2021年4月4日

Every Time We Say Goodbye, I Die a Little...(さよならを言うたびに、わたしのなかで何かが死ぬ・・・)

 
わたしの「外部」にわたしの「生」の根拠となるものはない。確かにいまも音楽を聴いているが、それはわたしの生きる喜びとは言えず、憂き世に生き永らえているこの身の慰安に過ぎない。
「過ぎない」などと軽く言ってしまうには、これらの音楽はあまりにもうつくしいのだが・・・
わたしの生の支えとなる「外部」、それらはとうに消滅してしまった。

嘗てわたしは世界=外界と融和していた。わたしは「大陸の一部」であり、「孤島」ではなかった。
けれども、開発に継ぐ再開発、已むことを知らない再開発によって、既に「大陸」自体が大きく変貌してしまった。故にわたしは最早大陸の一部であることを拒み、「孤島」として生きるようになった。

私も人類の一部であれば誰が死んでも我が身がそがれたも同じ。
だから弔いの鐘は誰のために鳴っているのかと、たずねにいかせることはない。
鐘はあなたのために鳴っているのだ。
誰(た)が為に鐘は鳴る、問うなかれ そは汝(な)がために鳴ればなり

他者の死、馴れ親しんだ外界の一部が消滅するたびに鐘がなり、それが他ならぬわたし自身のための弔いの鐘であるなら、わたしは既にあまりにも多くの鐘の音を聞きすぎた。
 
 
 
 
 
 
 

 

 

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