2021年5月16日

障害者と「素晴らしき新世界」

Bさんへ。

先日のブログの投稿を興味深く拝見しました。

わたしは日頃、インターネットで情報を得るということをしませんし、逆にそのようなことを避ける傾向があります。書き手個人の言葉、思いよりも、情報の方が多いようなブログにわたしは関心を持てません。けれども、今回偶然あなたのブログあったリンクを読み、それについて感じたことを少し、お話します。

先ず

「障害とは皮膚の内側にあるのではない。皮膚の外側にあるものだ。階段をのぼれない私の体の中に障害があるのではない。階段しか設置していない建物の中に障害がある、というのが社会モデルの考え方です。この考え方は180度、私の見方を変えてくれました」

これは精神乃至・知的障害と、肉体的障害との違いであると思いますが、 わたしは、精神障害というものと、その障害を持つ個人とは不可分の関係にあると考えます。以下はあくまでもわたし個人に関することですので、それを一般化するつもりはありません。



昨日わたしは、東京西郊の町から、御茶ノ水の眼科に行きました。
わたしはひとりではバスにも電車にも乗れません。車内に流れる人工音声の「ご注意ください」という執拗なアナウンスに堪えられないのです。最寄り駅から御茶ノ水まで行くにも、電車内での同様のアナウンス、プラス「スマホ人の群れ」(西部邁)堪えがたく、新宿までは特急を使っています。晩年の西部が、「スマホ人の群れを見ると吐き気を催す」ので、何処へ行くにもタクシーを使っていたのと同じです。

この世界がうるさいと感じるのは他ならぬ「わたし」という個人の感受性であり美意識です。

ところで、人にやさしい社会って何でしょう。「駆け込み乗車は危険ですのでおやめください」というのも、「この車両には優先席があります、お年寄りや身体の不自由な方には席をお譲りください」・・・このようなアナウンスが人にやさしい、親切と感じる人も少なくないでしょう。けれども、それを苦痛に感じ、付き添い(騒音から意識を逸らすための話し相手です)なしでは公共交通機関を利用できない人間もいます。「障害者への配慮」というものが、階段にスロープを設けるとか、エレベーターを付けるといった目に見える「バリアフリー」のようなものであれば苦労はしません。

リンクに貼られた文中に

「変わるべきは、私の体ではない。私の心ではない。変わるべきは社会環境だということを先輩が教えてくれたのです。自分を責めすぎることなく、運動という形で社会の側を変えるということを信じていくことで生きていくことができるようになりました」

「社会を変える」という。しかし、社会というものは言うまでもなく、その国の国民、長い長い年月をかけて蓄積されてきた民族の文化、考え方、価値観が土台となって形成しているものです。逆にいえば、社会を変えるということは、日本人全体の意識の在りようを変革すると言うことです。そういう意味で、わたしは、「社会を変える」というお題目は所詮絵に描いた餅に過ぎないと考えます。

「『お忘れ物、落とし物にご注意ください』というアナウンスがなかったから、忘れ物をしたじゃないか。」とクレームを言うような人がいる社会が、成熟した大人の社会に変わるということは、文字通り「百年河清を俟つ」ようなものであろうと感じています。
勿論障害者を含めたほとんどの人がうるさいと感じていないものを一人や二人の例外のために変える必要を感じる人は、ほぼ、いないでしょう。わたしは一人や二人であっても、そのマイノリティー中のマイノリティーを尊重せよというほど、愚かではないつもりです。
つまり、それがいかなる国の社会であろうと、一人や二人の例外は苦しみ続けることを運命づけられているということを知っていると言うことです。



さて、いろいろな事情から、眼科の朝一番の診察・治療に間に合うためには、前日から、病院の近くに宿を取っておく必要がありました。駅に近いということと、比較的料金が安いといいうだけのビジネスホテルです。すぐ隣にセブンイレブンがあり、わたしは、飲み物を買ったのですが、迂闊だったのは、そのコンビニの支払いが自動精算機であったことです。
わたしはコンビニやスーパーの自動精算機は使えません。財布からお金を出そうとしていて、少しでももたついていると、「オカネヲイレテクダサイ オカネヲイレテクダサイ」とその喧(かまびす)しいこと。全く同じことが、障害者手帖更新のために証明写真を撮った折にもありました。こちらは「必要な金額を挿入してください」だったか、とにかく、一分たりとも「待てない」。「待つ」ということを知らない。お金が投入されるまで何度でも同じ言葉を繰り返す。何故かほどに人間が機械に振り回され、苛立たされなければならないのか。
「人が財布からお金を出わずかな時間をすら待つことが出来ずに、何べんでもしつこく催促する」これが「障害者やお年寄りにやさしい」社会と言えるでしょうか。

社会を変えるどころか、当の社会は、コロナ禍により、人間同士が物理的に接触しないという「対策」を奇貨として、益々機械による人間の疎外、そして生体の浸蝕を促しているように見えます。

繰り返します

「変わるべきは、私の体ではない。私の心ではない。変わるべきは社会環境の方だ」

という言葉は、なにかひどく実質を伴わない虚しい掛け声のようにしか聞こえないほど、説得力に欠けるのです。

無論人間の存在が多種多様である以上、何を快とし何を不快とするかが、個人個人によって違う以上、全ての人を掬いあげるということはもとより不可能なことではあっても、貧困や差別の解消が喫緊のテーマであることは言を俟ちませんが、

「障害とは皮膚の内側にあるのではない。皮膚の外側にあるものだ。階段をのぼれない私の体の中に障害があるのではない。階段しか設置していない建物の中に障害がある。」

或いは

「変わるべきは、私の体ではない。私の心ではない。変わるべきは社会環境だ。」

という言葉が、何かとても表面的で軽いものに聞こえてしまうのです。

そこには、「障害」とは何か?「社会」とはなんで、「障害者や高齢者にやさしい」とはどういうことで、社会をどう変えれば、僅かでも「それ」に近づくことができるのかという、具体的な議論が欠如した、空疎な抽象論(乃至キャッチコピー)があるだけのように思えてならないのです。











0 件のコメント:

コメントを投稿