2021年5月8日

どうすればいいのか?

 
今日、母が食事の支度をしに来てくれたが、なにか不機嫌そうだった。
一日おきにわたしの食事の支度をするためにここまで通って来てくれる。
その時に翌日の分も作るので、3時間ほどで、2食分作らなければならない。
そのおかげで、2月頃から悩まされていた「味覚異常」も、完全に治ったわけではないが、少なくとも、スーパーやコンビニで買った弁当やパンを3分の1、或いは半分は食べられずに棄ててしまうということが無くなった。けれども、まだまだ、食べ物がそのままの味に感じられるまでには至っていない。トマトなど、酸味のあるものはまだ食べられない。ケチャップ、タバスコも同様。

ここのところ37度の熱が数日続いている、外にはほとんど出ていないが、12日、お茶の水の眼科で、緑内障の手術の日程を決めるための検査に、この状態で行けるかどうか心もとない。


ブログの件で、昨日の投稿を、ふたつさんには申し訳ないが、ふたつさんのコメントとわたしの返信を併せて読んでもらった。母にはふたつさんの言われていることが極めてまっとうなことと映り、逆に「そんな連中に言われるがままにして、尚このブログに執着する気持ちは理解できない」と言われた。そして『法テラス』などに頼っても、結局何らこちらの利益になるようなことは期待できず、骨折り損のくたびれ儲けという結果になるだろうという意見もふたつさんとほぼ同じだった。

前にも書いたことだが、わたしの存在の根拠はわたしの内部にはない。そしてこれも繰り返しになるが、外界の様子も、すっかり変わってしまった。わたしはここで、サン=テクジュペリや、リルケ、ハイデガーの言葉を引用して、「昔からここに在り、今もここに在り、そして明日もここに在るもの」が人間には不可欠であるという主張を繰り返してきた。「最大の犯罪とは過去の破壊である」というシモーヌ・ヴェイユの言葉にも言及した。

わたしがこのブログにあくまでもこだわるのは、そこにわたしの時間の蓄積があるからだ。思考の軌跡が残っているからだ。母も言っていたが、「あなたもそう先が長いわけじゃないんだから」だからわたしの生きた証しとして、このブログを書ける限りは続けたいのだ。


母は、

「お前は人間ではない。お前は人交はりのならぬ身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物(いきもの)だ。」という言葉を読み、こういう言葉をそこまで深く自分の中に取り込む人もいないでしょうね、と。そうかもしれない。この言葉や「孤立と独特の認識の化け物」という言葉をこれほどまでに自己と一体化し、同一視する人は稀だろう。けれども、それがわたしの動かしがたい現実なのだ。

わたしは誰とも言葉が通じない。何故なら、と言った時に上記のふたつの言葉以外にどう説明する?

「わたしがキチガイであり、人外であり、化け物であるから。」これ以上何が言える。


自分には何ひとつ取り柄がなく、性格は極度にいびつであると考えながら生きてゆくのは悲しいことだ。
けれども、楽に生きるためには、体制に順応することだという思考から自由になることができない。わたしにすれば、スマホを持つこと、それだけでも体制に順応することに他ならない。
生きることの苦しさに呻吟しながら、どうすれば少しでも楽に生きられるようになれるのかを考えている。しかし結論は出ないし、適切なアドバイスをしてくれる人はどこにもいない。

せめて、母もわたし自身も認めるように「そう先は長くない」ということをこころの支えにして生きられるところまで・・・






0 件のコメント:

コメントを投稿