2021年5月24日

「生きるってのは・・・・ずいぶん屈辱的なんですね・・・・」

『コロナ時代のパンセ』、3分の2ほど読み終えた。これまでに読んだ分で、いちばんこころに深く残っている言葉は、辺見庸の友人が彼に言った「生きるってのは・・・・ずいぶん屈辱的なんですね」という述懐である。


友人の父がまた入院した。ときどき意識がうすれ、食べ物の飲みくだしがむずかしくなるので、どうしても付きそいと介助がいる。ひとり息子の友人は去年、仕事を休み、両親の介護に明けくれたすえに母を喪ったばかりで、心身共に疲労の色が濃い。
絞り出すようにつぶやいた。「生きるってのは・・・・ずいぶん屈辱的なんですね・・・・」。ドキリとしたまま返事に窮する。屈辱的とは、父親のことか、じぶんのことか、それとも、今生きてある人間たちぜんぱんについてそうなのか。屈辱の意味と所在についてせんさくし、わたしはおもいを沈めた。友人が察して話題を変えてくれた。意識が遠のく父の耳に「お父さん、お父さーん!」と懸命に声をかけていたら、肝心の父親ではなく、隣の病床の患者が「はーい」と明るく返事したのだという。だんだんからだをうごかさなくなる父に、せめて手くらいはなんとかさせようと、「はい、グーパー、グーパー」と号令をかけていたら、さっぱり応じないのに、認知症もあるらしい隣の患者がしきりに「結んで開いて」をやっていたとか。笑えないが笑ったふりをした。
 (略)
病院側はだれもことばはやわらかい、けっして暴言を吐いたりはしない。患者を理不尽に叱ったりもしない。だがそれ以上でもそれ以下でもない。治療は特に熱心でも、観察するところ、ことさらに手抜きをしているのでもなく、さりとてべっしてやさしいわけでもない。問題の析出は容易ではない。老いおとろえたか弱い<生体>の危機をめぐり、しかし病院は、いや社会ぜんたいが、なにかシステマティックに、無機質に乾ききり、それに慣れっこになっているのではないか。法的にはなにも問題はない。ただ、法的に問題がないことが、ただちに人間的に、あるいは究極の人間倫理にかなうかどうかはまたべつのことじゃないか。
治療費、入院費をはらえず、病院が治るみこみもない患者を、強制的に<たたきだす>のではなく、ていねいなことばで<退院していただく>からといってそれが暴力でないといえるのだろうか。

ー辺見庸『コロナ時代のパンセ』(2021年)

そういえば、昨年、コロナ禍第一波の頃だったと思うが、病院の病床がいっぱいになり、空きが出来た時に、まだ働ける者の処置を優先したということを、うそかまことか、屡々耳にした。 わたしはテレビも視ないし、新聞も遠ざけ、ネットのニュースにも関心がないので、不正確なことしか言えないが、病人の治療に際し、なんらかの条件を満たしている者を優先するということがはたして許されるのだろうか?
八十代の老人と、四十代の働き盛りがほぼ同じ時間に搬入された時、後者の治療を優先させるという事実があった(ある)としたら、その選別の根拠は何か?それはとりもなおさず、「人の命には軽重がある」ということを医療関係者が問わず語りに認めていることに他ならないのではないか。
はたして人間(医療者)にその判断を下す資格があるのか?あるとしたらそれは如何なる根拠・権限に基づくのか。
「生」というものが「老・病・死」と不可分である以上、今日治療を受けられたもの、治療したものも、いずれは、「後回し」にされるということになる。
何故なら彼らもやがては「老い、病み、衰え」る存在であることから逃れることはできないのだから。


しかし仮に辺見庸の友人のような境遇から免れていたとしても「生きるということは屈辱的なこと」であることに変わりはない。

「生まれてきたことが既に敗北なのだ」とエミール・シオランは言っている。

しかし誰もがそうであるというわけではない。世の中には我々を辱め、貶め、尊厳を傷つける輩がいくらでもいる。

また孤独・孤立・疎外・無理解も我々に深い苦悩と厭世観の味を教えてくれる。

故にわたしは孤独の苦痛、「生きることの屈辱を」少しでも和らげてくれるものとしてのドラッグやアルコールを否定しない。

坂口安吾は、「薬物中毒」について、

「孤独であるうちは何度でも手を出す、薬物中毒から抜け出すには何よりも友達=孤独でないことが必要だ」と書いている。

また一方で、

・・・しかし私のように、意志によって中毒をネジふせて退治するというのは、悪どく、俗悪極まる成金趣味のようなもので、素直に負けて死んでしまった太宰や田中(英光)は、弱く、愛すべき人間というべきかもしれない...
とも書いている。

全面的に賛成である。

生きるということは、屈辱的であると同時に、それほどまでに過酷なのだ。







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