2021年4月20日

「自文化」は何故「異文化」ではないのか?或いは「自明性」について

 
最近時々訪れるブログがある。過日、ちょっと興味を惹かれる投稿が目に入ったので、それについて、少し考えてみる。
 
先ずブログに書かれている文章の引用だが、わたしが引用するのは、2015年1月に5回にわたって考察された、「自己認識の方法としての異文化理解 (五)」についてのみである。
 
 この第5回目の投稿を抜粋引用する。(下線・太字は引用者による)
 
 
 
・・・以上の前提に立って、本稿の最初に提起した、「なぜ自文化理解ということは問題にならないのか」という問いに答えてみよう。
 自分がその中で生きている生活世界の文化を理解するということ、つまり「自文化理解」ということが問題として立てにくいのは、すでに「わかっている」自文化、つまりその中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界は、それ自体が自明性の地平を構成しており、したがって、そのかぎり、その地平は対象化されえないからである。自明性に支配された日常世界に生きているかぎり、その一部が問われるべき対象として他の諸対象から区別されて現れないのは当然のことだと言える。つまり、自文化は、すでに「わかっている」いるからこそ、一度も「理解」されたことがないのである。

翻って、異文化が理解の対象となるのは、それが私たちの慣れ親しんだ世界の自明性の地平の上に未知なるもの・不明瞭なもの・不可解なものとして現われるからである。しかし、その対象を理解するためには、それを他の諸対象との関係において位置づけるための「既得の」概念のシステムがなくてはならない。このシステムが自文化の内部にすでに構成されており、それを自覚的に用いることができれば、異文化理解に到達することも困難ではないであろう。しかし、そのシステムが自覚されているとはかぎらない。しかも、そのシステムがすでに構築されているとはかぎらないのである。
 ここでまず問題とすべきなのは、だから、理解の前提となる自明性の地平を露呈させ、それを用いて理解を試みる概念のシステムを、あるいはその不在を、いかに自覚するかということである。己がその上で物事を見ている自明性の地平を方法的に対象化すること、その水準を自覚的・方法的に引き下げることがここでの問題になる。
 以上から言えることは、異文化理解は、その理解それ自体が目的であったとしても、自らがその上で生きている自明性の地平を相対化する方法を身につけることを必然的に含意しているということである。異文化を「理解」することは、自分が「わかっている」世界を問い直し、そこから理解の枠組みを規定している概念のシステムを抽出し、そのシステムそのものを対象化し、「わかっている」世界を敢えて理解の対象とする認識過程への第一階梯であると言うことができる。

 

後半に一部難解な表現が見られるが、これは、この記述がなされるまでの過去4回の論考を読めば分かる(はず)だ。

さて、わたしはこのブログにコメントした通り、「自明性」ということが分からない。
 
「自文化理解」ということが問題として立てにくいのは、すでに「わかっている」自文化、つまりその中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界」
 
いったい何が、「既に分かっている事柄」なのだろう?
「つまりその中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界」。その中でいかに行動すべきかが分かっているのは誰なのか?少なくともそれは「わたし」ではない。
わたしは、この国で生まれ、この国で育ち、57年間生きてきた。けれども、いったい、自国の文化、即ち「自文化の自明性」について何を「わかって」いるだろうか。そしてわたしは、この国で、或いはこの世界で「いかに行動すべき」かが何故まるで分からないのか。

このブログの筆者は(名前は出していない)暗に、日本で生まれ育って数十年、フランスで生まれ育って数十年を経れば、例外なく、 外界は、「その中でいかに行動すべきかがすでにわかっている生活世界」」となるといいたいのだろうか?敢えて捻くれた言い方をすれば、「自明性」というものが分からない特殊な例外はこの際措くとして・・・ということだろうか?

その一部が問われるべき対象として他の諸対象から区別されて現れないのは当然のことだと言える。

つまり、一般人は、自明性という繭の中にすぽりと包み込まれ、その自明性の繭には、亀裂も、ひびもなく、故に、その一部でさえ、対象化されることはない、と?

ではその「例外を除く全ての自国民を包含する繭」たる「自明性」とはいかなるものなのか?
「自明性」は如何にして「自明」となったのか?

たとえば、町を歩いていて公衆電話の姿を見なくなった。時計のある通りが消えた。誰もが携帯電話を使っているから。 これはつまり、公衆電話の時代は終わり、今は誰もが携帯電話を持つ時代。── これははたして「自明性」と呼べるのだろうか?1930年代から、1945年まで、ナチス=「ドイツ社会主義労働者党」が政権党であり、ドイツが独裁国家であったこと、ほぼ同時期に、日本の軍部が権力を掌握していたことは、「歴史的な事実」だ。一部の例外を除き、ナチが、日本の、主に陸軍が実権を握ってることを「疑い」「忌避」する者はいなかった。鶴見俊輔も、手塚治も、先の日本共産党委員長不破哲三氏も、誰もが軍国少年であったと、述懐している。

「自明性に支配された世界」 とは、ある種の全体主義といえるのではないか?
全体主義を一言で言えば「例外のないこと」である。





翻って、異文化が理解の対象となるのは、それが私たちの慣れ親しんだ世界の自明性の地平の上に未知なるもの・不明瞭なもの・不可解なものとして現われるからである。

繰り返すが、わたしはこの国(或いは現代社会の)自明性とやらに、全く 「慣れ親しんで」などいない。
殊更、「異文化」を持ち出さずとも、ある種の人たちにとっては、この社会、この世界自体が「見知らぬ異界」なのだ。

しかし、所謂健常者は、「自明性に支配される」ことによって、健常者足りえているかのように見える。
であれば、自分の立っている足元を掘り起こす、乃至、自明性を相対化したところで、得るものは何もないはずだ。

異文化を「理解」することは、自分が「わかっている」世界を問い直し、そこから理解の枠組みを規定している概念のシステムを抽出し、そのシステムそのものを対象化し、「わかっている」世界を敢えて理解の対象とする認識過程への第一階梯であると言うことができる。

しかしそれがいったい何になるのだろう?

昨夜、さる年配の方のブログを眺めていたところ、現在ベストセラーである「スマホ脳」を読んだ感想が書かれていた。ブログの筆者及びその取り巻き連は、スマホの持つ依存性であるとか、その他、ブログに書かれている本の内容に共感していたようだが、その「スマホ脳」の感想の合間合間に、スマホで写した、散歩道の写真が挿入されている。道で出会った服を着せられ、ジャージーのようなズボンまで履かされた憐れな小型犬の写真も・・・
仮に、「今目の前にある現実」、それをいかなる理由を以ってか「自明性」と呼ぶのであれば、これがつまり、自明性の相対化の実態であろう。スマホについて批判的な言及を共有しながら、上下にスマホで撮った写真を配置する。

「わかっている」世界を敢えて理解の対象とする

ことにどれほどの意味があるのか?

繰り返すが、ここに引用した記事のタイトルは、「自己認識の方法のための異文化理解(一)~(五)」である。

引用させてもらったブログの筆者は、「自明性」というものに疑いを差し挟むことなく、「眼前の事実」と「自明性」の異同について考察することなく、この場では、「自明性という自明性」を前提し論を進めている。けれども、それぞれの国民、それぞれの文化は、その疑われることのない「現実」=「自明性」(?)に支えられて日々を生きているが、自明性は、しばしば、全体主義と親和性を持ち、「例外」を排除する萌芽を孕んでいるということを忘れがちである。

最後に、自己認識といい、自文化理解といっても畢竟それは、知的営為の範疇でしかない。

理解が「感情」に結びつかなければならいのではないか?

「スマホ脳」を称揚しながら、スマホで撮った写真をブログに貼り付けづにはいられない自己への嫌悪。

憎悪であれ、忌避感であれ、破壊衝動であれ、一方で、憧れ、勇気付けられるという情緒・感情を捨象した、自己認識・自己理解にわたしはなんらの意味も見出すことはできない。


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