2021年5月11日

どうしようもないわたしが(まだ)生きている


今回の投稿は極私的な内容で、今現在のわたしという混沌とした存在の胸の裡を、なんとか言葉にしてみようという試みに過ぎない。であるから、理路整然とした文章の対極にあるが、逆にいえば、この混乱、惑乱ぶりが、そのまま今のわたしであるともいえる。いずれにしても、書く主体が既に崩壊しつつある状態で書かれたものなので、極めて読みにくい文章になると思う。その点、予めご理解ください。


先日のコメントで、ふたつさん、Junkoさん、それぞれから、「しばらく休んでください」と言われた。以前にも、「やすんでください」と言われたことがあった。ところがわたしには「やすんでください」の意味がよくわからない。
わたしが最も求めて已まないのは、心の底からの安心、安息である。けれども、生きている人間に、真のRest in Peace「心やすらかな休息」を求めることが可能だろうか?
横になって身体(からだ)を休めることはできても、果たして、魂の安らぎがそうやすやすと得られるものだろうか?(いうまでもなくこの文章は、ふたつさん、Junkoさんの気遣いに対する反論ではない)

「神」或いは「信仰」を持たない者にとって、彼/彼女を「抱き締めてくれる者」とは何者か。人間は力強く抱きしめられる者を持たずに生きて行けるほど強い存在なのか?


訴訟問題の浮上で、今更ながら気づいたのは、このような小さなブログであっても、ひとりでも読者がいる以上、そしてその読者が、現実にも付き合いのある気心の知れた仲でない以上、ブログを書くということもまた、人間関係の渦中に身を置くことに他ならないということであった。そしてわたしは人間関係が極めて不得手であるにもかかわらず、孤独が苦手であるという極めて厄介で面倒な性格の持ち主である。

わたしは「話し相手」を切実に求めている。

一例として下記のブログに書いたわたしのコメントを、ブログの本文と共に引用する。

「内的自己対話ー川の畔のささめごと」

より



「上級日本語」の課題として、平均二週間に一回、小論文を課す。今学期は計六回。明日が第六回目の作文の提出期限である。最低八〇〇字というのはこれまでの課題と同じ条件だが、今回は最終回ということで上限なし。一昨日あたりから届き始めている。今回の課題は、昨年も扱った主題をめぐる問いだが、昨年より難易度を上げた。昨年は、「わかる」と「理解する」との違いを述べさせたのだが、今年は、授業中に私が示した両者の違いについての説明を前提として、「自文化は理解可能か」という問いに答えさせた。なかなか興味深い回答が返ってきている。すでに添削を終えた十三本の小論文のうちで私が最も高く評価しているのは、「わかっている」状態を説明するのにプラトンの『国家』の中の「洞窟の比喩」を援用したもの。その後半を引用しよう。

 この現象は哲学者プラトンの『国家』の中の「洞窟の比喩」に比べられます。確かに、洞窟に住んでいて、縛られていて、動けない人は、洞窟の壁に映る影は彼の社会だと思い込んでいます。そして、洞窟人にとって影は彼の社会、彼の文化で、自然的で唯一の事実なので、その文化の規則の理由を説明できず、理解することができません。あるとき、一人の洞窟人がその洞窟から出ることができたとき、彼だけが自文化の規則の理由を説明できて、自文化を理解することができました。
 それゆえ、自文化を理解するために、自文化から離れて、その歴史を学んで、その価値観や慣例の原因を理解する必要があります。例えば、自文化の歴史を見ると、異性愛が自然な状態と思われている理由は中世において、戦争時、多数の戦士を必要としたので、人口を増やすために、同性愛を禁止したことにあると言われています。それを理解するために、自分の社会の文化から離れて、異性愛は「自然な状態」であるとする通念からも離れる必要がありました。
 しかし、外に出た洞窟人が自文化を理解することができたのは、他の文化を身につけたからで、それによって彼の自文化に変化が起こり、新しく身につけた文化と比べることによって元の自文化を理解しました。故に、自分の社会を離れて自文化を見るときはじめて、本当にそれが自分の文化だと言えるのではないでしょうか。


 これを書いた学生は、毎回思慮深い内容の文章を書いてくれるのだが、この学生にかぎらず、要求したわけではないのに、哲学者を引用する学生が毎回必ず何人かいる。私が哲学を専門としていることを意識してのことかどうかはわからないが、感心するのは、それらの引用が付け焼刃でなく、面白い着眼点を示していることが多いことだ。それから、これはたまたまに過ぎないと思うが、哲学者を引用するのは女子学生に多い。これは私の勘繰りだが、彼女たちは、高校三年次文系理系を問わず必修科目でバカロレアでも同じく必修である哲学をかなり真面目に勉強したのではないかと思う。日本学科における他の授業で哲学の知識が役に立つことはほとんどない(と思う)が、私の授業ではそれが大いに役に立っているようである。これまでにも、アリストテレス、スピノザ、ライプニッツ、ルソー、カント、ニーチェなどを引用した小論文があった。もちろん、私はそれをとても嬉しく思っている。
 日本の高校で哲学が必修になる日が来るとはとても思えないが、もしそんな日が来るとすれば、それは日本の社会が大きく変わるときであろう。


上記投稿に対するわたしの意見



確かに出されたテーマは「自文化は理解可能か」でした。自文化をなんらかの(例えば、洞窟から外へ出るというような)形で相対化することは、或いは可能かもしれません。

けれども、自文化を「わかる」乃至「理解する」ということと、それを受容するということは同義ではないと思われます。

「わかる」或いは「理解する」というのは、あくまで「知的な領域」での営為であって、心理的・精神的側面が欠けています。
「わかっている」と、それができるということとは同じではありません。

前回の『自己認識の方法としての異文化理解』の際にも感じましたが、世界が広がるということは、単に「認識」の幅が広がるということ。認識の広がり、知識の蓄積は、「わかっている」「理解している」に留まり、実存が豊穣になったこと、また自己が自文化の桎梏から解き放たれたことを意味しないと思います。

肝心なのは「自文化」を受容出来、同時に、自文化から受容されうるか、ということではないでしょうか?

異文化を知ることによって、逆に自文化に幻滅し、憎しみすら覚えるというのも、いうまでもなく「自文化理解」のひとつの在り方です。
私は寧ろそのような自文化理解こそが健全な「わかった」「理解した」ということの形であると思います。

「わかる」「理解する」「学ぶ」ことは、
自文化を受容することも、自文化を忌避・拒否することも含意していません。

>故に、自分の社会を離れて自文化を見るときはじめて、本当にそれが自分の文化だと言えるのではないでしょうか。

この最後の文章はわたしにはわかりません。何故なら再三の繰り返しになりますが、知る、わかる、理解する、学ぶということと、その対象を、自己と言う個別的な存在と融和させることとは違うと思うからです。


無論ブログの筆者であるフランスの大学の哲学の教師からの返信はない。

ただわたしはこのようなことを話し、自文化理解というテーマを掘り下げてみたいのだ。

自文化を知り、自分はその自文化の中でどのように生きて行きたいのか、そもそも生きてゆけるのか?更に自文化の改革はどのようにすれば可能か?そのような思惟のない、単なる1=1という「認識としての」「理解」は、そこにある事実・現実としての自文化の無言の承認でしかない。何故そのようなことを言うのかといえば、わたしにとって、自文化、更には、現代という時代を「理解」「認識」するということは、とりもなおさず「そこはわたしの生きる(生きることのできる)場所ではない」という、更に根源的な「認識」へと結びついているからだ。「自分がその中でどのように生き(られ)るのか?」或いは「生きることは困難なのか?」というそれぞれの自己という個別の実存への問いかけを抜きにした「(一般論的)自文化理解論」は所詮は机上のアカデミズムにしか見えないのだ。


昨日、『法テラス』の弁護士と、電話で30分間件のブログについて話をした。
結論から言えば、「とても『訴訟』などに持ち込めるケースではない」ということはないということ。
但し、相手の発言の真意、根拠を示せと言うことは無理であるということ。
更に名誉棄損というのは、先方が、Takeoさんという特定の個人の名誉を著しくきずつけ評判を悪くしたという場合に当てはまるもので、お話を伺う限りでは、相手はTakeoさんの名前を出したことはないと仰る。ですから。名誉棄損にも該当しないでしょう。
ただ、わたしが電話口で読み上げた

「ミュンヒハウゼン症候群と同じで、「困っている」ことが彼の人の存在に必要なことですから、
どうあっても手放さないと思います。 


「困って雪隠詰めになってまたは自主的に
隠遁生活で満足してくれたらいいけれど、
「自己愛」があるから幼稚な承認欲求を
満たすために、これからもいろんな人にネット上で
ふっかけては揉め事起こすでしょう。
 」


「知らずと関わった人は不幸です。
特に彼の人の嫉妬の対象になった人はいい迷惑です。
この種の人間との遭遇を一度経験すると
他の自己愛にはひっかかりにくくなりますが、
それでも心に負う傷は深いです。

これらの発言は「侮辱」に当たる可能性がある、と。

更に弁護士は、個人=ブログの管理者を相手に闘うことは難しいと言っていた。
そうなると、相手は、FC2ということになるのか?
その辺のもっと詰めた話し合いは、第2回(未定)以降になるのだろう。
今回話した弁護士は、高圧的でも投げやりでもなく、真面目に話を聴いてくれたし、「訴訟も不可能ではない」と言っていたが、「それには費用も掛かるし、時間も、労力も、精神的負担もかかる、そして仮に損害賠償が認められたとしても、大した金額ではないでしょう。その辺りをよくお考えになって、また、引き続きの相談をご希望でしたら、私の事務所に連絡を下さい。その際は実際に双方のブログを見てお話することになるでしょう。」

※尚ここ数日、わたしのパソコンからは件のブログは閲覧できないようになっている。

繰り返すが、わたしは先日いくつかここで紹介したコメントの削除も、それぞれの書き手の謝罪も、況やブログの削除も求めていない」賠償金がいくらであってもそんなものはいらない。

ただ一重に、発言の真意の説明を求めているだけだ。

問題発言と見做せば直ちに削除する、重罪人は時間をかけて犯行に至った経緯、その成育歴、心理的背景を探ることなく、一刻も早く抹消しようとする。
わたしはここに日本の裁判制度の致命的な欠陥があるように思えてならない。


訴訟という形であれ、どのような形であれ、あのブログとはもう関わり合いを持ちたくないという気持ちが強いが、



これらの言葉を読む度に、5年ほど前、「発達障害の子供を持つ親及び当事者のためのサイト」=「 LITALICO リタリコ 発達ナビ」で、ひとりの人間がここまで深く相手を憎悪し、ここまで深く人の心を傷つける言葉を吐くことができるのかという言葉を浴びせられたことが思い出されるのだ。
その女性も、やはりわたしの「自己愛」云々ということを言っていた。

一体人が口々に指摘する「わたしの自己愛的性格」とはなんだ?


前に書いたでしょ、暴走族は田んぼで走らないって。
その意味が分かりますか?
人に迷惑かける、かけるといいながら町中で
みんなに眉ひそめながら暴走するのが暴走族。

もっと言うと、スーパーのおやつコーナーやおもちゃコーナーで
ひっくり返って泣くのと同じ心理。
「承認欲求」「注目欲求」が幼稚なんです。


大人なら、努力してまっとうに承認されるまで歯を食いしばって
るものです。努力したから必ず賞賛されるとは限らない。
だから自分軸で、努力するんです。
発達凸凹があろうと、やりづらかろうと、努力するんです。
あなたはどちらでもない。


巨大な自己愛、身の丈に合わない理想像の間で
駄々こねてるだけの、「年老いた2才児」と変わらないように見えます。


自分に関係ない、と思うと全く読まない人、
想像力の欠如が著しいからヒントを書いてあげても、わからないんですよ。
自閉症じゃなくて、人格障害で、無職で、親の年金で暮らしていて
医療費は一文も払いたくない。そんな世の中のお世話になりまくってる人が、
発達障害の診断を受けて、どこまで社会復帰していくのか
はなはだ疑問だけど、一応おつきあいしましたが、
結構難しいケースじゃないでしょうか。


それで日本が嫌いの、自分は嫌われるの、
性格は運命の、差別だ、マイノリティーだ、
言ってるなら、
治療としての発達障害診断じゃなくて、
「研究対象」として医学部のモニターになるほうが
ずっと世の中のためになるんじゃないかと思います。


そしたら、「自分は特別なんだ」って自己愛も満たされるし。
納得行く診断名も着くと思いますよ。
何種類か複合タイプかもしれないし。


だいたい失礼ですよね、もともと発達障害や知的障害を
馬鹿にしているでしょう。
自分も仲間ですよ、仲間かもしれない、
本当はそんなこと微塵も思ってないでしょう。


私は、偏見なく最初おつきあいしました。
慈しみの心を持って私にできる精一杯をしています。
今もそうです。どうぞお幸せに。




冒頭に書いたように、心の底からの安息もなく

人からは身に覚えのない「自己愛」とやらで憎しみを買い

自身、その余りに特異な性格ゆえ、孤独から抜け出すことができない。


寄る辺なく、人から憎まれ嘲弄されることの多いわたしに、母は、できるだけあなたの味方でいたいと言ってくれる。その意味は、できる限り、からだと気力が続く限り、あなたのサポートをするつもりだ。

先日、2011年から始めたTumblrのアーカイブスを眺めていた。

今年、2021年から遡り2015年辺りまで来ると、所々で、その絵や写真を投稿した時のことを思い出す。そして同時に、わたしも母も、このころから今に至るのと同じ長さの歳月をこれから先生きることはほぼ無いのだなと、歳月の流れの速さに改めて思いを馳せた。





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