天野忠に「エピローグ」という詩がある。
あなたの詩は
よく効く薬のように
激しい副作用がある。
だから用心して
時間を置いて
ほんの少量をたしなむ。
あなたの詩は
おだやかな薬のように
効き目は薄いけれど
つよい副作用がない。
だから安心して
長く服用する。
あなたの詩には
全く副作用がない。
しかし、残念なことに
本作用もない。
だから
服むこともない。
◇
これまでわたしの書いてきた文章はどうだったろう。
本人は一番目のような、強い効果乃至毒性のあるものをと無意識の裡に望んでいた。
おだやかな春の日差しのような文章はわたしには書けなかった。
三番目に関しては何とも言えない。
ほとんどの人たちにとって、わたしの文章は、自分とは関係のないものとして黙殺された。
これは、副作用もない代わりに主作用もないということと同じではないか。
◇
「書き置き」
ひとり暮らしの
足の不自由な
おばあさんが
自殺しました。
長いあいだ
朝も
昼も
夜も
仲良しだった
唯一の友へ
ひとこと書き残して。
「さよなら テレビさん
元気で」
この詩を読む度に、目が潤んでくる。
わたしはテレビを視ないのでここ10年・・・いや、20年くらいのテレビ番組がどのようなものなのかを知らない。
このようなおばあさんにひつような、
「おだやかな薬のように効き目は薄いけれど
つよい副作用がない
だから安心して長く服用できる」ような番組がそんなにあるのだろうか?
「昔はよかった」という趣旨の投稿をした時に、あるブログの筆者と、その仲間たちに散々馬鹿にされ、嗤われた。
けれども、全ての人がもれなく、「ニューノーマル」だ、「これからのあたりまえ」だという世界に馴染めるわけではない。いったいそんなに急ぎ足で人生を駆け抜ける意味とはなんだ。
変化のスピードが速ければ速いほど、時代についてゆけない、わたしを含めた「足の不自由な人たち」が取り残される。しかし、脱落する者たちをあざ笑うかのように、時代の列車は速度を上げてゆく。
わたしはとうの昔にそんな世界から降りている。
反・時代、反・進歩を標榜することは、いうまでもなく敵を作る行為に等しい。「敵」とまではいわずとも、つねに孤独・孤立はついてまわるだろう。
けれども不器用で狷介なわたしが「書く」ということは、畢竟そういうことなのかもしれない。
ー追記ー
天野はんの他の詩に在った高村光太郎の最期の言葉「死ねば死にっきり!」という言葉に僅かに心慰められている。
※参考文献『現代詩文庫 85 天野忠詩集』(1986年)
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