2021年5月1日

固定された視点からの逸脱の必要

 件のブログに先の「引きこもりは人生に対する罪であり罰である」という発言についての筆者の考えのようなものが書かれていた。

これは、ブロガーの管理画面に表示された「上位の参照URL」で知った。


彼は言う


「ところで、
自らを、学ばせない、働かせない、
他人とつき合わせない、
部屋に閉じ込めて、どこにも行かせない、
そんなのは、自らの自由に対する罪だと思うが、
何か説明が要るか?」

そして

「自らを監禁するのは、自らの自由に対する罪、と思うときに、
何か説明が要りますか?
自らを殺害するのは、自らの生命に対する罪、と思うときに、
何か説明が要りますか?
罪と同時に罰である、と思うことに、
何か説明が要りますか?

そこから先の、共同体の利益、みたいなふわふわの説明をしても、
共同体に帰属しない人の共同体批判に戻されますから。」

と書く。


わたしは、最近とみに、巷間いわれる「引きこもり」という言葉に抵抗を感じるようになった。あたかも「自分の意思で外に出ない」という含意を感じさせるからだ。だからわたしは以前から、「外出困難者」であると自称している。そもそも「引きこもり」という言葉が何処から生まれたのか?精神科医の齋藤環は、嘗て「社会的引きこもり」という著書を著したが、最近の『中高年ひきこもり』に、自分が引きこもりという言葉を使い始めたとは書いていなかったと記憶している。

いづれにしても「自他共に認める『引きこもり』と呼ばれる人たちにしても、その多く・・・いや、ほとんどは、外に出られない自分に対して、激しい自己譴責と、同時に一日も早く(「就労」という形に限定せず)社会復帰したいという思いで日々を過ごしている筈である。
現在、公表されている数だけでも、全国に百万人以上の所謂「引きこもり」と呼ばれる人たちが存在している。斉藤環は、潜在的引きこもりとして、その数倍の人数がいると感じていると臨床と調査の現場から語っている。

「自らを、学ばせない、働かせない、他人とつき合わせない、部屋に閉じ込めて、どこにも行かせない」というような人間とは果たしてどのような人間なのか?それはわたしの理解を超えている。

「自らを監禁するのは、自らの自由に対する罪、と思うときに、何か説明が要りますか?
自らを殺害するのは、自らの生命に対する罪、と思うときに、何か説明が要りますか?
罪と同時に罰である、と思うことに、何か説明が要りますか?」

「自らを監禁する」ということも、先程の「自らを、学ばせない、働かせない、他人とつき合わせない、部屋に閉じ込めて、どこにも行かせない」にもまして、理解不能の行動であり、思考である。彼はそのような人間を実際に見知っているのか?
「自らを殺害するのは、自らの生命に対する罪」これは単純に「自殺は罪」という意味ではなく、自らの生を、自由を無駄にしていることを「殺害」という比喩で表わしているのだろう。

「引きこもりは人生に対する罪であり、罰である」というテーゼには、およそ「ヒキコモリ」と言われる人たちが、須らく、自らの主体的選択により己の意思によって、外に出ない、あれをしないこれをしないという「事実」とその「裏付け」が不可欠の前提として存在しなければならない。

わたしが「外に出ない」という現象の裏には、「外の世界に出ることが困難である」という根本的な問題がある。「銃弾が飛び交っているわけでもないのに、外に出られない訳がない」ともし考えるのであれば、あまりに現代の社会病理に疎いという誹りを免れまい。


昨日、御茶ノ水の眼科に母に付き添ってもらって行ってきた。
毎度書いているように、ひとりではバスに乗れない。まるでつい最近東京にバスという交通手段が登場したかのように、ひっきりなしに流れる「何々にご注意ください」のアナウンスに堪えられないが、話し相手がいると、それが気にならなくなる。

立川から中央線で御茶ノ水まで、仮に特快で行っても、アナウンスは避けられない。
だから今回から、新宿より先に行く場合には特急を使うことにした。特急料金は750円ほどで、乗車券と合わせると、1200円を超えるが、静けさには代えられない。
立川の次に停車するのが新宿である。お茶の水までは、また中央線に乗り換えて、四ツ谷、御茶ノ水となる。新宿駅のホームの英語のアナウンスには耳を塞ぎたくなるが、なんとか御茶ノ水までたどり着いた。それにしても特急あずさに乗った時の静けさは・・・

何故この国は、バスでも電車でも、つい最近お目見えしたかのように、手取り足取り、乗り降りに際しての注意を促して来るのか?「優先席を譲りましょう」「携帯電話はマナーモードに」「ホームと列車の間が一部広く開いているのでご注意ください」「やむを得ず急停車することがございます、お立ちの方は、手すりや吊革におつかまりください」更に同じ文句を英語で繰り返す。そこまで一から十までああしろこうしろと言わなければ日本人はバスにも電車にも乗れないのか。

かかる如く外界の刺激はわたしにとって攻撃的である。電車の隣の席で携帯電話を見ている。あのディスプレイの光も攻撃的である。スーパのレジの自動精算機も、少しもたついていると、「オカネヲイレテクダサイ オカネヲイレテクダサイ」と喧しい。

oki氏が例によって、自分が平気なことが平気ではない人間は、「問題のすり替え」とお決まりのセリフを吐くかもしれないが、憶えておきたまえ、きみはただ鈍感なだけなのだということを。

「T氏のブログ久しぶりに読んでみましたが、手を変え品を変え、同じことを繰り返しているだけで視野がね、狭すぎます。他人と関わらないから、他人の視点が分からないんだろうな。
多くの視点を共有できなきゃ人生つまらないですよね。
他人の視点からものをみることを学んで、自分の考え方の間違いに気づくことの繰り返しが結局成長だと思うのですがね、かつての自分の独りよがりを振り返りつつ」

類は友を呼ぶか。「他人と関わらないから」というのも、まるで自分から扉を閉ざしているように考えているらしいが、このブログでも再三再四述べているように、わたしの主訴は「他者と良好な関係を築くことができない。またその関係を維持してゆくことが困難」という純粋に精神医学の問題であるにもかかわらず、「関われない」を「関わらない」に読みかえを行い、それをまたぞろ誤った前提として話を進めている。

「他人の視点からものをみることを学んで、自分の考え方の間違いに気づくことの繰り返しが結局成長だと思うのですがね、」

あなたはいつも、常識的なことしか言わないね。言い方を換えれば社会通念から逸脱した人間や、現象をマイナスとしてしか捉えることができない。
常識と一般論と建前だけで出来ているようなあなたこそ、もう少し、視野を広く持った方が良いのではないか。

「他人の視点からものをみることを学んで、自分の考え方の間違いに気づくことの繰り返しが結局成長だと思うのですがね、」

愚問だけど、その「他人の視点から見ることを学んで、自分の考え方の間違えに気づく」という時の「他人」の中にはわたしは言うまでもなくふくまれていないね。何しろ、前提として、わたし自身が、「間違った存在」らしいので。

いずれにしても、「引きこもりは人生に対する罪であり罰である」の意味が、「引きこもりは自らを監禁している」というものであるのであれば、最早これ以上の説明を求めるつもりはない。












19 件のコメント:

  1. こんにちは。

    こういう話は、社会的な「洗脳状態」にある人に言っても、絶対に通じません。
    と言うか、必ず強い反発を返してきます。
    なぜなら、「社会」と言う「教団」の中にあっては、その「教義」に反することは『罪であり罰であるから』です。

    「彼ら」は「生きること」が正しいと刷り込まれていますし、「自由」が正しいと刷り込まれていますし、「外に出ること」が正しいと刷り込まれています。
    だから、その「教義」に反する行動を取る者には、必ず強い反発を返してきます。
    でも、それらは「正しい」のではなく、単なる「人間の習性」に過ぎないものです。

    だから、『出来るのにやらない』でも『出来ない』であっても同じです。



    私が思うには、『出来る、出来ない』の問題ではありません。
    「出来ること」を『やらない』としても、それは罪ではありません。

    だって、それはおかしいですよね。
    「出来ること」を『やらなければいけない』だとしたら、どこが「自由」なんです?
    『やっても、やらなくても、どっちでもいい』これが「自由」でしょ?
    違うんでしょうか?

    もしも、『人に迷惑をかけている』ということを言うのならば、『自分を殺す』などと言う言い方はおかしいですね。

    現在引きこもっている人たちは、ほとんどの場合「今の社会の中で生きること」が「誰かを殺すこと」であるということに気が付いてしまった人たちです。
    (それを「理屈」として把握している人は、たぶん少ないですけどね。だから、社会復帰を目指す人が多いんだと思いますよ。)


    けっきょく、「彼ら」が言っている「自由」とは「社会が認める自由」であり、「社会が要求する自由」なんです。

    「社会」は一見すると「人間」によって構成されているように見えますが、実は「社会」は「社会」であって、「人間」ではありません。
    「社会」にとっては「人間」は「部品」なんです。
    だから、「社会」は「人間(個人)」を、「優秀な部品」として評価することはあっても、「個人」としては全く尊重などしないのです。
    そして「社会人」である彼らもまた「人間(個人)」を尊重しません。
    「個人」を尊重すれば、必ず「社会」からは、はじき出されることに成ります。
    それを恐れるがために「彼ら」は「個人」には成れないのです。

    しかし、実を言うと、「社会」と言うモノは、もはや存在しているとは言い切れないとも考えられます。

    なぜなら、「社会」という概念は、必然的に「個人」と言う概念と対立するものであって、最終的に両立不可能な概念であるからです。
    妥協的な意味で言えば、表面的に両立しているように見せかけることは可能ですが、常に、その妥協は、最終局面における「選択」に晒されています。
    つまり、如何なることにおいても「社会」を優先するか?「個人」を優先するか?と言う「選択」は、突き付けられているわけで、その「選択」から外れていることなど一つもないというのが本当のことだと思います。

    現在の「実社会」においては、常に「社会」が優先されています。
    しかし、それは「現実」に限っての話です。
    「哲学」や「思想」などにおいては、『「個人」が優先されるべし』と言う考えの方が主流だと言っていいでしょう。

    一種の「ダブル・スタンダード」だと思いますが、「思想」においては「個人のための社会」という概念が既に成立しているのに、「現実」においては「社会のための個人」という封建的な思考に囚われてしまっていて、そこから抜け出せずにいるというのが現在の状況だと思います。

    そして、「教育」は「社会」が行っていますから、常に「社会優先」です。
    その「教育の犠牲者」が「彼ら」ですね。
    まだ「個人」に成っていません。

    と言うか、「彼ら」の中には『まだ「個人」という概念が無い』と言うことなのかも知れません。
    そこのところを「社会的な洗脳」によって、完全に「真っ白」に消されてしまっているんでしょう。

    「彼ら」は「思考」と「記憶」を、ほぼ同じものだと思って「勉強」し続けた人たちです。

    「思考」とは「教科書を疑うこと」に他なりませんし、「記憶」とは「教科書を覚えること」に他なりませんし、「その憶えた教科書どおりの答えを信じて疑わないこと」を「勉強」と言っているわけです。

    「教科書」を疑った生徒は、必ず成績が下がりますね。


    自分を不自由にすることが「罪」であるならば、なぜ「自分を生かしていること」は「罪」でないと言えるでしょうか?

    こういうことは、「彼ら」には理解できないでしょう。
    なぜかと言うと、「個人」と言う考えが『まだ、無い』からに他なりませんね。

    一言で言って、「彼ら」は、今までに覚えてきた「知識」を捨てることが出来ないのです。
    それを捨てることが、「自身の崩壊」を意味すると思いこまされているということでしょう。

    まさに「カルト教団」による「洗脳」と同じ状態ですね。

    その「現在の日本国」と言う「教団」に、ちょうど同じくらいに「洗脳」された人たちが「彼ら」です。
    前に「彼」が、ブログをやる(ブログ村に登録する)理由について『言葉が通じる人を探すため』と言っていた(そうTakeoさんが言っていた)と思いますが、それは、『同じ「教団」で同じ「教義」に基づいて、同じくらいに「洗脳」された人を見つけるため』ということだたんだと思います。 


    果たして、それを『変わる』といっているんでしょうか?
    同じ様な考え方に同じくらい洗脳された人が集まって、いつも同じようなことをっている。
    それを『変わる』と言っている。

    Ⅾも、実際は、同じ「教団」の同じ「洗脳度」の人を見つけたかった。

    そして、それを見つけたんでしょう。


    例えば、Takeoさんも同じ様なことを繰り返してはいると思いますが、一人の人間が同じことを言うのは当然のことです。
    しかし、例えば、わたしとTakeoさんは『教科書に書いてないことを言う』という点では共通していますが、趣味も思考もかなり違います。

    根本的なことで言えば、私は「長生き」を一つの目標にしていますし、「努力」を常に重視しています。
    ハッキリ言ってしまえば、Takeoさんとは相いれない部分でしょう。

    もう少し趣味的なことで言っても、私はほとんど美術鑑賞をしませんし、本も読みませんし、映画もあまり見ませんし、写真もほとんど興味がありません。
    唯一興味があるのは「音楽」ぐらいですが、私の場合は極端にジャンルが狭いので、Takeoさんとは、すれ違いざまに挨拶を交わすくらいのレベルだと思います。
    私はモダンジャズをほとんど聞きませんし、クラシックもほとんど聞きません。
    アメリカのブラック・ミュージック以外のポップスもカントリーも民族音楽もほとんど聞きません。
    と言うか、それらのすべてを、ブラック・ミュージックの耳で聴いてしまいますから、聞いたとは言えません。

    つまり、私とTakeoさんには、共通の言語がほとんど存在しないと言ってもいいと思います。
    それなのに、こうして話し続けています。

    おそらく、「彼ら」には有り得ないでしょう。

    「彼ら」から見たら、Takeoさんは「了見の狭い人」なんでしょうが、私から見るとTakeoさんの「思考の自由度」は、かなり高いですね。

    少なくとも、私が、これだけ自由にしゃべっていられますから。

    もし「彼ら」が『変わることが出来る』としたら、まず、「学問」や「学術」から得た「知識」を捨てることですね。
    それはTakeoさんにも同じことが言えるかもしれませんが、「書物」や「文学」から蓄積された『「知識」を、どこまで軽視することが出来るか?』ということじゃないかと思います。

    一度「記憶」されてしまった「知識」を消すことは出来ません。
    「記憶」は消える(忘れる)と思われていますが、私は「記憶」は消えないモノだと思っています。

    でも、それを軽視することによって、如何に自分の中に「記憶以外の領域」が少ないのかが見えてきます。
    何故かそれを重視していると「その他の領域の広さ」が見えてきません。
    「記憶」や「知識」を除外した上で、残った「カス」こそが「本当の自分」なのではないでしょうか?

    その「カスな自分」を見るのが嫌だから、「知識」や「記憶」に頼ってしまうんだと思います。

    私は、そういうのがやめたくなって、自分の絵を描くようになりました。

    さて、「彼ら」はTakeoさんや「ヒキコモリの人たち」を責め立てるほどの、如何なることを『やっているのでしょうか?』どのように『変わっているのでしょうか?』見せてほしいものですね。


    いや、あまり見たくないかな?

    あぁ、ぜんぜん見たくなかった。


    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    追伸

    「ところで、
    自らを、学ばせない、働かせない、
    他人とつき合わせない、
    部屋に閉じ込めて、どこにも行かせない、
    そんなのは、自らの自由に対する罪だと思うが、
    何か説明が要るか?」

    どう見ても、最初と言ってることが変わってきているように見えますがね。
    はじめは『なぜ人を巻き添えにするのか』みたいなことだったような気がしますが、いつの間に変化したんでしょう?



    「外に出ない(出られない)こと」が罪ならば、ホームレスが最も罪が軽いですね。

    一年中、外に居ます。

    これは当たっているかも知れないよね。

    それでは。

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    1. こんにちは、ふたつさん。

      確かに「社会」というものは、ある種の「カルト教団」のようなところがあると、「部外者」であるわたしの目には見えます。

      以前も書いたと思いますが、立川から現在わたしの住んでいる団地に行くまで約20分、その間上に書いたような、「何々に注意しましょう」「何々しないでください」というアナウンスはかまびすしい。引っ越して間もなく運転手にどのバスのこんなにうるさいんですか?と訊くと、「仕方ないでしょう、決まり事が沢山あるんだから」と。これは、所謂教義とは関係ありませんが、わたしには2つの「何故?」があります。

      何故、「駆け込み乗車は危険である」ということを、いちいち教えてもらわなければならないのか?それこそ、「言うまでもないこと」子供でも分かる「あたりまえのこと」ではないのか?そして、何故、みんなこのような余計なおせっかい=騒音が平気でいられるのか?

      ヨーロッパの事情を知りませんが、ヨーロッパでこのような、執拗なアナウンスが公共交通機関で流されるということはわたしには考えられません。

      つまり、不必要なアナウンスが流れることこそが当たり前の社会=教団の決まりなのですね。ふたつさんの言葉を借りれば「日本社会の習性」と言ってもいい。

      「自らを、学ばせない、働かせない、

      他人とつき合わせない、

      部屋に閉じ込めて、どこにも行かせない、」

      ことが仮にあって、(それはなにやら、幻想小説染みていますが、)それが当人の自由意志からの発したものであるのなら、当人は、好きでそのような生活を選んでいるのですから、傍がそれについて、とやかく言う筋合いのものではないと思います。

      >「出来ること」を『やらない』としても、それは罪ではありません。

      無論そうです。誰がそれを断罪できるでしょう?

      >「出来ること」を『やらなければいけない』だとしたら、どこが「自由」なんです?

      『やっても、やらなくても、どっちでもいい』これが「自由」でしょ?

      これもその通り、と相槌を打つまでもなく自明の事です。

      やりたくないことをやらないこと。これが真の自由です。



      >現在引きこもっている人たちは、ほとんどの場合「今の社会の中で生きること」が「誰かを殺すこと」であるということに気が付いてしまった人たちです。

      (それを「理屈」として把握している人は、たぶん少ないですけどね。だから、社会復帰を目指す人が多いんだと思いますよ。)

      狭義に捉えれば、「今の社会の中で生きること」が「誰かを殺すこと」である」と言うことは可能だと思います。何故そうなるのかを説明するのは困難ですが。直感として、肯けます。

      わたしは現代社会で生きる能力もありませんし、また、現代の社会に参加したいとも思いません。本文でつらつら書いたように、また母とも話したように、わたしもまた、旧時代の人間です。今の社会で生きることは、とりもなおさず心身の死を意味します。

      ですからわたしには、現在引きこもっている人が、自由に外に出られるようになりたいという気持ちを持つことは理解できますが、就労をも含め、ひたすら社会復帰を目指すという感覚が理解できません。何故なら彼らの復帰しようとしている社会という組織ないし教団ではわたしは自由に生きることができないからです。

      >「社会」は一見すると「人間」によって構成されているように見えますが、実は「社会」は「社会」であって、「人間」ではありません。

      「社会」にとっては「人間」は「部品」なんです。

      だから、「社会」は「人間(個人)」を、「優秀な部品」として評価することはあっても、「個人」としては全く尊重などしないのです。

      そうでしょうね。社会はそれ自体がひとつの生体ですから、自分を肥やしてくれるものを歓迎し、そこから引き抜いてゆくものを疎んじます。

      社会にとって必要なのは、有能な使用人であって、ホームレスは邪魔者です。

      >そして「社会人」である彼らもまた「人間(個人)」を尊重しません。

      「個人」を尊重すれば、必ず「社会」からは、はじき出されることに成ります。

      それを恐れるがために「彼ら」は「個人」には成れないのです。

      しかし、世界中には様々な社会があります。現代の日本社会を以て「社会全般」を語ることには
      多少無理があるのではないでしょうか?
      わたしたちはあくまでも日本社会は世界でも特殊なカルト社会であるという認識を持つべきだと思います。

      >しかし、実を言うと、「社会」と言うモノは、もはや存在しているとは言い切れないとも考えられます。

      なぜなら、「社会」という概念は、必然的に「個人」と言う概念と対立するものであって、最終的に両立不可能な概念であるからです。

      妥協的な意味で言えば、表面的に両立しているように見せかけることは可能ですが、常に、その妥協は、最終局面における「選択」に晒されています。

      つまり、如何なることにおいても「社会」を優先するか?「個人」を優先するか?と言う「選択」は、突き付けられているわけで、その「選択」から外れていることなど一つもないというのが本当のことだと思います。

      これにも共感します。ただ、

      >実を言うと、「社会」と言うモノは、もはや存在しているとは言い切れないとも考えられます。

      ここはわたしにいわせれば、「「個人」と言うモノは、もはや存在しているとは言い切れないとも考えられます。となります。

      「社会」と「個人」「主体」との相克は、「絶対的矛盾的統一」(だったかな?)と西田幾多郎は言っています。確かにこの両者は、絶対的矛盾的にしか統一できないでしょう。

      >一種の「ダブル・スタンダード」だと思いますが、「思想」においては「個人のための社会」という概念が既に成立しているのに、「現実」においては「社会のための個人」という封建的な思考に囚われてしまっていて、そこから抜け出せずにいるというのが現在の状況だと思います。

      そう簡単に言い切ることはできません。何故なら、世界のあちこちで、個人の権利を主張して、国民・市民たちが、蜂起している現場を我々は観ているはずです。

      彼らは易々と社会の言いなりには成りません。彼らの生活、彼らの価値観の根底には、先ず個人があって、その権利が蹂躙された時には、暴徒化も辞さないという意識があるはずです。

      先日、わたしはロシアの民主化運動家であるナバリヌイ氏を称賛しましたが、一点だけ、考え方が違う点があります。ナバリヌイ氏はレーニンと違い、暴力革命を否定しています。そしてわたしは力=暴力に訴えずに、社会を根本的に変えることは難しいと考える者です。ふたつさんもそのことはもう充分ご存知ですよね。

      つづく

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    2. >そして、「教育」は「社会」が行っていますから、常に「社会優先」です。

      その「教育の犠牲者」が「彼ら」ですね。

      まだ「個人」に成っていません。

      と言うか、「彼ら」の中には『まだ「個人」という概念が無い』と言うことなのかも知れません。

      そこのところを「社会的な洗脳」によって、完全に「真っ白」に消されてしまっているんでしょう。

      本を読み、思考する、ということは、実際「反・社会的行為」ですね。そのことは
      https://pobohpeculi.blogspot.com/2019/08/blog-post_47.html
      でも書きましたが、今や大学は就職予備校のようになっているのではないでしょうか?

      >前に「彼」が、ブログをやる(ブログ村に登録する)理由について『言葉が通じる人を探すため』と言っていた(そうTakeoさんが言っていた)と思いますが、それは、『同じ「教団」で同じ「教義」に基づいて、同じくらいに「洗脳」された人を見つけるため』ということだたんだと思います。

      そうですね。

      思ったのですが、彼が

      「自らを殺害するのは、自らの生命に対する罪、と思うときに、何か説明が要りますか?」

      これは「比喩」ではなく、正に「自殺は罪だ」と言っているのではないかと。

      そしてもしわたしの想像通り、「自殺は罪だと思うときに、何か説明が要りますか?」というのであれば、最早彼の言葉は羽毛の如しですね。

      「『自殺』こそ、もっとも真剣に考えるべき哲学的テーマである」(カミユ)



      仲間を、同じ価値観を持った人間を捜すということは、ごく当たり前のことですが、わたしであれば、根本のところで、何か繋がりがあれば、寧ろ、議論できる相手を選びます。そして独自の考えを持った人を。彼のように「おもねるものたち」に囲まれていることは、わたしなら、ひたすら虚しく感じるでしょう。



      >根本的なことで言えば、私は「長生き」を一つの目標にしていますし、「努力」を常に重視しています。

      ハッキリ言ってしまえば、Takeoさんとは相いれない部分でしょう。

      もう少し趣味的なことで言っても、私はほとんど美術鑑賞をしませんし、本も読みませんし、映画もあまり見ませんし、写真もほとんど興味がありません。

      唯一興味があるのは「音楽」ぐらいですが、私の場合は極端にジャンルが狭いので、Takeoさんとは、すれ違いざまに挨拶を交わすくらいのレベルだと思います。

      私はモダンジャズをほとんど聞きませんし、クラシックもほとんど聞きません。

      アメリカのブラック・ミュージック以外のポップスもカントリーも民族音楽もほとんど聞きません。

      と言うか、それらのすべてを、ブラック・ミュージックの耳で聴いてしまいますから、聞いたとは言えません。

      だって、これらは要するに趣味嗜好の相違でしかありません。わたしはふたつさんの戦前のブルースへの情熱を共有することはできませんが、何か一つのこと、ものを偏愛するということは素晴らしいことだと思います。



      >「T氏のブログ久しぶりに読んでみましたが、手を変え品を変え、同じことを繰り返しているだけで視野がね、狭すぎます。他人と関わらないから、他人の視点が分からないんだろうな。」

      マイノリティーが自己表現をする時には、必ず、彼の、彼女の主たる問題が付随すると思います。わたしは文章を書くことを商売にしているわけではない。
      わたしの文章には必ずと言っていいほど、同じテーマが繰り返し現れます。

      >手を変え品を変え、同じことを繰り返しているだけで視野がね、狭すぎます。

      それをわたしが自覚していないとでも?

      それでも可能な限り、自己主張と、それ以外のアートや文芸など、できるだけ、幅広く話題を集めているつもりですが、いずれにしても、彼には、マイノリティーの心情は理解できない。



      わたしは、本を読むことで自分一人がこんな風に考えている訳ではないとうことを知ります。
      本はわたしの思考の自由度を上げてくれます。わたしは本から離れることはできません。音楽や映画やアートから離れることができないように。

      人間は、「記された教義に従う」のではなく、自分で自分を作り上げてゆくものだと思っています。そのパーツが一冊の本であり、一枚のレコードであり、一本の映画であり、一枚の写真であるのです。

      本の中の言葉は単なる「知識」でも「記憶」でもありません。

      但しわたしは、一面、言葉に対して、深く懐疑的であり、時に不信感を抱くことがあります。

      究極的に対峙なのは、人間と人間の繋がりであると。

      >「ところで、

      自らを、学ばせない、働かせない、

      他人とつき合わせない、

      部屋に閉じ込めて、どこにも行かせない、

      そんなのは、自らの自由に対する罪だと思うが、

      何か説明が要るか?」

      どう見ても、最初と言ってることが変わってきているように見えますがね。

      はじめは『なぜ人を巻き添えにするのか』みたいなことだったような気がしますが、いつの間に変化したんでしょう?

      ああ、これはまた別の時に話した話題ですね。

      https://pobohpeculi.blogspot.com/search?q=%E4%B8%80%E4%BA%BA%E3%81%A7%E6%AD%BB%E3%81%AD

      >外に出ない(出られない)こと」が罪ならば、ホームレスが最も罪が軽いですね。

      一年中、外に居ます。

      これは当たっているかも知れないよね。

      はははは。その通り。これは彼にとって難問だね。

      コメントをどうもありがとう。平穏な連休を。


      削除
    3. 追記

      わたしの言葉に対する懐疑、不信感は、特にツイッターなどSNSへの極端な嫌悪・憎悪に現れていると思います。
      稀にツイッターなどを除いて、優等生的な発言を見ると、言葉への嘔気は極限に達します。

      削除
  2. こんにちは。

    上のコメントで、説明が足りないところがあったと思うので捕捉します。

    『既に「社会」は存在して居ないとも言えるかもしれない』と言ったのは、「哲学」や「思想」においては「個人のための社会」と言う考えが、ほぼ確立されているだろうということを前提にして言いました。

    もし、今もって「社会のための個人」と言う考え方を中心にした「思想」があるとしたら「国粋主義」や「国家主義=ナショナリズム」のような、「個人」を無視してでも「国家」を優先することこそが、「国民の利益」であるという考えに基づいた「思想」だけだと思いますが、おそらくそういう「思想」は、「彼ら」のライトでリベラルな考え方とは相入れないモノだろうと思います。

    少なくとも、日本ではともかくとして、世界的に見た場合は「個人優先」と言う考え方が主流になっているわけです。

    ただし、ここで、私とTakeoさんの考えに違いがあるのは、私は「現実社会」においては、日本以外の国であっても、やはり「社会優先」であると感じます。
    デモや抗議活動が盛んな国とそうでない国が分かれるのは、おそらく、それぞれの国の歴史からだと思います。

    地続きの国同士が争いを続けてきたヨーロッパでは、「自国の利益」は勝ち取るモノと言う感覚が強く、島国の日本などでは、むしろ「和」の心が重視されてきたんだと思います。

    しかし、これは例えば南・北米大陸がヨーロッパの国に侵略された歴史を見るとわかりますが、部族間の抗争を繰り返していた「ネイティブ・アメリカン」は「戦い」を選びましたが、南米インディオたちはあっさりと征服されています。

    私は、どちらも「肯定」も「否定」もしませんが、「ヨーロッパの列強諸国」が暴力的な侵略を行ったことは「否定的」に考えています。

    要するに、「侵略」や「横暴」を受けた側に対して、『どう対抗するか?』ということを問いただすことよりは、むしろ、「侵略」や「横暴」を行った側に、『その侵略が必要なのか』と問いただしたいと思ってしまいますね。

    別に「答え」は求めません。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    あとは、「学問」や「書物」などの「知識」を軽視することと言うのは、それらを侮辱することや排除することを意味するものではありません。

    それらは、いわゆる「立派な人たち」によってつくり出されたものであり、事実「出来のいいモノ」でもあるでしょうから、当然、その存在が大きく成ってしまうわけで、そういう「肥大化した存在」である「学術」や「芸術」「文学」などの存在を少しだけ軽視していくことで、自分の中の「本当の自分」が見えてくるということはあるんじゃないかな?と思ってそういうことを言いました。

    けっして、Takeoさんや他の誰かの「知識」や「感性」にケチを付けようという話ではありませんので、どうぞ、お気を悪くなさらないように。



    それでは。

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    1. こんばんは。

      上のコメントを読み返してると、目の具合が良くないせいか、やたらに誤字が目立ちます。ふたつさんに限らず、読まれた方は前後の文脈から訂正してお読みくだされば幸いです。
      公開する前に読み返したのですが、読み返してこれです。

      >『既に「社会」は存在して居ないとも言えるかもしれない』と言ったのは、「哲学」や「思想」においては「個人のための社会」と言う考えが、ほぼ確立されているだろうということを前提にして言いました。

      詳しいことはわかりませんが、基本的に、思想の世界では、「個人のための社会」ではなく、「社会と、個人は対立するもの」或いは、「『個人』と『社会」という根本から相容れないものがどのように共存してゆくか?」という考えのように思います。だからこそ、西田幾多郎は、個人と社会との関係を「絶対的矛盾的統一」と表現したのでしょう。

      >「個人」を無視してでも「国家」を優先することこそが、「国民の利益」であるという考えに基づいた「思想」だけだと思いますが、おそらくそういう「思想」は、「彼ら」のライトでリベラルな考え方とは相入れないモノだろうと思います。

      わたしは「彼ら」は所謂体制側の人間即ち、「自民党的」な思想をもつ人間であると思います。
      わたしはそもそも「リベラル」という右でもなく左でもない概念がよく理解できないのです。
      わたしは「白か黒か」という世界認識しかできない人間ですので、「リベラル」と呼ばれる「灰色の人たち」がわからないし、正直に言えば好きになりません。
      そして、新聞などで、例えば、上にリンクを貼った、50代の引きこもりの男性が、数人を殺傷し、自らも自殺した、という報道が為された時に、新聞紙上では、「死ぬなら一人で死ね!」というな、というのが、「リベラル派」の主張でした。一方彼は、正に上のリンクにあるように「死ぬなら一人で死んでくれ!」と主張したのです。

      わたしはどちらの意見にも共感できませんでした。新聞に寄せられた、「死ぬなら一人で死ねというな」という意見にも「彼」の様に「死ぬなら一人で死ね」という思想にも。



      >私は、どちらも「肯定」も「否定」もしませんが、「ヨーロッパの列強諸国」が暴力的な侵略を行ったことは「否定的」に考えています。

      身もふたもない言い方をすれば、戦争、侵略などの行為は、ふたつさんのよく言われる「人間の性(さが)」なのだと考えています。性であり人間の限界でもあります。
      「ホモ・サピエンス(叡智の人)は「戦争」を止められるほど賢明ではない」と言った哲学者もいます。
      「ヨーロッパの列強諸国」が暴力的な侵略を行ったことは「否定的」に考えています。」言い方を換えればこれが所謂「人間であることの恥」であり「生誕の災厄」なのでしょう。

      >要するに、「侵略」や「横暴」を受けた側に対して、『どう対抗するか?』ということを問いただすことよりは、むしろ、「侵略」や「横暴」を行った側に、『その侵略が必要なのか』と問いただしたいと思ってしまいますね。

      ですから、「侵略の必然性・妥当性」を問うことは、相手が人間である以上無意味なことだと思うのです。「何故あなた方は他国を侵害するのか?」「そこに国があるからだ」わたしはこのように思っています。

      わたしは憲法九条を支持します。そして自衛隊に反対です。自衛隊を持つこと自体が憲法違反だと考えるからです。

      単純にいえば、最新の兵器を買ったり、オリンピックをするための金を、もっと、生活者が暮らしやすくなるように使うべきだという考えです。最も、そんなことはこの国に関していえば所詮絵に描いた餅でしかありませんけれど。



      >「学問」や「書物」などの「知識」を軽視することと言うのは、それらを侮辱することや排除することを意味するものではありません。

      それらは、いわゆる「立派な人たち」によってつくり出されたものであり、事実「出来のいいモノ」でもあるでしょうから、

      「立派な人たち」って何でしょう?わたしは「立派な人たち」というのがどういう人たちであるのかわかりません。そもそもわたしは「立派な人」とうのも分からなければ誰かを「尊敬する」ということもありません。わたしは「ミケランジェロ」も「モーツァルト」も、その作品が好きなだけであって、彼らが、立派な人であるのかどうかまではわかりません。ナポレオンが「立派な人」であるかどうかを知っているのは、彼の身の回りの世話をしている使用人だけだと思っています。加えて、「リッパナヒトタチ」がつくったものは「できがいい」という考えには同調しかねます。わたしならこう書きます

      「出来のいいモノ」でもあるでしょうから」→「出来のいいモノ」「も」あるでしょうから」と、

      わたしは誰かを偶像化したことがありませんが、いわんとしていることはよくわかるつもりです。ネット上でも、また現実世界でも、芸術や文学、哲学、そして様々な学問に通じていて、自分以外の人間がバカに見えて仕方がない」という、所謂Smart Assは結構いますからね。わたしはそういう人間が最も嫌いです。安倍、菅以上に。

      「知識はないよりあった方がいいか?」この質問に簡単に「勿論!」とはわたしは答えることができません。

      ご不快な返信になったかもしれませんが、いまのわたしの状況=極度のストレス、様々な身体的症状そして孤独などに因るものとして、ご寛恕ください。




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    2. こんにちは。

      たぶん、私が言っていることと、Takeoさんが言っていることは、ほぼ同じだと思います。

      私が「りっぱな人」と言ったのは、世間でそう思われている人と言う意味です。
      つまりは権威の名の下にある人です。

      例えば、ミケランジェロやモーツアルトを、どうしてみんなが知っているのか?
      それは、何らかの形で有名だからで、その「有名」とは「書物で紹介されていること」や「権威ある人によって紹介されていること」であるわけです。

      前に、ここに(確か)ディキンソンと言う人が『雪(詩)は白いまま天に帰すべき』という言葉が引用されていて、私もその言葉に共感しましたが、しかし、より厳しく言うならば、その言葉はなぜ残っているのでしょうか?
      もしも、それが『天に帰された』ならば、それを知る手立てがないハズです。

      「自分の言葉の責任」を、その言葉を後に成って扱った人間の責任にしてしまっていいのか?
      『天に帰す』とは、その時点で自らの手で『天に帰す』ことを意味するような気がします。

      ただし、それを言ってしまうと、すべての「芸術」も「文化」も「表現」も、消えてしまいますけどね。

      それでも、イイのかも知れませんが、それじゃ、寂しいような気もします。


      それから、「ライトでリベラルな考え」とは、要するに「実体のない考え」と言う意味で言ったものです。
      「彼ら」は、ある時は「保守」ある時は「人道主義」、そして、ある時には「差別主義」です。
      つまり、実体がありません。

      あと、『前は「人を巻き込むなよ』と言う話だった』と言ったのは、特定の事件について言ったのではなく、「彼(ら)』の言っていること全般について言ったことです。

      はじめから、『他人のブログのコメント欄で、なにエラそうなこと言ってんだよ!』と言うニュアンスを感じていたので、そういう言い方に成りました。

      だから、「彼」とTakeoさんの関わりの中に私が加わった一番最初の時に、私が言ったことの中に『あえて言えば、他人のブログで、Takeoさんがそれを言ったことはヘイトかも知れない』という言葉があったはずです。

      「彼」は基本的に「自己中心的」で「自己愛的」な人だと思います。
      それが、悪いことかどうかは知りませんが、それは間違いないことだと私は考えています。

      だから、基本的に『自分に迷惑が掛からなければ、知ったこっちゃない』と言う部分があると思いますよ。

      ここまで、ずっと、そういう主張を続けていた「彼」が、いきなり「自分を殺すこと」と言う論旨のすり替えを行っているように『私には見えました』と言うことですね。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      もちろん気分を害したりはしていません。

      それでは。

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    3. こんばんは。

      ミケランジェロやモーツァルトが有名なのは、おそらくは世界中の学校教育の中で彼らの作品が紹介されているからだと思います。もちろん人の趣味を教育という名で押し付けることは許されませんし、モーツァルトよりもPUNKが好きだちうことも全く問題ではありませんが、それでも、幅広く過去の芸術作品を紹介することは、学校教育の勤めだと思っています。つまり生きることが少しでも楽になるような、より多くの選択肢を示すことが教育の目的だと思うのです。
      ですから「もってけ泥棒!」という記事に書いたような教育もあっていいと思います。



      わたしにはふたつさんの芸術観というものがいまひとつよくわかっていないようです。
      芸術不要論なのか、或いは芸術が売買の対象になることへの忌避感なのか?
      個人的には、芸術というものは、ある人間の実存の内奥から発せられた、いわばそれなしでは生きられないものであると思っているので、芸術を金もうけの「手段」にしないかぎり、芸術は人間にとって欠かせないものだと思っています。
      但し、オカミから「紫綬褒章」や「文化勲章」を貰うような者たちは「芸術家」とは認めませんけれど。無論それがレジョン・ドヌール勲章であっても。

      この投稿をしてから、彼のブログには行っていません。

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    4. こんにちは。

      たぶん、私は「芸術不要論」ではありません。
      「芸術必要論」ですね。
      そこは、Takeoさんと同じです。

      ただし、私は「オカミ」と「マスコミ」を、「ほぼ同等の権威」と扱っているんだと思います。

      「教育」も「出版物」も「オカミ」もすべて、それが、広められてしまうと「権威」と成っていきます。

      『なぜ「教育」が、それを取り上げるのか?』
      『それは、「出版」されていなくても「教育」の対象に成っていたのか?』
      『「権威」のないところに、現在の「マス」な「教育」が寄っていくだろうか?』

      すべてのことが、「マス」に従っています。
      そして、その「マス」こそが「社会」ですね。

      例えば、すべての「詩」や「小説」が、手書きによる筆記であれば、「マス化」は生じないのかも知れません。
      しかし、それを「出版」と言えるのか?
      いや、それ以前に、それを「書物」と言えるのか?

      昔はそう言えたと思いますが、現在それを「書物」と言えるのか?
      少なくとも、片方に「100万部のベスト・セラー」が存在している現在の世の中で、誰からも顧みられる機会のないそれを「書物」と言えるだろうか?

      いや、言うだけなら出来るでしょう。
      でも、数人の人にしか読まれません。
      そして、もう一方は100万人に読まれます。

      私が「不要」と考えるのは「100万人に知られる芸術」なんです。
      100万人と言わず、大量の人に知られるようなものは、すべて「不要」と考えています。

      つまり、私は「芸術無名論」であり「無名芸術論」ですね。

      私が「芸術者」と呼んでいる「創作者+鑑賞者+批評者」から、唯一除外されると考えているのは「有名人」です。

      すべての人が「芸術者」たり得る、ただし、「有名人」を除く。

      これが、私の「芸術」に対する姿勢の根本です。


      この話は、長く成ってしまうので(と言うか、本を一冊書かなければならなく成ります)、この辺で。


      それでは。

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    5. こんばんは。

      >「教育」も「出版物」も「オカミ」もすべて、それが、広められてしまうと「権威」と成っていきます。

      「お上」はもとより「権威」であり「権力」です。しかし、ふたつさんの言葉を敷衍すれば、わたしや、わたしの母のような一般庶民は、新聞や雑誌の書籍広告欄乃至「読書」に感する記事を読んで、こんな本が出版されたのかということを知るのです。そしてその「新聞」や「雑誌」はいうまでもなく「ミニコミ」ではなく「マスコミ」です。
      書籍広告欄には全国の大小さまざまな出版社の広告が載ります。大手出版社のものばかりではありません。その中から選んで読んでみるというのが読書のひとつのコースでもあります。
      読者は自分で読む本を取捨選択しています。ベストセラーを読むのも、地方の小出版社の本を読むのも読者の自由です。ふたつさんは、出版社或いは出版社による書籍広告には反対の立場ですか?そして、全世界の人に読まれているからという理由で、シェイクスピアも、ドストエフスキーも、レイモンド・チャンドラーも否定されるのでしょうか?

      >片方に「100万部のベスト・セラー」が存在している現在の世の中で、誰からも顧みられる機会のないそれを「書物」と言えるだろうか?

      仰っていることがよくわかりません。先日も書きましたが、ミシェル・フーコーは、「この本を読むのは生前5000人だな」と自著に関して言いました。5千人が5百人であろうと、書物は書物です。いったいそれ以外の何だというのでしょうか?

      わたしは芸術・・・それが絵画であれ、文芸であれ、写真であれ、詩歌であれ、音楽であれ、
      「有名であってはいけない」という考えがわかりません。わからないからと言って、まちがっているというつもりも、否定するつもりもありません。

      ただわたしは、バッハやモーツァルト、コルトレーンやスタン・ゲッツ、シナトラやナット・キング・コールの音楽によって、そしてラファエル前派からシュールレアリズムの画家に至るまで、それこそ多彩で多様なアートによって、心を慰めています。

      わたしも母もただの凡人ですから。









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    6. こんにちは。

      これは、たぶん話が行違っています。

      私が言うことは、往々にして、そう成りますが、逆の意味に伝わってしまます。
      これは、Takeoさんに限ったことではありません。
      ほとんどの人にそう成ります。
      何故かは、分かりませんが、そう成ってしまいます。

      特に、一所懸命に説明しようとすると、そう成ってしまうようですね。
      残念ながら、何時もそうですから、あまり気にしなく成ってしまいました。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      私が言いたかったことは、『有名であることが悪い』ということではなく『「有名な芸術」が「無名の芸術」を食ってしまう』ということです。

      そして、このマスコミが支配している世の中では、その「差」が大きすぎて、上でTakeoさんが言っているようなことが通らないということですね。

      一冊しかない本こそが「書物」であるということに何の意義もありませんし、「マスコミ」を通じて知った本を読むことにも何の抵抗もありません。

      ただし、それが「マスコミ」が無ければ知り得ないモノであるということは事実であって、それは『天に向かって返されなかった結果である』ということを意識して居なければ、結果的に「マスコミ」に「洗脳」されていると言わざるを得ないということです。

      その「取捨選択」に絶対性を要求することは、私は無謀だと思いますよ。

      だから、私は「好み」を捨てたわけですね。


      ただ、他人にそれを要求しているわけではありません。

      「好みを尊重する権利」もあるでしょうが、「好みを捨てる権利」もあると思います。

      ただ単に、私が、そちらを選択したということです。

      誰にも、それを要求したりはしていません。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      まず、Takeoさんが言っているのと、私が言っているのは「マス」のレベルがかなり違うような気がします。

      例えば、私や私の絵を知っている人は、指で数えられるほどの数です。
      500人とかいうことではなく、数人とかね。
      せいぜい十数人だと思います。

      「有名芸術」と「無名芸術」が両方ある場合、必ず「有名芸術」だけが残り、「無名芸術」は消えてしまいます。

      私にとっては、「素晴らしい芸術」とか「すぐれた作品」と言うモノは存在しないので、
      『素晴らしいから残すべき、広く知られるべき』ということが初めから無いんです。

      好きなものも、嫌いなものも同じ高さ、すべての絵は同じ高さ、ただし、すべてが違う絵であるということですね。

      それなのに、「マスコミ的な有名と無名」があれば、同じ高さと言えなく成って、結果的には、「無名」が消えていきます。
      (これも500人ではなく数人と言うレベルの「無名」です)

      私は、「その無名」が見たいのかも知れないのに、「その見たいもの」は見ることが出来ない。


      それが、私にとっての「有名性」の弊害なんです。

      だから、「無名」だから素晴らしいと言っているわけではありません。
      「有名なモノ」と「無名なモノ」が同じように見られる環境があれば、それで構いませんが、その時点で「有名」という概念は、まだ存在することができますか?

      同じぐらいに閲覧可能な状態にあるものを、「有名」と「無名」に分けることが出来るでしょうか?

      つまり、私は、「有名性」という概念自体を破壊したいと思っているわけですね。



      ただ、そういう話が、あまりにも不可能的であるために、いつも話をはしょってしまうので、オカシナな伝わり方をしてしまいます。

      いきなり『私は「有名性」を破壊したいのだ!』と言うほどの自信は無いので、ついついその辺をぼやかした言い方をしてしまうんだと思います。
      そんなこと言ったら、きっと、偉そうに見えるだろうと思ってしまうんでしょうね。

      Takeoさんは、その辺をどう思っているかわかりませんが、私は60年ほど生きていますが、今までに何一つ物事を成就させたことがありません。
      (これは、決して自虐的なことを言っているのではなく、単なる事実です)
      だから、きっぱりと言い切るということが出来なく成ってしまっているんですね。
      出来るだけ、はっきりと言うようにしていますが、それがまた、オカシナ伝わり方をしてしまいます。
      どうやっても、だんだん意味が逆に伝わっていくことに成るんですね。
      いつもです。

      それで、もう、とっくに諦めてしまっています。


      こればっかりは、人生の中で身についてしまったモノなので、仕方ありません。
      たぶん、この話し方は、治らないと思います。


      それでは。

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    7. こんばんは。

      例によって、ピント外れのお答えしかできないと思います。この「喰い違い」が解消されるとは思いませんが、感じたことをそのまま書いてみます。

      >ただし、それが「マスコミ」が無ければ知り得ないモノであるということは事実であって、それは『天に向かって返されなかった結果である』ということを意識して居なければ、結果的に「マスコミ」に「洗脳」されていると言わざるを得ないということです。

      これはわたしには、自分の作品を世に問うということ、即ち、誰の眼にも触れさせぬまま、「点に還さなかったこと」が堕落であると言っているように聞こえるのです。つまり、極端な言い方をすれば、作品は須らく「自分個人のためのものであれ」と言っているのと同じに聞こえるのです。
      これは芸術不要論ではないにせよ、芸術は広まってはいけないという、極めて芸術不要論に近い思想だと感じます。
      従業員2・3人の小出版社が、何とかして、ひとりでも多くの人にこの本を読んでほしと思うことは悪いことでしょうか?それを新聞広告に出すことは悪いことでしょうか?

      わたしは東京という大都市に住んでいます。ですから、読む新聞も自ずと大新聞に限られてきます。
      家は東京新聞ですが、母は以前の朝日に比べて、書籍広告が少なくなったと言っています。
      ふたつさんは母はマスコミに毒されていると仰るのでしょうか?



      >「有名芸術」と「無名芸術」が両方ある場合、必ず「有名芸術」だけが残り、「無名芸術」は消えてしまいます。

      百年以上前、巴里のモンパルナスに世界中の画家たちが集まってきました。その中には、窮乏のうちに死んだモジリアニも、自分の才能の限界を感じ、自殺した、ジュールス・パスキンのような画家もいました。
      エコール・ド・パリに集った人たちで、今尚、多くの人々に愛されている人がどれだけいるでしょう?確かにモジリアニは今も人気の画家です。けれども、生前の彼はゴッホと大差ない貧しい生活をしていたのではなかったでしょうか。

      マスコミなど存在しなかった時代です。それでも、当時のパリで絵を描いていた人たちのほとんどが、無名のうちに消えていきました。ですから、マスコミが有名芸術を作るということはついここ50年ほどのことではないでしょうか。



      昨夜わたしの投稿に掲載した絵は、リトアニアの画家、作曲家、作家の描いた絵の一枚です。
      あの画家を知っている人は世界でもごくわずかでしょう。それでも、あの絵では1200以上のリアクションがありました。つまり、そんな小国の、名前を聞いたこともない作曲家の絵が、全世界に公表される。その点で、わたしはインターネットの恩恵を蒙っています。

      >私にとっては、「素晴らしい芸術」とか「すぐれた作品」と言うモノは存在しないので、
      『素晴らしいから残すべき、広く知られるべき』ということが初めから無いんです。

      わたしはたくさんの素晴らしい歌、素晴らしい映画、素晴らしい絵、写真を持っています(心の中に)
      けれども、それはあくまでも個人的な好き嫌いであって、
      『素晴らしいから残すべき、広く知られるべき』という発想はありません。

      では何故Tumblrに絵や写真を投稿するのか?それはここでこうやってブログを書いているのと同じです。誰かがその絵や写真、またこの文章に共感してくれるかもしれない。そのような感情の、価値観の共有が可能かもしれないとう理由からです。「わたしにとって」素晴らしい絵を、同じように素晴らしいと感じてくれる人がいれば、その時、わたしと彼/彼女は、繋がりを持っているのです。



      >好きなものも、嫌いなものも同じ高さ、すべての絵は同じ高さ、ただし、すべてが違う絵であるということですね。

      芸術に関してはそうですね。

      >それなのに、「マスコミ的な有名と無名」があれば、同じ高さと言えなく成って、結果的には、「無名」が消えていきます。

      そうでしょうか。マスコミの評価とは無関係に、個人的な好悪を持っている人は多いと思います。
      同人誌のようなものもあるでしょうし、自分のブログで自作を公開しているアーティストは世界中にいるはずです。

      わたしはTumblrを10年間やって、その間古今東西、アジアから中東、南米にわたり、現代芸術までを含め、過去に2万3千点ほどの投稿をしてきましたが、そういうことをやっていると、在るのは自分が好きか好きではないかだけで、フィリピンや、インドネシア、ペルーやアルゼンチンの画家たちの作品が有名かどうかなどまったく眼中に在りません。
      わたしだけではないと思います。Tumblrを長くやっていると、いかにマイナーで素晴らしいアーティストの作品を投稿するかを競うようになってきます。

      わたしはテレビを視ませんので、何が有名であるかをまるで知りませんが、これからは、アートの発信源は、更にインターネットに依存することになるような気がします。





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    8. 追記

      Vivian Maier/ヴィヴィアン・マイヤー (1926 - 2009)という写真家がいます。ニューヨークの写真を15万枚以上撮った女性です。生前に発表された写真はなく、2007年、アメリカの若者が、あるオークションで手に入れた彼女の写真を自分のブログにアップしたところ大反響を巻き起こしました。そして現在では写真好きで彼女の名前を知らない人はいないくらいです。けれども、在るブログに彼女の写真がポストされるまで、写真を撮る彼女の名を知る人はひとりもいませんでした。事実彼女は生前、フォトグラファーではなかったのだから。生涯独身で、生前の仕事は乳母でした。

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    9. こんにちは。

      どうもすいません。
      私の話が説明不足だったと思います。

      ただ、Takeoさんの言っていることと私の言っていることに、私は決定的な相違を感じません。


      要するに、前のコメントにも書きましたが、私とTakeoさんの間で、「有名」や「マスコミ」の規模が違うんだと思います。

      たぶん、ケタが違うということですね。

      それから、これもまた、おそらく誤解を招く言い方に成るでしょうが、私が言っていることを、最も端的に言い表すならば、『すべての芸術作品は無記名であるのが、望ましい』ということです。

      無記名であればいくら広まってもいいような気がします。

      確かに、私の中にも「無名」だった人が、「大反響」を巻き起こし、その後(死後)「有名」に成るというストーリーに痛快な思いを抱く気持ちもないではありません。

      しかし、私は、「ゴッホ」や「モディリアニ」に共感する以上に、「その横にいたであろう誰か」に思いをはせてしまうのです。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      たぶん二十年以上前に成りますが、横浜の美術館で、「ゴッホ展」をやっていた時に、私は前売り券を持っていたんですが、長蛇の行列を見て、その場にいた人に安い値段でチケットを売り渡して(本当はやっちゃいけないらしい)帰ってきました。

      行列や、混雑が嫌だったのもありますが、一番の理由は、ゴッホの怒りのような感情が伝わってきたからです。
      『何をいまさら!』と彼が言っていて、その怒りに満ちた眼差しに耐えられなかったんですね。

      そんな彼の眼差しにさらされながら、行列に押し流されながら、拡声器で『止まらないでください』とせかされながら、「彼の絵」を見られますか?
      わたしには無理でした。

      「大反響」でなくてもいいから、数十人くらいの人に『いいねぇ』といって欲しかったんじゃないかな?と思ったということです。

      それでゴッホが満足したのかどうかはわかりませんが、少なくとも、彼が、自分の絵の展覧会に長蛇の列ができることを思い描いていたということでもないような気がしますから、生きているうちに彼の絵がもう少し人に見てもらえる機会があればよかったと思ってしまいますね。

      そのためにならば、『私は「無記名の芸術」を選択します』ということです。


      私は、「芸術家」や「芸術作品」ではなく「芸術」を「必要」と考えるわけです。
      (「芸術」は「精神」で「芸術作品」は「物質」です)
      だから、「芸術」を守るために「芸術家の名前」や「芸術作品の有名さ」が邪魔であるならば、それは仕方ないことだと思ってしまうのです。

      そして、私が考えるところの「芸術」とは、「ゴッホと言う名前」も「モディリアニと言う名前」も必要としないモノなのです。

      その作品が、作者の名前とセットである必要はないということですね。

      例えば、Takeoさんのコメントの中の写真家の方が、「大反響」を巻き起こすのに「彼女の名前」が必要でしょうか?
      私は必要ないと考えます。

      でも、きっと「名前」が無ければ、いづれ人々の記憶からは消えていきます。
      私は、それでいいと思っています。

      たぶん、これは、私自身が鑑賞者としての立場をほとんど持たないことからきていると思います。

      だから、鑑賞者としての立場を持っている人が、作品や作者に関する記憶をとどめたいと考えるのは当然のことだと思いますし、それをとやかく言うつもりはありません。


      それ以前に、『すべての芸術作品は無記名』

      こんなこと、実際には実現しませんから、単なる戯言として受け流していただいて構いません。
      ただ、私の中での「芸術に対する姿勢」を問われるならば、こんなことですねということです。
      いつもながら、話がわかり辛くて申し訳ありません。

      繰り返しに成りますが、「有名であること」・「広められること」・「残っていること」を否定しているわけではありません。
      そうではなく、「無名であるモノ」・「広められることのないモノ」・「残らなかったモノ」が消えて行ってしまうと悲しいなぁということです。

      私が、「残らなかったモノ」と言っているのは、「決して、オークションにかけられないモノ」です。

      これも、誤解を招いてしまうかも知れませんが、「有名に成る確率が低いモノ」や「人から好かれる確率が低いモノ」こそが「芸術」だと考えてしまうわけです。

      その人が、「その人」であればある程、人からは「異物」と認識されます。
      その「異物」を好むということは、おそらく人間の限度を超えています。

      だから、「好み」を重視していくと、どうしても、「人に合わせたモノ」を選び取ることに成っていきます。
      それを「ポピュラー性」と言っていると思いますが、その「ポピュラー性」こそが「人気」であり「有名」であり、「広められるもの」のモトに成るものです。

      最後にもう一度言うと、Takeoさんの言っていることと、上に書いたことの間に、私は決定的な差を感じません。
      もし、Takeoさんが私の言うことに、どうしても「違和感」があって、馴染めないというのであれば、そんなもの捨ててしま言えばいいと思いますよ。

      私の言うことなんて、大したことじゃありませんし、たぶん役にも立ちませんから。
      要するに、『へぇー、こんなこと考える奴もいるのか』と思うか思わないかということですね。

      思わなかったら、捨ててください。


      それでは。



      それでは。

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    10. 追伸

      書き忘れたことです。

      『マスコミに洗脳されている』と言うのは『マスコミに接触してはいけない』と言う意味ではありません。
      マスコミの情報を「利用する」ことを否定しているのではなく、それに「利用されている」状態のことを言っています。

      あくまで、一般論として「マスコミ」が存在して居ると、それに「利用される」人がたくさん出てきてしまうということです。

      そして、私自身もそう成らないという自信がありません。
      だから、なるべく近づかないということですね。

      それから、「素晴らしい芸術」と言ったのは、「上位に位置する芸術」と言う意味です。
      そういうモノは、私の中には存在しないということです。

      私の中にも、「好き」も「素晴らしい」も存在しますが、それは「上位」ではないということですね。
      ただし、これは、あくまで理想論のような話で、実際にはどうしても「好きなモノ」を「上」に置いてしまいます。
      それを、同じ高さに置いておきたいという、私の願望です。

      実際には、なかなかできません。


      「好み」を捨てたというのも、それと同じで願望に近いものですね。
      ただ、しばらくそういう考え方を続けていると、だんだん、「好み」と言うモノが、どうでもよく成ってきたりするというようなことです。

      これも、私が鑑賞者としての視点を持たないことによるのかも知れません。

      ただ、前のコメントに書いた「異物」=「他者」としての「その人」ですね。
      それが「芸術」の根幹にかかわっていると思いますので、そして、その「異物感」は、なかなか「好き」にはなれない場合が多いので、やはり、鑑賞者の立場からも、「好み」を少し外した見方もあっていいのかな?と私は思います。

      これも、他人に要求する者ではありません。


      それでは。

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    11. 再度追記

      追記を重ねてすいません。

      Takeoさんと私の考えの相違点について、もう一つ思い当たりましたので。

      読み返していて、Takeoさんは「有名な芸術」や「マスコミ」が「あること」を前提として話をしていると思いました。

      その辺の説明が足りなかったと思いますが、私の場合は、「有名」も「マスコミ」も『無くてもいいんじゃない?』という空想を語っています。

      つまり、『もしも、芸術の世界に一人も「有名人」が居なければ・・・』とか『世の中に「マスコミ」と言うモノが存在しなかったら・・・』と言う空想と言うよりも妄想に近いものですね。
      それを現実のことのように言ってしまうから、わかり辛く成ってしまうのかも知れません。

      ただ、そう言うことは、私の中では、かなり現実味をもって感じられてしまって、どうしようもないので、そんな言い方に成ってしまうわけです。

      私には、『きっと、そうなるに違いない』と思い込んでしまうところがあるんです。
      ただし、それが十年後か数百年後かについては、どうでもいいと思ってしまうんですね。

      本人的には、けっこう困っているんですけどね。
      治りません。

      それでは。

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    12. こんばんは。

      >これもまた、おそらく誤解を招く言い方に成るでしょうが、私が言っていることを、最も端的に言い表すならば、『すべての芸術作品は無記名であるのが、望ましい』ということです。

      わかる部分と、そう思えない部分があります。例えばこのブログは文学でも何でもありませんが。あくまでも「Takeo」というひとりの人間、一個人とは切り離せないものです。確かにTakeoという筆者の名を伏せていても、わたしは同じように書くでしょうが、それでも、これらの投稿、文章と、「わたし」を切り離すことはできません。

      例えば石原吉郎や、二階堂奥歯がどのような人であったかを知らずに、彼/彼女の言葉にこれほど共鳴することはなかったでしょう。プリーモ・レーヴィ然り、シモーヌ・ヴぇイユ然りです。

      表現者と表現されたものを分けて考えるということは、わたしには考えられません。

      学生時代、ショーペンハウエルに入れ込んでいましたが、ある時、バートランド・ラッセルの『哲学史』を読んで、ショーペンハウエルにいたく幻滅したこともあります。素晴らしい映画を観た後、その監督が、紫綬褒章受章者だったと聞いてがっかりすることもしばしばです。

      わたしが重んじるのは、作者の人となりを知らなければ、それこそショーペンハウエルのような人間に未だ心酔していたかもしれない。人間性あっての作品です。自己中心的で利己的だったり、名利に敏い人間の作品が如何に優れていても、人間性が好きになれなければ、意味がありません。

      >私は、「芸術家」や「芸術作品」ではなく「芸術」を「必要」と考えるわけです。
      (「芸術」は「精神」で「芸術作品」は「物質」です)

      上に書いたように、わたしは、人間が作品を創るという考えですので、作品と作者を分けて考えることはできません。

      ゴッホ展のエピソード、わからないでもありませんが、そのような見方は、ある意味、行列に並んでいる人を馬鹿にしているようにも聞こえます。「今更」だって初めてゴッホを視る人はいくらもいるのです。ゴッホほどではありませんが、わたしも40代の6年間。常に列の中の一人でした。

      >これも、誤解を招いてしまうかも知れませんが、「有名に成る確率が低いモノ」や「人から好かれる確率が低いモノ」こそが「芸術」だと考えてしまうわけです。

      ちょっとわたしの理解を超えた発想です。わたしは基本的には、芸術は大衆のもので、一部の特権階級、一握りのエリートの独占物とは考えないのです。

      唐の詩人白楽天は、村の無学のおばあさんでもわかるように詩を書くことに努めました。
      そこにわたしは白楽天の、ひとりでも多くの人に楽しんでもらえるようにという心遣いを視るのです。

      ふたつさんの意見を聞いていると、芸鬱を狭いところへ狭いところへと押し込んでいるような気がしてなりません。



      追伸の中の「上位」云々ですが、誰だって、好きな映画トップ10とか、好きなミステリートップテンなんてやるじゃないですか。でもそんなのは流動的なものでコロコロ入れ替わります。

      それから、ふたつさんがよく言われる、「鑑賞者としての視点を持たない」ということも、よくわかりません。音楽でも、映画でも、美術作品でも、究極的には鑑賞されるためのものでしょう?
      好みを棄てたということも意味が分かりません。そもそも「好み」「好きという感情」を棄てられるものでしょうか?それは何か非常に不自然なことのように思えるのです。

      >私の場合は、「有名」も「マスコミ」も『無くてもいいんじゃない?』という空想を語っています。
      つまり、『もしも、芸術の世界に一人も「有名人」が居なければ・・・』とか『世の中に「マスコミ」と言うモノが存在しなかったら・・・』と言う空想と言うよりも妄想に近いものですね。
      それを現実のことのように言ってしまうから、わかり辛く成ってしまうのかも知れません。

      「マスコミ」のスタンス、報道姿勢や内容を疑問視することはいいことですが、マスコミ自体を否定したり、有名人を否定する理由がわたしにはわかりません。スマホのように嫌でも目に入って来るものは無くなってほしいと思いますが、無視できて、実害の無い物なら、あっても無くても同じような気がします。

      最後に、わたしとふたつさんの芸術に対する決定的な違いは、わたしは芸術作品をそんなに奉っていないし、それに対する高邁な哲学も持っていない。あくまでも、庶民の一員として芸術に親しんでいるという点でしょうか?要は居酒屋で八代亜紀を謡っている親父さんと同じです。
      以上、思ったところを率直に書きました。気分を害されましたらお詫びします。






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    13. 追記

      わたしはおそらく二度と美術館に行くことはないでしょう。スマホバカたちがせっせと作品を撮影しているでしょうから。

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  3. こんにちは。

    まぁ、誤解を恐れず書いたことが、誤解を招いたということだと思いますね。

    どうもすいません。

    なんで、全部逆に成ってしまうんでしょうね?


    たぶん、Takeoさんは私の言っていることに「異物感」を感じたんでしょう。

    それは仕方ないことだと思いますよ。


    それでは。

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