであり、
それをしないと決めるのも自己責任と思います。

スマホはただ都合がいいからやり玉にあがっているだけで、
それを審美的だとか言ってるうちは主体変容や
みせかけの「困り感」は解消見込めないでしょう。

ミュンヒハウゼン症候群と同じで、
「困っている」ことが彼の人の存在に必要なことですから、
どうあっても手放さないと思います。

困って雪隠詰めになってまたは自主的に
隠遁生活で満足してくれたらいいけれど、
「自己愛」があるから幼稚な承認欲求を
満たすために、これからもいろんな人にネット上で
ふっかけては揉め事起こすでしょう。

絶対に彼の人の求める人には出会えないし
抱擁も望めないでしょう。
(一部にはいるのかもしれませんから完全否定は
できません。でもそれで満足しない、
もっと違う人がほしいのです。)

前に青梗菜さんとも意見が一致したけれど、
人はたくさんの人からもらった材料でできてるわけですから、
全く似てる人と出会ってその人から統合してもらう
ことを目指すのは不合理です。
だから彼の人の主張(その他の理由を含む)は
一見「理由」のようで、ただの「逃避」です。

知らずと関わった人は不幸です。
特に彼の人の嫉妬の対象になった人はいい迷惑です。

この種の人間との遭遇を一度経験すると
他の自己愛にはひっかかりにくくなりますが、
それでも心に負う傷は深いです。

でも彼の人(達)は詫びたり改めたりすることは
ないでしょう。

彼の人(達)からは反面教師として、
・他人や社会のせいにしない
・各人可能な限り「主体変容」が必要である
ということが大切であると学べはしましたが、
やりとりが不能かつ不毛なことは残念です。 

 

○説明を求める箇所。

「周りが変わればいい、という考えが優先なので、
親身にしても解決しないどころか、
こちらが悪者になってしまいます。」

確かにわたしは、自己を合わない既成の環境に合わせることは出来ません。
それにご存知でしょうが、昨年、まだ、トランプ政権の頃、ニューヨーク・タイムス紙は、日本をトランプ支配下のアメリカ、中国、ロシア・・・などと並ぶ「独裁国家」と規定しました。
ソースは(東京新聞です)
そんな国に対して、周りが変わればいいと考え、感じることはそれほど不自然ですか?
 
「親身にしても解決しないどころか、 こちらが悪者になってしまいます。」
 
これは何を意味していますか?誰がわたしに親身にして、その結果悪者にされたのでしょう。
具体的にお答えを。
 
「環境が変化していくのは誰の責任でもない。
生物はみんな環境変化に主体的にそれぞれの形で
変容していくものであり、
それをしないと決めるのも自己責任と思います。」 

ここで使われている「環境の変化」とはどのような「変化」でしょうか?
太古に恐竜が絶滅したような地球環境の変化のことでしょうか?
それとも、20世紀以降、今に至るまで続けられている、「人類による」「地球環境の破壊・汚染」の意味でしょうか?後者の場合は責任は人類にあります。その犠牲となって多くの生物がこの地球上から消え去りました。或いは、所謂「IT革命」のような文明化を言うのでしょうか?誰の責任でもない?スマホは突然地球上に誕生した生物ですか?だとしたら、誰のせいでもないといえるでしょう。けれども、あれは、巨大企業が開発製造したものです。それが自然のものでない限り、何を生産製造しようとも、そこには、作り手の、生産者の、開発者の責任が伴います。
2030年代には、地球環境の急激な変化によって、人類にとって(ということは無論他の生物にとっても)
かなり過酷な生存環境になるだろうという予想も出ています(ソースは辺見庸の著作)
それでも、生物は、やはり「主体的に」「それぞれの生存のための変容を遂げてゆく(ゆける)」とお考えでしょうか?この120年の間に地球から消えた動植物たちも、その絶滅は「自己責任」であったと?
数十年後、アザラシや北極グマがいなくなることがあっても、それもまた「自己責任」であると・・・・
 
③「スマホはただ都合がいいからやり玉にあがっているだけで、
それを審美的だとか言ってるうちは主体変容やみせかけの「困り感」は解消見込めないでしょう。 
 
わたしはスマホを嫌っています、それが都合がいいとは、どのような意味でしょうか? スマホを攻撃することで得られるメリットとはなんでしょう?
あなたは、何かを醜いと感じたことはありませんか?
人それぞれ、美醜の規準が違う。スマホを醜いと思う美意識が偽物であるという、なにか確信でもお持ちですか?
この二行の説明を要請します。

「ミュンヒハウゼン症候群と同じで、「困っている」ことが彼の人の存在に必要なことですから、
どうあっても手放さないと思います。 
 
何故「困っていることがわたしの存在の基盤」になるのでしょうか?何を以ってあなたはそう言い切ることが出来るのでしょうか。
 
「どうあっても手放さないと思います。」という確信的発言とともに説明を求めます。
 
 
2へ続く
 
 





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