東日本大震災のあと、こうしたパラダイム変換に別の形で向かっている、中村さんからすればずいぶん後輩に当たる人たちのいくつかの鮮烈なことばを思い出しました。ひとりは東日本大震災に東京で、研究生活を送っていた歴史社会学者の山内明美さん。彼女は『こども東北学』(2011年)でこう書きました──《放射能汚染の不安が日本社会を覆いはじめたとき、わたしがいちばんはじめにかんじた違和感は、いま起きている土と水の汚染が、自分のからだの一部でおこっていることを誰も語らないことだった。遠くの災いみたいに話をしている》宮城県生まれの彼女は、東北は冷害や日照りから長く飢饉の不安に苛まれてきた場所だったので、人々は、土に雨水がしみ込むことを自分のからだが「福々しく」膨らむことと感じる。そんな土や海と人とのつながりを深く感じてきたといいます。でも都会でモノのみならずサーヴィスもお金で買うそんな生活を繰り返しているうち、震災と原発事故で傷つけられた土や海の「痛み」を自分のからだのそれとして感じられないほどに自分が「鈍感」になっているのを思い知らされたというのです。「自分のからだが土にも海にも、そして米にも芋にもなりうるという感覚」がいつの間にかじぶんからうせていたと。
鷲田清一『中村桂子コレクション いのち愛ずる生命誌』第3巻 (2020年) 『生命誌から見た人間社会』「あとがき」より
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大地が、水が、空気が汚され、穢されていることを、あたかも自分の身体が穢されているように感じるという感覚はとてもよくわかる。それは山内さんが東北の人で、わたしが東京で生まれ育ったという生育歴とは関係はないと思う。
わたしはスマートフォンに「反・自然」の象徴を見る。であるから、駅のプラットホームや電車内で、それらを自己の身体の一部のように操っている人たちと、わたしという人間の感受性の途方もない隔たりを感ぜずじはいられない。
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山内明美さんによると、彼女を取り巻く自然と、彼女の生体は一体であった。
だから海や土が穢されることは、彼女のからだ、彼女の存在自体が脅かされることと同義であった。同様に、「土に雨水がしみ込むことを自分のからだが「福々しく」膨らむことと感じる。」と書かれているように、自然の中で生きる人たちにとって、雨水も、陽の光も、「生きている自分」の一部であった。
外界=自然即ちわたしの生命であった。言うまでもなくその連鎖は生物にとってあたりまえすぎるほど当たり前のことなのだが・・・
「自分のからだが土にも海にも、そして米にも芋にもなりうるという感覚」
「自然の一部であるわたし」 にとって、この感覚は至極あたりまえの生体としての反応である。
一方で、街のいたるところで携帯電話に心奪われている人たちにとって、「それ」はやはり自分の生体の一部であるのだろうか?
わたしにとっては、 「自分の身体(或いは心身)が多様な自然と同化する─言葉を換えれば多様な自然に変容する─」という感覚は、ごく自然に受け容れられる感情だが、現実に多くの人たちが、自身、「端末機器の先端部分」化しているという状況は、わたしの想像の域を超えている。
無論それらは人体と癒着しているわけではない。しかし彼らの脳は?そして精神は?思考回路は?夙に「癒着」し、一体化しているように思えてならないのだ。
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最後に上に引用した山内明美さんの言葉、
《放射能汚染の不安が日本社会を覆いはじめたとき、わたしがいちばんはじめにかんじた違和感は、いま起きている土と水の汚染が、自分からだの一部でおこっていることを誰も語らないことだった。遠くの災いみたいに話をしている》
これを読んで思い出した文章があるのでそれを引用する。
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No man is an island entire of itself; every manーJohn Danne ・MEDITATION XVII ”Devotions upon Emergent Occasions”
is a piece of the continent, a part of the main;
if a clod be washed away by the sea, Europe
is the less, as well as if a promontory were, as
well as any manner of thy friends or of thine
own were; any man's death diminishes me,
because I am involved in mankind.
And therefore never send to know for whom
the bell tolls; it tolls for thee.
ひとりでひとつの島全部である人はいない。誰もが大陸の一片。
全体の部分をなす。土くれひとつでも海に流されたなら、ヨーロッパはそれだけ小さくなる。岬が流されたり、自分や友達の土地が流されたと同じように。
私も人類の一部であれば誰が死んでも我が身がそがれたも同じ。
だから弔いの鐘は誰のために鳴っているのかと、たずねにいかせることはない。
鐘はあなたのために鳴っているのだ。
誰(た)が為に鐘は鳴る、問うなかれ そは汝(な)がために鳴ればなり
ージョン・ダン 「瞑想録十七」より
◇追記◇
基本的には、わたしは、ポール・サイモン=(サイモン・アンド・ガーファンクル)の歌
「アイ・アム・ア・ロック」(I am a Rock) の歌詞にある、
ぼくは岩、
ぼくは島
I am a Rock
I am an Island...
の方を支持するが。
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