2021年5月31日

時代に逆らって書くということ

 
天野忠に「エピローグ」という詩がある。

あなたの詩は
よく効く薬のように
激しい副作用がある。
だから用心して
時間を置いて
ほんの少量をたしなむ。

あなたの詩は
おだやかな薬のように
効き目は薄いけれど
つよい副作用がない。
だから安心して
長く服用する。

あなたの詩には
全く副作用がない。
しかし、残念なことに
本作用もない。
だから
服むこともない。




これまでわたしの書いてきた文章はどうだったろう。
本人は一番目のような、強い効果乃至毒性のあるものをと無意識の裡に望んでいた。
おだやかな春の日差しのような文章はわたしには書けなかった。
三番目に関しては何とも言えない。
ほとんどの人たちにとって、わたしの文章は、自分とは関係のないものとして黙殺された。
これは、副作用もない代わりに主作用もないということと同じではないか。


「書き置き」

ひとり暮らしの
足の不自由な
おばあさんが
自殺しました。

長いあいだ
朝も
昼も
夜も
仲良しだった
唯一の友へ
ひとこと書き残して。

 「さよなら テレビさん
  元気で」


この詩を読む度に、目が潤んでくる。

わたしはテレビを視ないのでここ10年・・・いや、20年くらいのテレビ番組がどのようなものなのかを知らない。

このようなおばあさんにひつような、
 
「おだやかな薬のように効き目は薄いけれど
つよい副作用がない
だから安心して長く服用できる」ような番組がそんなにあるのだろうか?

「昔はよかった」という趣旨の投稿をした時に、あるブログの筆者と、その仲間たちに散々馬鹿にされ、嗤われた。

けれども、全ての人がもれなく、「ニューノーマル」だ、「これからのあたりまえ」だという世界に馴染めるわけではない。いったいそんなに急ぎ足で人生を駆け抜ける意味とはなんだ。
変化のスピードが速ければ速いほど、時代についてゆけない、わたしを含めた「足の不自由な人たち」が取り残される。しかし、脱落する者たちをあざ笑うかのように、時代の列車は速度を上げてゆく。

わたしはとうの昔にそんな世界から降りている。

反・時代、反・進歩を標榜することは、いうまでもなく敵を作る行為に等しい。「敵」とまではいわずとも、つねに孤独・孤立はついてまわるだろう。

けれども不器用で狷介なわたしが「書く」ということは、畢竟そういうことなのかもしれない。


ー追記ー

天野はんの他の詩に在った高村光太郎の最期の言葉「死ねば死にっきり!」という言葉に僅かに心慰められている。


※参考文献『現代詩文庫 85 天野忠詩集』(1986年)












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