2021年4月22日

テレビ時代の子供だったわたし・・・

 
いままでずっとテレビなるものを持たずに過ごしてきた。引越しを機にようやく一台を備えてみると、けっこうおもしろくもあり、またずいぶん不便なことも起こる。
マイナスの最たるものは、少しでも気になる番組があると、そのために時間を規制されてしまうことだ。自宅が仕事場の身には、スイッチひとつで手に入るこの愉しみをしりぞけるのはかなりむずかしい。机を離れずにがんばっていても、こころのどこかでちょっぴり残念だなと思っていたりする。
 
そんなふうにして子供のための本などせっせと翻訳したりしていると、時折自分のしていることがまことに空しく思われてくる。なぜってこれを読む子供たちは、既にテレビ時代の子供で、わたしとはまるきり別の人種なのだ。
彼らはすでに月の裏側までも、自分の目で見て知ってしまっているのだ。この世にもはやあたらしきものなし、とまでいってしまっては大げさだろうけれど、これだけ何もかも見ながらそだつことのできた子供たちには、少なくとも、世界のあらゆる驚異に対する無感動、刺激に対する耐性のようなものが、三つ子のうちからすでに身についてしまっているにちがいない。このずれは決定的だ。彼らにははたしてこちらの言葉が通じるだろうか。
 
いずれにせよ、わたし個人としては、ものごころつく頃にテレビがなかったことをつくづく感謝せずにはいられない。ガラス戸の中で本を読んでいた頃のわたしにとって、世界の森羅万象はじぶんよりたしかに大きく、たかが20インチの窓にとじこめられてしまうサイズではなかった。
 
ー矢川澄子『風通しのよいように・・・』(1983年)より、「一九七七年・春から秋へ」

 ◇

1977年。わたしは14歳であった。子供の頃から、テレビを熱心に視ていた記憶が無い。
今日も、こちらまで来てくれた母と、偶々、昔のテレビコマーシャルには品もあったし、ユーモアもあったという話をしていた。そう、外で、耕運機のエンジン音が聞こえてきたときに、母が、「ヤンマー・ディーゼル」のCMのことを話し始めたのだ(正確には歌い始めた)。引き続きレナウンのあの独得のイラストの、イエイエ娘たちの歌。音楽もよく出来ていたが、中でも、柳原良平描くアンクル・トリスの漫画に合せた哀愁とペーソス漂うメロディーは秀逸だった。そして、音楽とナレーションに関して言えば真打はネスカフェであろう。今日、あれだけ質のいいCMを作れるディレクターはいない。
 
1970年代といえば、テレビドラマでも、山田太一、倉本、向田邦子が、代表作を連発していた時代だ。しかしわたしは山田氏を除き、彼らのドラマを一度も視た事が無く、山田太一氏の作品は、ほとんど、シナリオとして本で読んだ。『岸辺のアルバム』も例外ではない。
 
わたしがテレビの恩恵を最も蒙ったのは、NHK総合テレビでやっていた「海外ドラマ」であった。
ことに忘れることが出来ないのが、『大草原の小さな家』。これは再放送、再々放送を含めて、何度視たか分からない。その次に来るのが、『アリー・my・ラブ』。
母にとっては、愉しみにしていたのが、『アボンリーへの道』『ER』『弁護士ペリー・メイスン』などであった。いずれにしても、『大草原・・・』と『刑事コロンボ』を視たときのショックは忘れることが出来ない。
 
だから矢川さんの「便利さと不便さ」という気持もよく分かるのだ。
そして今、子供時代の矢川さんが、 「ものごころつく頃にテレビがなかったことをつくづく感謝せずにはいられない。」と言われるように、老境に差し掛かった自分が、もはや、テレビにも、ラジオにも、そして(たまに音楽を聴く以外の)You Tubeにも縁がなくなっていることを、喜ばしいことだと思っている。
 

そう、わたしと、現代人とは、「まるきり別の人種なのだ。」
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 

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