2021年5月29日

憎むことを知らない者たち

 
そもそもニッポンには社会があるか疑わしいのだ。西欧的な意味合いで社会というとき、「個人が前提となる。個人は譲り渡すことのできない尊厳を持っているとされており、この個人が集まって社会をつくるとみなされている」(阿部謹也『「世間」とはなにか』)。とすればこの国には西欧的概念としての社会はないのであって、あるのは「非言語系の知」の集積たる「世間」なのである。

社会ということばは輸入語でありSocietyの訳語だった。個人も同様で、もともと日本語にはなく、Individualの訳語として19世紀後半にお目見えしている。社会や個人の概念がこの国に定着したかというと、阿部謹也氏によれば否だという。国家権力との緊張関係を前提とする社会や、その成員としてそれぞれに異なった内面世界をもつ個人はこの国にはなじまなかったということだ。万葉以来千年にわたり時空間の暗黙の秩序をつかさどってきているのは、やはり非言語的(非論理的)価値体系でもある世間なのである。

こういってもよいだろう。ニッポンは社会と世間の二重構造によってなりたっていると。社会は建前であり世間が本音である。タテマエでは、人には生きる価値のあるものとそうではないものの区別はないと言いつつも、ホンネでは、<死すべきもの><生きるべきもの>の異同を暗々裡に認めている。かくして死刑制度は世間によって強固に支持される。世間は天皇制、軍国主義、独裁政治、ファシズムとうまく調和しながらそれらを下支えしてきた。

ー辺見庸『コロナ時代のパンセ』
(下線、引用者)


日本には、所謂西欧的というか欧米的な「社会」も、また「個人」も存在しない。
それでなんとなく分かった気がする。何故日本人は闘わないのかということの訳が。
これだけ踏みつけにされても、日本人のデモは決して暴徒化することはない。そして欧米のように、政府がこう決めましたということに怒り、ほとんど条件反射的にたちまち百万人単位のデモ隊が街頭を埋め尽くすという光景に出逢ったこともない。ヨーロッパでしばしば行われるゼネストが、この国で最後に行われたのはいったいいつのことだったのだろう。
欧米に限ったことではない。韓国では前大統領弾劾の際にやはり数百万人規模のデモが行われた。

阿部謹也氏は、「社会は国家権力との緊張関係を前提とする」と述べている。その緊張関係は、時として、市民に牙をむかせる。ところが、日本人が牙をむくのは、常に自分よりも弱い立場にある者たちに対してである。
辺見庸ー阿部謹也は、「世間」とは「非言語的(非論理的)価値体系」であると言っている。世間とは「非言語系の知」の集積であると。これは本来阿部氏が言わんとしている文脈からは離れるが、欧米諸国やそのほかの国々でしばしばみられる、大規模デモやその暴徒化、そしてゼネストは、正に「非・言語的」社会活動ではないか。極論すれば社会と個人との間の緊張関係は、時に、生きるか死ぬか、殺るか殺られるかの次元で発現する。


昨年物故した作家、坪内祐三に『右であれ左であれ思想はネットでは伝わらない』という著書がある。内容はタイトルとはあまり関係のない、インターネット出現以前の日本の知識人と呼ばれた人物たちの紹介である。

坪内のSNS嫌いは夙(つと)に知られており、「ツイッターには文脈がない」と批判していた。
SNSユーザーも、また当然ツイッター上で坪内批判を展開した。

昨年だったか、辺見が、(あれほど嫌っていた)「ツイッターを始めました」という報せを彼のブログで発見した時、彼も堕ちるところまで堕ちたな、という思いを抱いた。そして更に既刊本を何冊も「電子書籍」化しているのを知り、本気で、辺見庸とは縁を切ろうと思った。所蔵していた彼の本もすべて処分した。
そしてその気持ちを、毎日新聞出版部の彼の長年の担当編集者にメールにして送った。
その頃はまだツイッターのことは知らなかったし実際、やってもいなかっただろう。ただわたしは、ブログで、そして自著の中で、大手マスコミを撫で切りにしながら、新刊が出版される段になると、微笑みをたたえてインタビューに応じる彼の器用さ、融通無碍な感じ、狡猾さについて言行不一致ではないかと、彼を難詰したメールを書いたのだった。無論返事は無用ですと書き添えて。
翌日メールを送った編集者から電話があった。盛んにわたしの言い分はもっともとしながらも、辺見の擁護に終始している印象しか残っていない。

今回数年ぶりに彼の新刊を手に取ったのは、やはり彼の思想に共感するところが大きいからだ。「巧言令色少なし仁」という言葉が辺見庸に当て嵌まるか、わたしにはわからない。
このように辺見庸の言葉にいちいち頷きながら、しかし、わたしにとって、彼は最早、どこに行くにも彼の本をお守りのようにバッグに入れていた頃とは違っている。当時は言えた「心酔」という言葉を今、辺見庸に対して使うことは難しい。


日本には、非言語的社会活動=デモ、暴徒化、ゼネストといった闘争がない。闘いが存在しない。
一方で、言語活動だけは極めて盛んなようだ、日本学術会議の委員任命を菅が拒否した時、それに反対する署名がツイッターで500万だか集まった、それで菅は、政府関係者は顔色を変えて戦(おのの)いたか?これが仮に一千万だったら、菅の態度も変わっていただろうか?
SNS上では菅の言動がいかに過っているかという、非の打ちどころのない正論が飛び交っていたのではないか?しかしこの国のトップにとって、そんなものは痛くも痒くもない。

SNSとは「社会」ではなく「世間」であると考える。かほどに日本人の多くはSNSに依存している。SNSが「社会」ではなく「世間」であるというのは、そこにいかなる形での「社会」乃至「権力」との対立・緊張関係が存在しているのかがわからないからだ。
どんなに主張が正しくとも、それによって権力が倒されるということはない。
何故なら、権力とはそのような善や悪の彼岸に存在しているからだ。

目取真俊さんは「日本は舐められている」と。「なめられて当たり前だと思います。パレスチナでは、子供たちがイスラエル軍の戦車に石を投げているのに、(沖縄の米軍基地前では)シュプレヒコールしてプラカードで抗議しているだけですからね。アメリカ兵から、お前ら自爆テロもできないだろうと思われてあたりまえなわけです」
「よその国ではレイプしたら報復されて殺されるかもしれないが、沖縄、日本ではそんなことはない。」(略)米兵にしてみれば、沖縄は「ぬくぬくしたリゾート地」であり「夜中に酒飲んで歩いていても後ろから刺されることも、撃ち殺されることもない」と作家は語っている。

(同書)

全面的に同感である。

沖縄を日本人に、アメリカ兵を日本政府に置き換えることは充分に可能だ。

大状況を変えるには、こちら側も、欧米諸国のように、非・言語により拮抗する大状況を持たなければならない。何百万人の人たちが、スマートフォンで、ツイッターに、現政権にNOと書きこんだところで、それを権力に拮抗する力とは言わない。


元号が明治に代わり、新生日本は「脱亜・入欧」をスローガンとして掲げた。
しかし、ヨーロッパから持ち帰ったものは、機械文明と富国強兵への道筋だけで、肝心の民主主義や自由・平等・博愛の精神は受け取ることはできなかった。
そして最も肝心な「社会」や「個人」「基本的人権」という概念も。しかし、「日本という国」にとって、欧米的な「社会」や「個人」「人権」という観念は、「脱亜・入欧」を唱えていた当初から、在ってはならないものだったのかもしれない。












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