2021年5月27日

なにが規準になり得るのか

 
辺見庸の『コロナ時代のパンセ』は、今年、2021年4月25日に毎日新聞社から出版された。収められた86篇のエッセー乃至論考は、月刊『生活と自由』(生活クラブ連合会)に、2014年2月から2021年3月まで掲載されたものである。つまりいちばん古い記事は7年前の2月のものになる。

辺見の大嫌いなモノが四つある。「戦争」「天皇制」「死刑制度」そして「オリンピック」である。それかあらぬか、辺見庸は中央のメディアからはほぼ黙殺されている。「朝日」「毎日」「読売」所謂3大紙は悉く東京オリンピックの公式スポンサーである。(現在は既に過去形なのかは知らないが)そして彼はいうところの「リベラル派」の論客をも嫌う。当然ながらリベラル派も辺見を嫌う。


さて、先日「生は特権化された人々の権利に過ぎない」というアメリカのフェミニスト・哲学者であるジュディス・バトラーの言葉を引いた。
これは今年、2021年に書かれた「なぜ働きつづけるのか?」というタイトルの論考にあった言葉である。

以下その文章を引用する。


現実は小理屈ではすまないほどにリアルである。もともとそうだったのだが、ますます隠しようがないほどに切羽づまってきた。コロナと大不況・・・人間はいまや「生きるか死ぬか」というほどに追いつめられているといってもオーバーではないだろう。失業したくないから、条件が悪くとも働きつづける。だが働くのも命がけである。生活のためにはウィルス感染の危険を冒してでも労働せざるを得ない。失業ー貧困ー病気ー無収入のプロセスは、もともと頼りないセーフティーネットから容易に漏れ、死へと直結する。

「誰が命がけで働くのか。誰が死ぬまで働かされるのか。誰の労働が低賃金で、最終的には使い捨て可能で代替可能なものなのか」。バトラーによれば、パンデミックはこれら「一般的な問い」を、あらためてなまなましく浮かびあがらせ、答えを迫っている。「職業に貴賎なし」「同一労働・同一賃金」といったお題目は、依然、”正論”ではあるのかもしれないが、従来の足場を失いつつあるのだ。

昨夏、若い女性がカッターナイフを手に真珠販売店に入り、お金を奪おうとしたが未遂、すぐに交番に自首したという記事が九州の新聞に載った。女性は新型コロナの影響で客足が遠のいたうどん店を解雇され、生活に窮し、公園で寝泊まりするようになった。彼女は一時、「食べ物を下さい」と書いた紙を掲げて公園に立っていたという。胸が締め付けられる。

この風景は、路上生活者の女性をバス停のベンチから立ち去らせようとしてひどい暴力をふるい、死に至らしめた”きれい好き”の住民の挙措と重なる。新型コロナは、多数の失業者とともに、おびただしい「過剰潔癖症候群」を生み出しつつある。後者は一般に、職を失い重い影を引きずって街をさまよう人々を地域から排除しようとする。お腹を空かせた失業者がコンビニでパンや弁当を万引きすると、さもとんでもない重大犯罪でもあるかのように詰(なじ)る。

なんだか胡乱な目をしたこのクニのトップによれば「自助・共助・公助」だそうである。なべて「自己責任」なそうな。福祉・公共サービスを縮小し、公共事業は民営化、規制緩和により競争を煽り、貧者、弱者保護政策を最小化するいわゆる「ネオリベラリズム」を臆面もなく推進する現政権にとっては、「食べ物を下さい」の女性も、殺された路上生活者も、増えつづける自殺者も、「自己責任」ということになるのか。

1970年代のスタグフレーションをきっかけに物価上昇を抑える金融経済重視政策が世界の主流になり、レーガノミクスに象徴されるような「市場原理主義」への回帰が大勢となった。いうまでもなくここには貧者・弱者保護の精神はまったくない。2013年6月発表の「日本再興戦略」いわゆるアベノミクスも、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略を政策運営の柱としたが、まちがえてもらっては困る。レーガノミクスもアベノミクスも、貧者、弱者切り捨ての上に成り立った「富者のための戦略」だったのだ。

コロナ時代のいま、哀しいかな、「生は特権化された人々の権利」に過ぎない(バトラー)のかもしれない。貧しい人々は、にもかかわらず、コロナの死線を越えて日々働き続けなければならない。でなければ今日を生きながらえることができないからだ。


この辺見庸の文章を読んで、「ちょっと大げさすぎるんじゃないの」「ちょっと騒ぎ過ぎなんじゃない?」と感じる人も少なくないと思う。
彼自身書いているが、東京の某紙では彼のことを「オオカミ老人」と呼んでいるらしい。

山本薩夫監督の『武器なき斗い』では、共産党議員でさえ、「日本がアメリカと闘うなんて、いくらなんでも日本政府も、そこまで馬鹿じゃないよ」と苦笑しているシーンが強く印象に残っている。

確かに街を歩けば、「すべて世は事もなし」といった、辺見の描く世界とはまるでかけ離れた一見平和そうな人々が当たり前の、昨日と変わらぬ日常世界を歩いているように見える。けれども、世界の近・現代史を振り返れば、既に取り返しのつかない段階になって、「あの時が分岐点だったんだな」と気づくことはしばしばある。「あらゆる重大なことは凡て「にもかかわらず」起きる」という中島敦の言葉を思う。


世のひとびとに、真実を伝える人物を、「Fool」=「愚か者」と呼ぶ。良寛が自らを「大愚」と称したのと同じである。

『武器なき斗い』では、共産党の仲間からすら失笑されつつ、労農党の山本宣治議員(1889 - 1929)は、演説の前夜に暗殺される。実時間に於いて、彼の言葉に耳を貸す者はいなかった。彼もまたひとりの「ほらふきおおかみ」であった。故に彼は己の孤立を悟り、「山宣ひとり孤塁を守る」としたためたのだ。

そして時代は正にやませんの予言した通りの路を辿ってゆくことになる。

彼の墓には「山宣ひとり孤塁を守る」という言葉が刻まれている。

辺見庸はオオカミ老人かもしれない。フールかもしれない。けれども、彼のような存在がいないと考えると、最早このクニに信頼できる論者はひとりもいない。

嘗て坂本和義明治学院大学教授は、世間が極端に一方に偏っているときには、逆の方角で、極端な人がいた方がいいんです。と述べていた。

「辺見庸ひとり孤塁を守る」それでいいと思うのだ。











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