2021年5月3日

「未来」について

 先日あるブログで、パスカルが『パンセ』の中で、過去ー現在ー未来について記している箇所に言及している記事を見つけ、興味を惹かれたのでその記事を参考にしながら、「未来」ということについて考えてみたい。

以下リンクより引用する

「存在するただ一つの時」― パスカル『パンセ』より


われわれは決して、現在の時に安住していない。われわれは未来を、それがくるのがおそすぎるかのように、その流れを早めるかのように、前から待ちわびている。あるいはまた、過去を、それが早く行きすぎるので、とどめようとして、呼び返している。これは実に無分別なことであって、われわれは、自分のものでない前後の時のなかをさまよい、われわれのものであるただ一つの時について少しも考えないのである。これはまた実にむなしいことであって、われわれは何ものでもない前後の時のことを考え、存在するただ一つの時を考えないで逃がしているのである。というわけは、現在というものは、普通、われわれを傷つけるからである。それがわれわれを悲しませるので、われわれは、それをわれわれの目から隠すのである。そして、もしそれが楽しいものなら、われわれはそれが逃げるのを見て残念がる。われわれは、現在を未来によって支えようと努め、われわれが到達するかどうかについては何の保証もない時のために、われわれの力の及ばない物事を按配しようと思うのである。
 おのおの自分の考えを検討してみるがいい。そうすれば、自分の考えがすべて過去と未来とによって占められているのを見いだすであろう。われわれは、現在についてはほとんど考えない。そして、もし考えたとしても、それは未来を処理するための光をそこから得ようとするためだけである。現在は決してわれわれの目的ではない。過去と現在とは、われわれの手段であり、ただ未来だけがわれわれの目的である。このようにしてわれわれは、決して現在を生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。そして、われわれは幸福になる準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなるのも、いたしかたがないわけである。
(太字Takeo


パスカルは、「現在」のみがわたしの時間であり、過ぎ去った過去、まだ来ぬ未来は自分とは関係のない時間であるという。

今更言うまでもなく、わたしはパスカルと考えを異にする。わたしのふたつのアート・ブログのタイトル、Tumblrは、 ' a man with a past ' それ以前からブロガーでやっているのは ' Clock Without Hands' お分りのように、共に、止まった時を表現している。 

われわれは、自分のものでない前後の時のなかをさまよい、われわれのものであるただ一つの時について少しも考えないのである。

「今現在」と「過去」、どちらが真に「わたしの時間」と呼べるかと問われれば、上に挙げた二つのブログのタイトルが答えの代わりになるだろう。同時に、「今現在」という時間は、「過去に生きる者」にとっては、既に未来である。わたしの「現在」とは「過去」であり、過去から遠ざかっている今現在が、既にして「未来」の領域」であることは明らかである。
わたしにはふたつの時間しかない。「現在としての過去」そして「未来」であり、過去と切り離された「今現在」という時間は存在しない。

現在というものは、普通、われわれを傷つけるからである。それがわれわれを悲しませるので、われわれは、それをわれわれの目から隠すのである。

わたしは「いま・現在」を嫌う。それは現在は過去でもあり、同時に未来をも包摂しているからだ。現在がわれわれを傷つけるというよりも、寧ろ、現在に内包された未来性がわたしを傷つけるのだ。

「過去」はわたしにとっての「現在」に他ならないといった。しかし、一方で、現在は、一日に朝と夜とがあるように「過去」のみならず「未来」をも、含み持っている。そのような二重性を持つのがわたしにとっての「今現在」に他ならない。

おのおの自分の考えを検討してみるがいい。そうすれば、自分の考えがすべて過去と未来とによって占められているのを見いだすであろう。われわれは、現在についてはほとんど考えない。

わたしの「いま」の半身が、There's no place like home(past)である「過去」であり、もう一方がわたしを責め苛む「先取りされた未来」である以上。わたしという実存が、過去と未来とによって支配されているというのは当然の帰結だろう。

現在は決してわれわれの目的ではない。過去と現在とは、われわれの手段であり、ただ未来だけがわれわれの目的である。このようにしてわれわれは、決して現在を生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。そして、われわれは幸福になる準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなるのも、いたしかたがないわけである。

「ただ未来だけがわれわれの目的である。」──「目的」というものが、今目の前に存在せず、「(時間的に)この先」に待ち構えているもので、いずれ到達し獲得すべき「場」であり「モノ」であり、また「状態・状況」であるとすれば「未来が目的である」というのはトートロジーではないか。

わたしにとって「未来」というものは永遠に訪れない。何故なら繰り返しになるが、「今現在」こそが既にわたしにとっての「未来世界」であるのだから。

何故人は概して「過去」よりも「未来」を好む傾向にあるのだろうか?単にわたしがそう感じているだけなのだろうか?

わたしが「未来」であると言っている今現在も、また10年後20年後の世界も、いずれは過去になる。しかしそれは「わたしの過去」ではない。

わたしは以前から「明るく住みよい未来」という言葉に何やら、「胡乱な感じ」を抱いていた。

それは上記パンセの文中に在る

現在というものは、普通、われわれを傷つけるからである。」という言葉と重なっているように思える。「現在」がわれわれを傷つけるのなら、「未来」もまたわれわれを傷つけると考えるからである。現にわたしは「現在」という「先取りされた未来」に散々に痛めつけられている。

しかし人間が死すべき存在である以上、「救い」はある。

わたしには「未来」を拒否する自由がある。


「現在」といい「未来」という。けれども、わたしにはもはや現代人を自分と同じ「人間」であると認識することができない。










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