2021年5月22日

人間がわからない

「 最早隠れ処など存在しない」。主体から主体性がうばわれ、世界からそれぞれ固有の「質」が奪われた・・・・と言ったのは誰だったか。
 (略)
「最早隠れ処など存在しない」「管理社会から脱落した者がつつましく冬を越すことすらもはやできなくなっている」。ああ、そうだ。T・アドルノが半世紀以上前に言ったのだった。ヒューマニティーの喪失。そうだ、アドルノがいいたかったのは、しかし、おそらくそれだけではない。21世紀の管理社会では、システムとしてのヒューマニティーは前世紀よりも、もちろん19世紀よりもはるかに向上している。ではなにが問題なのか。

アドルノによれば、ファシズムの時代に人々を支配していたのはナチスのような「暴力団」でありナチス以降は管理社会がとってかわったけれども、実は両者に決定的なちがいはない。
19世紀末、落魄のアル中詩人にして一文無しのホームレス、ポール・ヴェルレーヌに献身的に手を差し伸べた医者はたしかにいたが、管理化された社会では、形骸化した弱者救済のシステムらしきものはあっても、その分人間の主体性が希薄になるので、ヴェルレーヌのような詩人も彼を本気で救うような医師も、ずいぶん少なかろう、というのだ。

管理社会はひとというものの落魄をそもそもみとめはしない。管理社会では「落魄」はもう詩ではなく、たんに病理なのである。

ー辺見庸『コロナの時代のパンセ』(2021年)より

◇ 

山田太一のドラマ『男たちの旅路』で、ひときわ印象に残っているセリフがある。
鶴田浩二の演じる警備会社の司令補が、新人である水谷豊、柴俊夫らに「おれははみ出さない奴はきらいだ」という。
「誰かがかばん屋に靴を直してくれといってきたらどうする」
「俺なら靴屋へ行けというねぇ」
「靴屋がないからいってるんだ!」

つまり鶴田はここからここまでが決められた俺の仕事で、それ以外のことは知ったことかというようなやつは人間ではないというのだ。決められた自分の分担・領域をはみ出してこそ人間だと。

これは上でアドルノー辺見庸が言っていることと通じると思う。

「キミは決められたことだけをこなしていればいい。それ以外のことをする必要はない。」
これが管理社会である。鶴田浩二は「俺ははみ出さない奴はきらいだ」というが、「はみ出してはいけない」「はみだすことができない」社会がいま出来つつあるのではないか?

それは何も仕事に限ったことではない。このような時にどうすべきか?を考えるのは、他ならぬ自分自身という「主体」である。暴力的なファシズムと、管理社会に相違があるわけではないと辺見が言うのは、どちらも、個人の主体というもの、自分で考えた上でその考えに従って行動すること=はみだすことが許されないという点で、同一だからである。

ジョルジュ・アガンベンは「自分の生が純然たる生物学的なありかたへと縮減され、社会的・政治的な次元のみならず、人間的、情愛的な次元の全てを失った、ということに彼らは気づいていないのではないか・・・」と書き、案の定、多くの論者から非難されている。しかしわたしはアガンベンの主張にCOVID-19の不当な過小評価よりも、コロナ禍でまちがいなく減縮されつつある人間存在へのまっとうな危機意識を感ぜずにはいられない。

辺見庸同書(下線引用者)

しかし仮にコロナが存在しなかったとしても、管理社会はその網の目を更に広く、細かく張り巡らしてくるだろう。人間による人間の疎外そして迫害は、コロナとは無関係に強まっている。

精神を病む者が増えるだろう・・・と書きかけて、ふと指が止まった。そもそも、「主体」=「わたし個人」というものを持たない者たちがこころを病むということがあるのだろうか、と。

4月25日に発売された辺見庸の本は、既に都立中央図書館などに所蔵が見られたが、わたしの住んでいる市には所蔵がなく、いつまで経っても「新着図書」のリストにも挙がらない。

問い合わせたところ、これから選書をして、購入するかどうかの検討の段階ですという。
そこでわたしがリクエストをして、購入してもらった。過去にもそのようなことがあった。

彼に対しては、愛憎相半ばする感情があるが、4~5年ほど前に読んだ『1★9★3★7』(いくみな)以来、久し振りに本来の(?)辺見庸に再会した気がする。


 


 



0 件のコメント:

コメントを投稿