あまり心身の状態が良くありません。
なによりもこたえるのは、人と話が、気持ちが通じないことと、もうはやなにものをも好きになることが出来なくなっているということ。── 人間不信、人間に対する恐怖、すぐそこまで来ているファシズムへの恐れ。それらのないまぜになった厭離穢土の強い想い・・・
人と話が通じない。それはふたつさんも、わたしのような唐変木と話して同じことを感じたことでしょう。(わたしは結局ふたつさんの意見を理解することができませんでしたが、ふたつさんとは話が通じないという感想は持ちませんでした。)
ブログについても今いろいろと迷っています。
件のブログの件で相談したのは、これまで、「法務省人権相談110番」東京第一弁護士会が無料で15分ほど電話で相談に乗ってくれる法律相談数回(ここで、例のブログが使っているプロバイダーにあなたが迷惑を蒙っているということを伝えてみたらどうか、というアドバイスを受けました。そしてその後は先の投稿にあるように・・・
「該当サイト管理者より**************************************************
さて、拝読させていただきましたが、
コメント欄には別段、不適切な記述はないものと思量いたします。
引続き、よろしくお願い申し上げます。
**************************************************
上記の回答が届きました。
また、弊社で内容について事実の確認に努めましたが、
この点について、こちらで判断をいたしかねました。
ご指摘の*1不法行為が成立することが明らかでない時点で、
サイトの削除等を行うことは、ユーザーに対する弊社の不法行為又は
債務不履行を構成することとなる可能性がございます。
その為、*2サイトの削除依頼につきましては、現時点では
そのままお受けすることが難しいことを
何卒ご理解ご了承いただきます様お願いいたします。
との回答を受け取りました。
更に、『法テラス』多摩に連絡をとり、11日に弁護士との電話による相談という段階です。
けれども、わたしが投稿した件のブログに於ける、各人の発言が、「誹謗中傷」として誰もが認めるものであるか、言われた当人は当事者ですから、それが前後の文脈の中に於いてでさえ、明らかに「侮辱」であるのか?或いは、文脈の流れの中ではこれらの発言は「中傷」には当たらないのかがよくわかりません。そこで思案の揚げ句
「東京弁護士会/高齢者・障がい者総合支援センター」
に相談しました。わたしは「件のブログ」に書きこまれた文章、コメントの「削除」も「謝罪」も求めません。ただ、そっとしておいてほしいのです、それでも、現実には、「訴訟」か「言われるがままにさせておくか」といういう二択しかないのでしょうか?と。
弁護士は、インターネット上に公開しているものである以上、世界中の誰もが視ることができる。それを止めてくれとは言えない。また実際に読んでいないので曖昧な答えしかできないが、「引きこもりは人生に対する罪」だとか「引きこもりは自分を監禁している」というのは、あくまでその個人の考え方であって、それを「差別」「侮辱」とするのは難しいだろう。なにを考えていてもその人個人の自由なんだから。
一方で、今言われた、「外に出るのに母親の付き添いが必要とは一体何歳なんだね?」という発言は、逆に「侮辱」に当たる可能性はありますね。
ただ、そのブログの種々の発言を訴訟の案件として仮に取り上げたとしても、費用もかかるし、労力、精神的な負担もあります。
わたしは「法テラス」という機関は、わたしのように無収入の者が訴訟を起こすことができるところかと思っていたが、無料なのは弁護士相談3回まで。それ以上は通常の訴訟と同じく訴訟に要する諸費用が掛かるという。ただ、ほんとうにお金がないかを*3家族親類などを調査して、結果的に、預貯金がほとんど生活費くらいしかないという場合に限り、こちらが立て替えることができます、と。
わたしは母に養ってもらっている身だ。たとえそれが誰であろうと、母の財布、母の通帳の中身を覗かれるくらいなら、訴訟はキッパリ断念する。
そうなると、訴訟を前提とした11日の弁護士との相談もそもそも無駄なことであるともいえる。
それに最近向こうのブログに「たけお」と名乗る変異株が現れて、
「Takeoが、早速なんか言うてるぞ。
反論してあげませう。」
とやたらと焚き付ける、煽る。
また上に述べた「外に出るのに母親の付き添いが必要とは一体何歳なんだね?」というような発言をする変異株も現れた。
費用だけではなく、わたしと母の心身の疲れを考えると訴訟はやはり難しい。
弁護士も言っていたが、「話し合いで解決するような相手ではなさそう」であることは言うまでもない。
けれども現在の、疲弊しつくし、様々な心身の不調に悩まされているわたしにとって、変異株が登場したブログの監視の下で、このブログを平然と続けられるとも思えない。
更にわたしは弁護士の言った、「引きこもりは人生に対する罪」「引きこもりは自分を監禁する者である」というのはあくまでも個人の考え方だから、という発言に引っかかっている。
確かに自分の頭の中で何を思おうと、考えようと自由だ、けれども、それを、インターネットという*4公共の場で発言することが許されるのか?という疑問である。
もし「引きこもりは自らを監禁する者」というのが、(個人の)考え方の自由であり、内面的空想・思考の自由は、それが元々は「一個人の考え」である以上、満天下に公言しても問題はないというのなら、所謂ヘイトスピーチだって、「韓国人はさっさと朝鮮半島に帰るべき」という「個人的心情」を言葉にしただけだと言えるのではないか?
少し 疲れました・・・
ー追記ー
注1及び注2
わたしはFC2の言うように、いくつかの発言が不法行為であると言ったことはないし、書かれていることの「削除」を要求した覚えもない。あくまでも発言の真意の「説明」を求めたのだ。それがいつの間にか「削除要求」にすり替わっている。
注3
わたしの家族は両親とわたしと弟の四人だけである。その他に親類縁者は一切存在しない。
注4
例えば個人が自分のノートなりそこら辺の紙切れに、誰か、誰でもいい・・・のあらん限りの悪口を書いて、絵に描いたその人物を真っ黒に塗りつぶし、クシャクシャにしてゴミ箱に投げ込むことは自由である。けれども、その紙を大通りの壁に貼り付けたらどうだろう?
それでも尚、それは個人的な考えであると言い続けることが可能だろうか。以前、鬱病他を患うあるブログの筆者のアパートのポストに「死ね!キチガイ」と書かれた無造作に四つ折りにされた紙が投函されていた。これも、「障害者は死んだ方がいい」という個人的思想に過ぎないと言えるのか?個人の考えだから何を言ってもいいという考えは、どう考えてもおかしい。何故ならそれを許し黙過することが、差別の根源に他ならないのだからだ。
こんばんは。
返信削除Takeoさん、少し休まれたらどうですか?
「彼ら」に何か期待するのは無駄ですし、法テラスなどもほとんど実行力がある措置は取ってくれない場合が多いと思います。
「彼ら」が犯罪性に踏み込んでいくのは、あくまで「今後」のことですから。
現状においては、「精神的な被害」は判断しにくいというのが、法の判断でしょう。
そして、「彼ら」は「法の精神」を犯すことを罪だとは思っていません。
「彼ら」にとっては「罪」を着せられ「罰」を受けることこそが「法を犯すこと」なのです。
だから、実際に「罪」を着せられてからでないと『法を犯した』と言う実感は持てないということだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ところで、「変異種」と言うのは「自作自演」のようなものですか?
それとも、他の誰かが「たけお」と名乗っているのですか?
おそらく、それは確かめられないでしょうね。
でも、いずれにしても、私自身は見ていないのでよくわかりませんが、とうとうそんなことまでやり始めてしまったということでしょうね。
「彼」にも、少しだけでも、ブログを始めた当初のことを思い出してほしいですね。
Takeoさんは、そう思わないかもしれませんけど、私は「彼」も、そんなことがやりたくてブログを始めたわけでもないと思うんですよね。
よくネット上で気が大きく成ってしまう人が居るようですが、そういう人たちが、実生活では、小市民的な人たちだったりするというのは、聞いたことがあります。
そんなタイプじゃないのかな?と思うんですけどねぇ。
まぁ、私なんかは、小市民よりもかなり低い位置でずっと生活してきた人間なので、絵rそうなこと言える立場じゃないんですけどね。
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もしも、先のコメント欄で私の言った事がTakeoさんに精神的な負担をかけることに成ったのであれば、申し訳ありませんでした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
もちろん、私はTakeoさんと話が通じないとは思っていません。
誰とであっても、完全に話が通じることは無いと思いますが。
とりあえず、しばらく、休んでみたらどうでしょう?
私も、しばらくはコメントしないことにします。
それでは。
なんだか「しばらくやすむ」ということがどういうことかよくわからないんですよ。
削除「しばらく」ってなんだってね。しばらくの後には何が待っているのか想像もできない。
わたしは10年前に唯一の友人を失ってから、ひとと普通に話したことがほとんどありません。
話し相手は母だけでした。話し相手を作ると言っても、それは結局無理なことだと感じています。
「お前は人間ではない。お前は人交はりのならぬ身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物(いきもの)だ。」という言葉も、孤立と独特の認識の化け物にしても、これ以上適切にわたしという人間を表わしている言葉はないように思います。
そんな孤立した悲しい化け物が、唯一、自分の存在を表現できるのがこのブログです。
このブログが、人交はりのならぬ身であるわたしにとって、唯一の存在理由であり、存在証明なのです。
Junkoさんとも、底彦さんとも、ふたつさんとも、根本のところで、生き方や人生観が異なる。
実際にはみなさんとの訣別はわたしの狭量であり、やはり、常人と違い過ぎる考え方、世界観、人生観のせいでした。言うまでもなくJunkoさんとも、底彦さんとも、ふたつさんとも、うまくいかなかったのは、みなさんの非ではありません。わたしがあまりも、あまりにも異質な化け物でした。
それでもこのブログがあれば、僅か乍らでも、わたしの存在する意味は或るのです。
実際今の社会に何の魅力も感じることができません。母も、冗談めかしているようですが、わたしの限界がそう遠くないことを感じているようです。
「ストリントベリイは「伝説」の中に死は苦痛か否かという実験をしたことを語っている。しかしこういう実験は遊戯的にできるものではない。彼もまた「死にたいと思いながら、しかも死ねなかった」ひとりである」
芥川龍之介、『種々の言葉』より。
それでは
Ciao Takeoさん
返信削除おひさしぶりです。
ずっとブログは拝見していました。
あれ以来コメントをしなかったのは、書く言葉を失ったということからかもしれません。
どう言っても私の立ち位置はわかってもらえないな、、と、言葉というものの限界と言うか、、これがもし実際に互いを目の前にしてあーでもないこーでもないと言い合えるのであれば少しは違うのだろうとも考えましたが、まあ、なんと言うか厚くて高い壁にぶち当たった気分でした。
気分を害したわけではありません。
ただわかってもらえない私の、更なる言葉は空砲を打ちまくるに等しいように感じました。
さて本題
ふたつさんのおっしゃってることに同感です。
私も「彼ら」の言動をTakeo さんのブログで読みながら、卑怯でくだらない奴らだと憤っていましたから、、。
憤ったのは、私は、イタリア語で言うところのcattiveria gratuita 、直訳すると「無償の嫌がらせ」ですが、つまり「意味のない」嫌がらせをして不快感を他者に与えるという行為、そしてそれをしらっと薄笑いで行なう人々を心から軽蔑するからです。
まあ、Takeo さんとの件も私は所謂イジメの一種であると理解していますが、「生きる」という事、とりわけ身体という肉身を持って生きることは非常に過酷なこと、厳しいことであると思っている私は、皆が、(本人が自覚していなかったとしても)、皆が多かれ少なかれそれなりに四苦八苦し、必死に生きていると思っています。
そして身体的痛みはもちろん、当人以外その精神的苦痛はもちろん、その苦しみの根っこなど真から理解できるわけがないと考えています。
ですから、如何なる人もその生き方を他者から侮蔑されたり、不当に批判されたり揶揄されるいわれはないのですし、そんなことするべきではないのです。
てめーの頭の上のハエだけ追え、do your businessです。
それを、自分のことは高い高い棚に挙げて、( イジメを行なう人々ほど卑怯で姑息で下劣な生き物はいないと思っています) 誰かの苦難や生き方を嘲笑う、普通の感性を備えた人間から見たら彼らこそが毎回恥を晒している、哀れなみっともない生き物です。
だから、勝手にやらせておけばいいのではないかと思います。
なんせ、イジメ。ですから
やめてやめてと言えば言うだけ、あちらは面白がるでしょう
なんせ、彼らの悪質極まりない目的は、Takeo さんに不快感を与え、イジメることなのですから。
そしてね、彼らがここまでしつこく付き纏うのは、私からすると彼らがTakeo さんに対してなんらかの劣等感を感じている。そうとしか思えないのですがね、
Takeoさんの何かが彼らが隠し持っている劣等感のようなものをつつく、とりわけブログ主さん、には何かわけがわからないが不快なのではないかなあと思います。
そうでなければ、ここまでTakeo さんに付き纏う理由がありませんもん。
まあ、イジメというのは概して真っ当な理由などないのでしょうが、、。苦笑
ふたつさんがおっしゃっているように、無視してればいいと思うのです。
彼らはそれを無視できないTakeo さんの性格を熟知しているからこうしてしつこく嫌がらせをしているようにも思いますが、
いずれにしても、真っ当な人から見たら、彼らの方が圧倒的に恥ずべき人間ですから、そういう人間たちから何を言われたとしても、考慮すべき問題ではないと私は思います。
私が評価する人間から何か言われたのだったら、私に何か問題があるかも?と考えるかもしれませんが、取るに値しないこういう悪意だけの人々の言う事になど耳を傾ける価値は無いと思います。
イジメはイジメる相手がいなければ継続できないのですから。
彼らのブログでTakeo さんの存在を知って、興味を持って、どれだけとんでもないやつなんだろうとTakeo さんのブログに訪れた人がいたら、どっちがとんでもない事を吹っかけているのか、一目瞭然です。
無理かもしれないけれど
Takeoさんはアンテナの精度が高過ぎるから、どんなことでも拾ってしまう
それが逆にTakeo さんから心の静寂を奪い、心の平安を奪っているのだと思います。
少しアンテナ調節してみませんか?
そしてしばらく休んでください
しばらくはしばらくでしばらくの定義などありませんから、Takeo さんのしばらくでいいのです。
しばらくの後のことなど誰もわかりませんから。
私はご存知の通り、気難しいので、気に触ることは日々山ほどありますが、それにいちいち関わっているとまた病気になりますから、私はすぐ切ります。
私が嫌だなと思う行為をする人、つまり無償の嫌がらせ、無償の悪口を言い回る人、要するに彼らほど可哀想な人間はいないと思いますが、そう言う人々に関わる気持ちの余裕も時間の余裕もありませんから、さっさと切ります。
相手から、最近変だね、何かあったの。と問われても、少し前なら丁寧に説明したと思いますが、それさえしません。「そう言う」人間に私の真意が伝わるわけがないのです。
この世の中は、はっきり言って、趣味の悪いもので溢れていますから、多かれ少なかれ人はどこか自分のアンテナの感度を落とさないとやっていけないのではないかとしばしば思います。ですから、そうやって自分に害を与えるものは自分の手でそのものとの接触を遮断して生きていくしかないと、思い、暮らしてきました。
そうやっていると、自然ともののない暮らしに入って行くようです。
> 「お前は人間ではない。お前は人交はりのならぬ身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物(いきもの)だ。」
私は人間として生まれましたが、人間などと名乗りたくないと思っています。
この世界で人間ほど醜悪なものはいないと感じているからです。
勝手にホモサピエンスなどと名乗り、偉そうに生き物の王様であると思い上がり、暴挙を繰り返す。
一人で空を飛ぶ事も、すらっと木に登ることも、大海を悠々と泳ぐこともできないくせに。です。
人間は小器用に脳みそを操って、そう言う自分の非能力を補う術は覚えましたが、生き物としては多分一番遅れていると思っています。それを人間は恭しく進化と呼びますが、私からしたら退化に他なりません。
私は、今や人間より動物や木々や草花との関わりの方が多くなっていますが、羊の子供も豚の子供も産まれたらすぐに立ち上がり、2〜3日もしたら、大人の羊たちと一緒に歩き出します。
人間の赤ちゃんはどうでしょうか?
私は人間である。などと言うことに恥ずかしさは覚えても誇りなどは微塵も感じていません。
話が逸れましたが、
出会いが発生しないと言うだけで、Takeo さんに共感する人がいないという事にはなりません。
現に私はTakeo さんと話し込むのは難しいなあと思いながらも、高く評価しています。
以前のブログの記事に知能指数の話が出ていましたが、Takeo さんの文章力は非常に優れていると思っていますし、(私のような素朴な人間には難しいこともありますが、、苦笑)Takeo さんのアートに対する造詣の深さに感心します。
知能指数など所詮私が全く関知しない血圧と一緒、ただの数字に他なりません。
生き物の質、思考の鋭さ、趣味の良さはとてもじゃあないけれど数字になどできません。
何度も言ってるけどね。
他人の評価などくそですよ
他人は平気で今言った事を次の日には翻したりしますから、
ですから、自分で自らを評価してあげるのが第一だと私は考えています。
Takeoさんは愛すべき優れた生き物です。ご自分でご自分を評価してあげてほしいと心から願います。
何度も言ってるけどね、、笑
それこそが、Takeo さん自身が求めている事なのではないかと思うのです。
> Junkoさんとも、底彦さんとも、ふたつさんとも、根本のところで、生き方や人生観が異なる。
実際にはみなさんとの訣別はわたしの狭量であり、やはり、常人と違い過ぎる考え方、世界観、人生観のせいでした。
人間がそれぞれがそれぞれの感性を持ち、よってそれぞれの嗜好と思考を持ちます。
Takeo さんとだけに限らず、100%の互いの理解などあり得ないと私は思っています。
私はTakeo さんに私の思いを伝えるだけの文章力を持っていないなと思うことはあっても、話が通じていないとは思っていませんし、万が一話が通じないことがあったとしても、そんなことは当たり前で、話が通じる通じないと言うことは、あくまでも言葉の問題であって、私はTakeo さんのことが好きですし、Takeo さんも何かしら私のことは評価してくれていると思っているので、そう言う「思い」の世界は言葉で言い表せる世界を越えると思っています。
今日はいいお天気で、鳥たちがちゅんちゅん鳴いています。
鳥たちの囀りがTakeo さんに届きますように。
良い一日を
心穏やかな週末を、お過ごしくださいますよう祈ります。
そして束の間であったとしても、Takeo さんに心の休息が訪れますように、、。
そして祈りは届くと信じています。
お母様によろしくお伝えください。
こんばんは、Junkoさん。
削除コメントをありがとうございました。始めに、以前に比べて、視力が格段に落ちていることもあり、Junkoさんの気持ちに沿った返信ができないことをお詫びします。
「言葉がない」という気持ちはわかるつもりです。それはおそらくJunkoさんに限らず、ふたつさんも底彦さんも同じように感じていたと思います。わたしが屡々口にする「人と言葉が通じない」「気持ちが通じない」というのは、わたしの言葉を誰も分かってくれないという意味ではなく、自分が「他者」と繋がることのできる言葉を持たないという意味で言っています。
ですからJunkoさんの感覚はわたしと言葉を交わすほとんどの人が、共通に持つ無力感であり徒労感であると思います。
そしてその結果、わたしの晩年は孤独と孤立の生を余儀なくされています。
嘗て書いたことがあります
「わたしにとって熊が人間より優れている点は、ことばが通じないこと。
人間が熊よりも面倒なのは、ことばが通じないこと・・・」
何故この言葉が気に入っているのか、うまく説明することができませんが・・・
わたしはひとりがたりの言葉は持っていますが、意思の疎通を可能にする言葉を持っていないようです。モノローグは出来ても、「対話」はできない。
Junkoさんら、3人とわたしの、いちばんわかりやすく、一番大きな相違点は、わたしだけが「孤独」を嫌うという点でした。ですからわたしは一時期、全き抱擁=他者との一体化というイリュージョンに固執しました。
そこに割って入ったのが、例のブログの取り巻きだか信奉者だから知りませんが、ある女性が
>絶対に彼の人の求める人には出会えないし
抱擁も望めないでしょう。
(一部にはいるのかもしれませんから完全否定は
できません。でもそれで満足しない、
もっと違う人がほしいのです。)
わたしが訴訟まで考えているのは、何故見ず知らずの人間のブログを読んだというそれだけの理由で、上記のような確信に満ちた断定ができるのか?その一点を知りたかったからです。
◇
彼らのひとりは、しきりに「(発達障害である)わたしの想像力の欠如」を言います。
つまり彼は自分たちが嬲り者にしている相手の痛みに対する想像力は働かせず、わたしに想像力がないから視野が狭いのなんのと言ってくる。(苦笑)
おしなべて、あのブログに集まる連中は、ご主人様がそうであるせいか、人の痛みに対する想像力が決定的に欠けている。尤もこれは彼らに限定したことではなく、人の痛み、悲しみに対する鈍感さは日本人共通の宿痾でしょうけれど。
>とりわけブログ主さん、には何かわけがわからないが不快なのではないかなあと思います。
彼らだって、引きこもりや障害者を見境なく敵視し、攻撃しているわけではないと思います。
彼らの意識の中には、引きこもりや障害者は片隅で大人しくしていろという意識が潜在的にあるのだと思います。引きこもりで、障害者のくせに社会批判なんかしてんじゃないよ、という意識がね。
わたしに想像力の欠如云々と言った人物は、自分もまた発達障害だと言っています。おどろいたのは、「自分もまた障害者だから、差別されても仕方がないと思っている」という発言でした。
「実存は本質に先立つ」という言葉を借用すれば、「障害は実存に先立つ」ということかと思います。彼は自分も差別されても仕方がないと思っているのだから、他の障害者も・・・という、誤ったロジックに染まっています。これは多くの引きこもりに見られるように、自分は引きこもりだから人間の屑であるという、これまた、為政者にとって極めて都合のいい思考に支配されていることと相似形です。ふたつさんの言葉を借りれば、個人の上に社会乃至国があり、国民は国に迷惑を掛けてはいけない。何故なら我々は社会の世話になっているのであって、社会に貢献しなければならない存在であるからという倒錯した思考です。
◇
無理かもしれないけれど
Takeoさんはアンテナの精度が高過ぎるから、どんなことでも拾ってしまう
それが逆にTakeo さんから心の静寂を奪い、心の平安を奪っているのだと思います。
少しアンテナ調節してみませんか?
わたしは他に何もすることがないので、このブログを書くことだけが、ただひとつの存在の意味になっています。本当はもっと他愛もない話をして酒を飲んで笑いたいのです。アンテナを引っ込めてね。
でなければせめて小川があって、ヒツジや牛が放牧されているような田舎でひと月くらい過ごしたい。でも先ほど言ったように、わたしは「対話の言葉」を持っていません。
今の時代、テレを観ず、You Yubeの動画を視たこともなく、芸能界にも、スポーツにも興味がない人間が一体誰と何を話せるでしょう。(苦笑)。誰かと旅行に行きたいですね。自然の豊かなところに。それがあっての「しばらく」だと思います。書くことは苦痛ではありません。寧ろわたしの唯一の創造的な行為です。
◇
> 「お前は人間ではない。お前は人交はりのならぬ身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物(いきもの)だ。」
わたしも、この言葉を卑下する意味で使っているわけではありません。
「孤立と、独特の認識の化け物」にしてもそうです。
一つの事実として、そして、一抹の悲しみと矜持を持ってそう表現しています。
にんげんという恥ずべき生き物、しかし主治医と母の意見は異なります。主治医はわたしを「人間嫌い」といい、一方母は「人間が嫌いじゃないんだね」と言います。スヌーピーだかチャーリー・ブラウンが叫びます。「ぼくは(個々の)人間は好きだけど、人類ってやつは大嫌いだ!」
わたしも同じです。個々の人間の中には愛すべき人、親切な人も、悲しみを知っている人もいます。けれども、集団になるとダメです。「群れ」が嫌いです。
>100%の互いの理解などあり得ないと私は思っています。
そうですね。それは母と話していると良く感じます。母はよくわたしのことを「理解を超えている」と言います。けれどもそれで傷つくことはありません。
>これがもし実際に互いを目の前にしてあーでもないこーでもないと言い合えるのであれば少しは違うのだろう
冒頭にいわれたこの言葉は正にその通りだと思います。わたしは感覚的な人間です。イン・パーソン、面と向かって話すことで与え受け取る情報は飛躍的に増えます。言葉が巧みなどと言われても、わたしはどこかで、言葉に対する懐疑を拭い去れません。そんなことを言うのもわたしが古い人間だからかもしれません。わたしは生身の人間には言葉の行き違いを修正する力があると思っています。
久し振りのJunko節を聞いて少し元気が出ました。Junkoさんは変に飾ったり気取ったりしないから読んでいて肩が凝りません。
親切な心遣い、確かに受け取りました。
まとまりのない返信になってしまったけど、ありがとうの気持ちを感じてもらえればなによりです。
改めてどうもありがとう。