前の投稿で、何故中途に、「自文化理解」についての長い論考を、敢えて全体のまとまりを乱すような形で割り込ませたか。── これは後知恵になるかもしれないが、あの引用と、それに関するわたしの意見、更に先方のブログには書かなかった補足的文章を加えたか。
わたしは引用の直前に、
「わたしは「話し相手」を切実に求めている。
一例として下記のブログに書いたわたしのコメントを、ブログの本文と共に引用する。
と記している。
件のブログの中でこのような表現が見られる。
「困って雪隠詰めになってまたは自主的に
隠遁生活で満足してくれたらいいけれど、
「自己愛」があるから幼稚な承認欲求を
満たすために、これからもいろんな人にネット上で
ふっかけては揉め事起こすでしょう。 」
隠遁生活で満足してくれたらいいけれど、
「自己愛」があるから幼稚な承認欲求を
満たすために、これからもいろんな人にネット上で
ふっかけては揉め事起こすでしょう。 」
同様に、カフェやパブでは、政治や哲学について一般の市民が盛んに意見交換をしていると聞く。
それが何故か日本に来ると、「それは違うと思う」「わたしはこう思う」と発言することが「承認欲求」という言葉に早変わりしてしまう。人と、或いは多数と違う意見を述べることが幼稚な承認欲求ということになる。そしてまた、上記の発言をした女性も、リタリコの発達障害の女性も、やはり「徒党を組んでいた」「仲間に囲まれていた」「群れていた」そして、こちらはひとりだった。
繰り返すが、わたしは意(異)見を言うのが好きなのだ。だから返事はないと知りながらも、下の投稿にあるような意見を表明する。そして同時に議論とまではいかなくとも、対話が好きなのだ。
幼稚な承認欲求というのなら、誰よりも自己顕示欲と権力欲が強いはずの政治家連中が、ほとんど自分の意見らしい意見を持っていないのはどういうことなのか?
引用した哲学の先生の文章の結びの言葉を再度引用する。
「日本の高校で哲学が必修になる日が来るとはとても思えないが、もしそんな日が来るとすれば、それは日本の社会が大きく変わるときであろう。」
異論に報いるに「承認欲求」等と言っているうちはまだまだ・・・
Takeoさん、JUNKOさん、こんにちは、そして、お久しぶりです。
返信削除先日『しばらくはコメントしないようにします』と言いましたが、この話は私にも興味がある話なので、コメントを入れさせてもらいました。
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私は、承認欲求と自己愛の関係に、一種の「トリック」のようなものを感じることがあります。
まず、私は「自己愛」も「承認欲求」も、誰にでもあるものだと思っています。
それらを「まったく持っていない人」も居ないし、「完全なる自己愛」を持っている人も居ないということを前提にして考えています。
そこで、まず、一つ目の「トリック」は、もしも、極端に「承認欲求が低い人」が居ると考えた場合、それはどういう人だろうか?と考えると、それはおそらく「自己愛的な人」ではないかと言うことです。
記事にある人たち(Takeoさんに「自己愛」や「承認欲求」という言葉を投げつけた人たち)は、どうも、「自己愛」が強いと「承認欲求」も強く成るという方程式を持っているようですが、私は、どちらかと言うと逆だと思いますね。
それは、「承認欲求」が極端に弱い人が居ると想定すればわかることです。
「彼ら=記事にある人たち」は、「承認欲求が弱い人」は「他者を尊重する人」だと思っているんじゃないかと思いますが、「他者を尊重する人」が「承認されなくても平気な人」だというわけではありませんし、そんな話に根拠は全くありません。
どちらかと言えば、むしろ、「他者を尊重する人」こそ『自己も尊重して欲しい』と思うのが道理でしょう。
もしかしたら、『他者は尊重するけど、自分は尊重されなくてもかまいません』と言う悟りの境地に達したような人も居るのかも知れませんが、実際には、そういう人は人類の中に数人居るか居ないかだと思いますので、この話としては無視した方がいいような気がします。
その上で、「承認欲求が極端に弱いい人」はどういう人なのか?と成ると、それは「既に承認されているという自信がある人」ではないかと思います。
つまり、「自己肯定感」が強い人ということです。
「自己肯定感」が強い人は、例えば自分が誰かに嫌われていても「嫌われた自分」を否定するのではなく「自分を嫌った相手」を否定しますし、自分が失敗した時にも「失敗した自分」ではなく「自分以外の原因」に責任があると考えます。
まぁ、そういう人は、ほとんど「自己愛の強い人」だと言っていいでしょう。
そして、そういう人が「極端に承認欲求が低い人」である場合が多いと思います。
なぜならば、そういう人たちは、自分が『既に承認されている(と思っている)』からです。
要するに、他人から承認される必要が無いということです。
だから、人に対して「承認」を要求しません。
だから、「承認欲求が低い人」に見えるわけです。
もちろん、「承認欲求が弱いこと」イコール「自己愛が強いこと」ではありませんが、結果的にそういう例が圧倒的に多いと思います。
一方、「彼ら」が想定している「承認欲求が弱い人」と言うのは、主に、実際に「承認欲求」が弱いのではなく、「それを強く主張しない人」のことだと思います。
しかし、それは、心の中に「承認欲求」を持ってはいても、それを人に対して強く主張しないので、相手にとっては都合がいいということに過ぎません。
「自己愛的な人」が「承認の必要性」を感じていないのに対して、「それを強く主張しない人」の方は、それなりに「承認の必要性」を感じてはいますが、それを他人に要求すると結果的に損をする場合が多いので、それをしないということが多いわけです。
ということは、そういう人も、それなりには「自己愛的=自己利益的」であるということに成ります。
ただ、「自己愛的な人」が「承認の必要性」を感じていないと言っても、それは「すでに成立している(と本人が思っている)承認」が、実は「自分の思い込み」に過ぎないということが、見ないでいられるときに限っての話です。
Takeoさんは、「彼ら」に対して、それを見せつけてしまう傾向があるので、強い反発を受けることが多いということです。
これは、私自身もよくそういう目に合っているので、だいたいわかります。
私は、特にきつい物言いをするわけではないし、あえて、そういう人たちの側に出向いて行ってそういうことを言ったりはしませんが、それでも、そういう反発を何度か感じたことはありますから、言い方の問題でもないでしょう。
おそらく、「彼ら」「彼女ら」は、Takeoさんに「暴力的に承認要求」を突き付けられたと感じたのでしょう。
でも、実際には「彼ら」「彼女ら」がやっている活動も、すべて「承認欲求」のあらわれであることに変わりはありません。
また、「努力」したから『承認を要求してもいい』と言うことにはなりません。
一言で言って、「彼ら」「彼女ら」は自分の活動を『正しい』と考えているんだと思いますよ。
だから、自分の活動には『「承認」が与えられてしかるべき』と考え、Takeoさんの活動は『正しくない』から『「承認」を要求してはいけない』と考えているということでしょう。
「彼ら」「彼女ら」にとっては、自分の「承認欲求」は正しく、Takeoさんの「承認欲求」は正しくない、そして「暴走族」の「承認欲求」も正しくないということです。
でも、「暴走族」は法を犯していますが、Takeoさんは法を犯してはいません。
その点では「彼ら」「彼女ら」と何ら変わりはないはずです。
しかし、「彼ら」「彼女ら」にとっては、「自分の正しさ」こそが「法」に匹敵するほどの規準に成っているために、そこは飛ばしてしまうということでしょう。
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二つ目の「トリック」は、「自己愛」についてですが、「自己愛的な人」とか「自己愛性人格(障害)」と言う時の「自己愛」という言葉の意味についてのものです。
「自己愛的な人」とか「自己愛性人格(障害)」と言う時、その言葉を使っている人が、その言葉をしっかりと規定できていない場合が非常に多いと思います。
「自己愛的な人」とは「自己愛が大きい(強い)人」のことなのか?
それとも、「自己愛」の質の問題なのか?ということが認識されていないケースがあると思うわけです。
私は、「自己愛的な人」と言うのは、「自己愛が大きい(強い)人」ではないと思っています。
「自己愛」が大きいことにも強いことにも、それほど問題があるとは思えないので。
私が考えるところの「自己愛的な人」は、「自己優越的な人」や「自己優先的な人」で、その中でも特に、「排他的な人」であり「暴力的な人」のことです。
つまり、「自己の利益」を優先するためには「他者への暴力的行為や発言」をいとわない人のことを、私は「自己愛性人格」と考えています。
ここの部分に、Takeoさんの言動が重なるところが出てきてしまうんだと思います。
私は、Takeoさんが曲げられないのは「自己利益」ではなく「自己そのもの」つまり「自己の個人性」だと思っていますから、上の話とは違うものだと考えていますが、「彼ら」から見ると、それが同じように見えているんだと思います。
しかし、「個人性」と言うのは社会の中にあっては、常に「不利益的」な選択であって、「自己利益優先」とは逆の方向性をもっていますから、「自己愛的」であることと、「個人性の優先」を同じように考えてしまうことは、まったく理不尽であると考えています。
おそらく、これは「反社会的な視点」を持っていないと見えてこないことだと思います。
だから、「彼ら」社会的な性質が強い人たちには見えにくいとこに成っているということでしょう。
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続きがあるんですが、今、ちょっと、長い文章が辛いので、分けて書かせてもらおうと思います。
近日中に、続きを書きますので、よろしくお願いいたします。
こんばんは、ふたつさん。
削除まだ大学生くらいの頃、太宰治の「桜桃」という短編を読んでいて、中の一節に深く頷いた記憶があります。それはこういう言葉でした。
「私は議論をして、勝ったためしが無い。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。そうして私は沈黙する」
大学の頃ではなかったかもしれませんが、とにかくわたしは自分に自信のある人間というのが苦手で、確信の強さ、自己肯定のすさまじさを以て発言をする、話をする人間を少なからず見てきていましたので、「何故この人はこのように自分に対する揺るぎない自信が持てるのだろう」と、首をかしげていたところにこの言葉と出会ったような記憶があります。
ふたつさんは
>「自己愛」も「承認欲求」も、誰にでもあるものだと思っています。
と仰いますが、わたしはそれを否定する論拠も、また肯定する根拠も持っていないというのが本当のところです。いや、「誰かに認められたい」「褒められたい」という気持ちは確かにわたしの中にもあります。
だた、今もって「自己愛」というものが如何なるものであるのかがわかりません。「自己嫌悪」ならすんなりわかるし、自分の中にたっぷり持ってる者ですが、その対極にある「自己愛」というものがわかりません。「自己嫌悪的」な傾向を持つ人間が、その反対の性質である「自己愛的性格」について容易に理解できるわけがありませんよね。
>極端に「承認欲求が低い人」が居ると考えた場合、それはどういう人だろうか?と考えると、それはおそらく「自己愛的な人」ではないかと言うことです。
それはわかります。自分自身で充足していますからね。
>Takeoさんに「自己愛」や「承認欲求」という言葉を投げつけた人たち)は、どうも、「自己愛」が強いと「承認欲求」も強く成るという方程式を持っているようですが、
これはおかしな話だと思います。「自己愛的人間」は「自分に満足し、自己に充足している人間であるように思います」であるなら、その上に更に、他者からの「承認」等必要としないはずです。自分は全てを持っているのだから。そのような自己愛的人間が、更に他者からの承認欲求を持つとしたら、それはあたかも「屋上屋根を架す」ようなものではないでしょうか。
須らく「欲求」というものは「欠乏」から生じます。自己への確信強く、すさまじい自己肯定感を持つ者のどこに、どのような「欠乏」があるというのでしょう?
>「他者を尊重する人」こそ『自己も尊重して欲しい』と思うのが道理でしょう。
仰る通りだと思います。但し彼ら/彼女らが、なんらかの見返りを求めて「他者を尊重」しているわけではないということは、今更ふたつさんに向かって言うまでもないことでしょう。
◇
>一言で言って、「彼ら」「彼女ら」は自分の活動を『正しい』と考えているんだと思いますよ。
だから、自分の活動には『「承認」が与えられてしかるべき』と考え、Takeoさんの活動は『正しくない』から『「承認」を要求してはいけない』と考えているということでしょう。
このように真面目に分析すると、なんだか滑稽で笑っちゃいますね。
これは例のブログの連中にも共通して言えることですが、一体彼/彼女の拠って立つ「正当性」の根拠とは何でしょう。そして同時に、わたしが「誤っている」という確信の根拠は何でしょう?そこで「白と黒」を分かつものは一体なんで、何故常に彼ら/彼女たちのみが、それを知っているのでしょうか?
◇
わたしはふたつさんの話を読んでいて、「自己愛的な人」は満腹で充足した人であると思っていました。そしてその充足感が、自己肯定感を産み出すのだと。
けれども、ふたつさんの文章にある
>私が考えるところの「自己愛的な人」は、「自己優越的な人」や「自己優先的な人」で、その中でも特に、「排他的な人」であり「暴力的な人」のことです。
つまり、「自己の利益」を優先するためには「他者への暴力的行為や発言」をいとわない人のことを、私は「自己愛性人格」と考えています。
と言うことを聞くとますますわからなくなってしまいます。「自己愛」と「他者への攻撃性」がどのような経路で繋がっているのか。
>私は、Takeoさんが曲げられないのは「自己利益」ではなく「自己そのもの」つまり「自己の個人性」だと思っていますから、上の話とは違うものだと考えていますが、「彼ら」から見ると、それが同じように見えているんだと思います。
しかし、「個人性」と言うのは社会の中にあっては、常に「不利益的」な選択であって、「自己利益優先」とは逆の方向性をもっていますから、「自己愛的」であることと、「個人性の優先」を同じように考えてしまうことは、まったく理不尽であると考えています。
おそらく、これは「反社会的な視点」を持っていないと見えてこないことだと思います。
鋭いご指摘をありがとうございます。
◇
わたしは自分を「愛されざる者」であると考えています。そして「生誕の災厄」を母に負わせていると。そのような考えがどうすれば「自己愛」等に辿り着くことができるでしょう?しかしわたしもまたひとりの人間です。自分は愛されざる者、愛される資格の無い者という意識のみを胸に抱いて生きてゆくことができるでしょうか?誰かに肯定されたい、誰かに抱擁されたいと願うことは罪でしょうか?
彼女たちの言い分ではそういうことになるようですが・・・
つづき、気が向いた時にでも書いてください。
お身体お大事になさってください。
ありがとうございました。
追記
削除わたしは冒頭の太宰の言葉に立ち返ります。「確信の強さ、自己肯定のすさまじさ」
わたしにたいして攻撃的な人間は、否、およそ攻撃的な傾向を持った人間は、上記の言葉に当て嵌まります。それともうひとつは、必ず傍に同じ考えを持った人間がいるという点も付け加えておきます。
だとすればふたつさんの言われた、「自己愛的な人間の攻撃性」ということもなんとなくわかる気がします。
その攻撃性とは何か?それは「自分は正しい」ということを何が何でも相手に承認させなければ気が済まないという衝動ではないでしょうか?
そしてその自己の正当性の根拠は、唯一、「そのように考えている人がほとんどである」ということに尽きます。
ふたつさんに言われて改めて気づきましたが、わたしは「反・社会的な」位置から、強く自己主張をします。
それは或いは所謂「承認欲求」と呼ばれるものかもしれません。しかしそれの何が問題なのでしょう、何が悪いのでしょう?
1950年代だったか、60年代だったか、公民権運動が盛んたっだころ、ラングストン・ヒューズという黒人の詩人の書いた詩の一節に「僕を重んじよ!」という言葉がありました。
わたしがこのブログで主張していることとは、多少異なるかもしれませんが、わたしもまた「マイノリティー」です。わたしは運よくアメリカの黒人のように「差別」の対象ではありませんが、社会的な強者ではありません。
ホームレスや障害者、そしてこの社会でなんらかのハンディキャプを負う人たちが「私を重んじよ」ということは有意義なことではあっても、決して、嘲弄の対象にされるべきではありません。
>「個人性」と言うのは社会の中にあっては、常に「不利益的」な選択であって、「自己利益優先」とは逆の方向性をもっていますから、「自己愛的」であることと、「個人性の優先」を同じように考えてしまうことは、まったく理不尽であると考えています。
自分を棚に上げて言うのですが、マイノリティーの人たちは決して、自分を恥じることなく、もっともっと自分を愛してほしいと思います。
マイノリティーが、自分がマジョリティーであるという、ただその一点を自己の正当性の根拠にしている人たちのロジックに丸め込まれるということは為政者にとって非常に都合のいいことです。
もう「多数派正常の原則」からは抜け出しませんか。
ふたつさんの意見からいろいろと示唆を受けました。
こんにちは。
削除とりあえず、上のコメントの「つづき」は少し間をおいてから書こうと思っていますが、Takeoさんのコメントに対して、今考えられることを言っておこうと思います。
まず、「自己否定」「自己嫌悪」の強いTakeoさんが『「自己愛」を全く持たない人が居ない』と言う私の言葉に同意できないということは理解できます。
ただ、私が言った「自己愛を全く持たない人」と言うのは、かなりのところまで「自己愛」の意味を拡大した場合の話です。
つまり、「憎しみ」は「愛」と表裏一体の一つのものであるという意味を含めてのことです。
「憎しみ」と「愛」が表裏一体のものであるとすれば、「自己愛」と「自己嫌悪」もまた表裏をなすものであると言えるはずです。
もちろん、それを安易に同一視することは出来ませんし、「愛」と「憎しみ」は同じものであると言ってしまえば、「愛」という言葉も「憎しみ」という言葉も意味を失ってしまいますから、それを簡単に言うことには問題があるでしょう。
しかし、反面「愛」や「憎しみ」のような「感情」は、非常に理解し辛いものであり、理論の対象とすること自体に無理があると言えなくもないので、それをあえて語る場合には、かなりの所まで追い詰めた考え方が必要に成ると考えます。
そういう意味で、「愛」と「憎しみ」は表裏をなすものである、つまり「自己愛」と「自己嫌悪」も表裏一体であるという考え方を元にして、『「自己愛」を全く持たない人は居ない』と言いました。
ただし、「自己愛的な人」と言う場合においては、やはり「自己嫌悪的な人」を含めてしまうと意味が成り立たなく成ってしまいます。
ほとんどの人が「自己愛的な人」か「自己嫌悪的な人」のどちらかですから、それを同一視してしまうと意味がなく成ってしまいますからね。
ですから、私の個人的な意見といたしましては、Takeoさんは「自己愛的な人」ではないと思います。
つまり、Takeoさんは、表裏一体の「自己愛」と「自己嫌悪」の「裏側=自己嫌悪」の面だけで生き続けている人ですから、それを「自己愛的な人」ということは無意味でしょう。
「裏側=自己嫌悪」とは逆の面、つまり「表側=自己肯定」に偏っている人を、「自己愛的な人」と言うのでしょうし、その偏りが激しい人を「自己愛性人格(障害)」と言うのでしょうから、「裏側」に常に専属している、Takeoさんは「自己嫌悪性の人格」ではあるかもしれませんが、「自己愛性の人格」ではないと言っていいような気がします。
ただ、そこに、Takeoさんの「自己嫌悪」にも、その裏側と言う形での「自己愛」が存在して居るということがあるために、専門家ですら、その判断を誤ることはあるということだと思います。
そういう見方をしてしまうと、どうしてもTakeoさんの「強すぎる自己嫌悪」が、そのまま「強すぎる自己愛」に変換されて見えてくるということだと思います。
ただし、「自己愛」は「自己嫌悪」と表裏をなすものではあっても、同じものではありません。
「表」と「裏」であるということを重視していくと、Takeoさんが「自己愛性の人格」ではないということがハッキリと見えてくるんじゃないかと思います。
それは、「うつ状態」の人を「明るい人」とか「前向きな人」と言っているのと同じで、かなり無理があることなんじゃないかと思います。
「うつ状態」の人にも「明るさ」や「前向き」と言った感情が無いわけではなく、それもまた表裏をなす形で存在しているはずですが、その「裏側」しか見えなく成っていることが「うつ状態」なわけですから、その人に見えなくなっている「表側」を、専門家の知識の中だけで「表側」が存在しているはずだという理論上の「明るさ」や「前向き」を、その人の状態として当てはめて考えることにはほとんど意味がありませんね。
よく学校で「いじめ」があって、自殺者が出たりすると学校側から『いじめは存在しなかった』と言うコメントが出されることがありますが、それと同じようなパターンですね。
かたや、存在して居る「いじめ」を『確認していない』と言う理由で『存在して居ない』と言い、かたや存在して居ても全く機能していない状態の「明るさ」や「前向き」を『存在して居る』と言う理由だけで、あたかもそれが『機能している』ように言っています。
しかし、その「機能していないこと」自体が問題なのですから、意味がありません。
そして、その「裏側」と「表側」を行き来することが出来れば、おそらくTakeoさんはもう少しだけ生きていることに喜びのような感情を感じられるように成るのかも知れません。
ただ、そこから先は、私に言えることではありませんから、もしも、その考えに意味を感じたのであれば、Takeoさん自身の中で考えを深めてください。
続く・・・・
・・・・続き
削除~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
あと、もう一点、Takeoさんの返信の中の
>私が考えるところの「自己愛的な人」は、「自己優越的な人」や「自己優先的な人」で、その中でも特に、「排他的な人」であり「暴力的な人」のことです。
つまり、「自己の利益」を優先するためには「他者への暴力的行為や発言」をいとわない人のことを、私は「自己愛性人格」と考えています。
と言うことを聞くとますますわからなくなってしまいます。「自己愛」と「他者への攻撃性」がどのような経路で繋がっているのか。
と言う部分についてです。
つまり、Takeoさんが引用されている太宰治さんの言葉にある「確信の強さ、自己肯定のすさまじさ」です。
これこそが、「自己愛」と「攻撃性」を結びつける要素だと思います。
そして、ここにも「表裏一体を成すもの」があると私は考えます。
つまり、「自己肯定感」と「自己否定感=コンプレックス」です。
JUNKOさんがたびたび言われるところの「彼ら」「彼女ら」の「コンプレックス」ですね。
「コンプレックス」は、「自己否定感」なはずなんですが、「彼ら」「彼女ら」の場合は、その「自己否定感」の「表側」に非常に強い「自己肯定感」を持っているために、その「裏側」にある「自己否定感=コンプレックス」が見えなく成っています。
と言うよりも、その「コンプレックス」を隠すために「強力な肯定要素」を持ち出してくると言った方がいいのかも知れません。
「彼ら」「彼女ら」が、ほぼ必ずと言っていいほど、「学歴」や「実績」や「蘊蓄」や「世間的な評価」などを掲げて「自己の社会的位置」を顕示しているのは、それらが、まさに、その「強力な肯定要素」と成り得るからです。
ブログの「彼」については、その辺が、もう少し巧妙に細工されていて、「東大出のデワデワおじさん(別名茶坊主さん)」が居ることで、「彼」自身が「学歴」や「学問」をご披露しなくても、自動的に「彼」もまた、そこそこの学問を収めた人なんだろうというイメージを作り出しているんですね。
例えば、「彼」が
『〇〇は罪であり罰である』
と言うと、
「デワデワさん」が
『さすがチンさん』
などと言う。
そして、その返礼として、「彼」が
『「デワデワさん」は東大の哲学科の出なわけですよ♪』
と言うお返しをする。
その結果、「デワデワさん」が
『いやぁ、私はそんなこと知られたくなかったんだけどぉ~、私が東大出だって言うことなぜかみんな知ってるんだよねぇ~、困るんでわぁ~』
と言うコントの台詞のようなことを言っても、何となく許されてしまうという「落とし話」が成り立っているというわけです。
つまり、これで、二人とも揃って「強力な肯定要素」を手に入れることが出来ているわけです。
一種の共犯関係ですね。
こういう「お定まりのパターン」が出来上がっていますから、「彼」のブログを読んだ人たちが、けっこう乗せられてしまうわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、話がそれましたので、元に戻します。
「自己肯定感」と「自己否定感」が表裏一体のものであるということによって、その「表側」によって「裏側」を隠すということが起きて来るわけですが、その時に「自己肯定」が「すさまじい自己肯定」に成ることが多いと私は思っています。
そして、一旦「すさまじい自己肯定」に成った後は、どんどん膨れ上がって行きますから、初めの段階では「満腹」であった「承認欲求」も、より貪欲な「飢餓感」を感じるように成り、結果的には、「攻撃性」や「暴力性」を帯びるように成っていきます。
そして、さらに、「暴力の味」を覚えた「彼ら」の「承認欲求」は、ますます貪欲に成っていき、さらなる「残虐性」にまで到達するケースも稀ではないと思います。
これは、「差別」はもちろんのこと「虐待」や「いじめ」や「ハラスメント」と言った「弱い者いじめ」の類のものが、悪循環に陥っていくときのほぼ例外のないパターンだと思います。
だから、「虐待」や「いじめ」の報道などを見ると『ごく普通の人が、なんでここまで酷いことをするんだ?』と思うことが多いですが、それは最後の最も悲惨な状況だけが報道されれるからで、ほとんどの場合は、初めのうちは『ちょっとからかってやろう』と言うような軽い気持ちで始めるんだと思います。
それが、このようなパターンにはまって行って最後に悲惨な結果を招くということでしょうね。
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最後に、
『自分を棚に上げて言うのですが、マイノリティーの人たちは決して、自分を恥じることなく、もっともっと自分を愛してほしいと思います。』
『もう「多数派正常の原則」からは抜け出しませんか。』
もちろん、二つとも賛成です。
特に、上の方は強くそう思います。
これは、「自己愛」や「自己肯定」ではありません。
私は、これを「同胞愛」だと思っています。
「同胞」と言うのは「同じ者」ではなく、「近しい者」です。
特に、その中でも「弱い者同士の間の近しい者」には「同胞」という言葉がぴったりと来るように思います。
アメリカの黒人同士が「ブラザー」と呼び合うことがるでしょう?
あれが「同胞」です。
自分たちを差別する者に対して、身を寄せ合って「ブラザー」と呼び合うことで、生きていく場所を作っているんです。
「近しい」と言うのは、考え方が違っても、多少嫌いな奴であっても、「差別される者としての黒人同士であること」において、「同胞意識」を持つことが可能に成るという意味です。
前に、アメリカで活動しているブラック・ミュージックの日本人バンドマンが、『チタリン・サーキット(アメリカ南部を回るコンサート・ツアー)のメンバーはみんな、下品で、無教養で、成金趣味だけど、仲間には優しい』と言うようなことを言っていました。
私は、この日本と言う国の中にも、そういう「マイノリティの居場所」があればいいなぁと思っています。
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続きは、改めて書こうと思っています。
それでは。
こんばんは、ふたつさん。
削除今日は午後1時から6時過ぎまでずっと、御茶ノ水の眼科で、検査や診察、そして手術の説明・手続きなどに時間を取られて、ラッシュ・アワーの中、何とか母と帰ってきました。
行きの電車の中で、母が新聞に載っていた記事を紹介してくれました。母もこのところわたしの付き添い、食事の世話、それに実家での2人の世話と忙しく、ゆっくり新聞を読んでいる時間もあるようなないようなな感じですので、教えてくれた記事の内容も、必ずしも正確ではないかもしれませんが、中学校でいじめられていた、まだ十代の女の子 ── わたしは「女の子」という時に一体いくつまでをそう呼べるのか、いつも迷います。「二十歳の女の子」って変ですよね。「二十歳の女性」が本来だと思います。── とにかくまだ十代の女性が、いじめた相手を提訴して、ついに東京高裁で勝訴したというニュースでした。一審判決では損害賠償も僅か数万円だったのが、高裁では五十万とか。母は、「理解のある良心だったんでしょう、それに、いい弁護士にも恵まれた。」
こういう闘志が勝利するということを聞くのは、我がことのようにうれしいことです。
そうそう、母は、「裁判官にも恵まれたんだね」と言っていました。だって、自分の娘に性的暴行を加えても、無罪判決を出すような裁判官のいる国です。(続報は知りませんが、無罪のままでいられるはずはないと思っています)
◇
ふたつさん、
>つまり、「憎しみ」は「愛」と表裏一体の一つのものであるという意味を含めてのことです。
「憎しみ」と「愛」が表裏一体のものであるとすれば、「自己愛」と「自己嫌悪」もまた表裏をなすものであると言えるはずです。
愛と憎しみが表裏一体のものであるとは例えば具体的にはどういうことでしょうか?
いじめられたことが忘れられず、裁判に持ち込んでまで、勝利を勝ち取った女性が、自分をいじめた者に抱く感情は激しい「憎しみ」ではないでしょうか、父親に暴行された少女の心の中にあったのも、やはり「深い憎しみ」ではないでしょうか?
「憎しみと愛は表裏一体」という命題は、わたしにとっては解き難いパズルか数式のようです。
何故「愛情」と「憎しみ」が裏と表の関係になるのでしょうか?それは言い方を換えると、人は誰か(複数でも)を生涯憎み続けることはできないと言っているように聞こえてしまうのです。
つまり純粋な「憎しみ」。100%憎しみだけの憎しみは存在しないかのように聞こえてしまうのです。
ひとりの人間が、誰かを愛し、同じ人間が殺したいほど誰かを憎むということはあるでしょう。けれども、それは、彼/彼女が、愛情も憎しみも持つ人間であることは意味しても、愛情と憎しみが表裏一体ということとは別ではないかと思います。
◇二伸について◇
反論めいた発言ばかりで申し訳ありませんが、ふたつさんも、JUnkoさんも、彼らとそれほどやり取りはしていないと思います。わたしもそうです。
ただ、わたしが直感的に感じるのは、「彼ら」「彼女ら」に「コンプレックス」らしきものを感じたことは一度としてないということです。
>自己否定感」の「表側」に非常に強い「自己肯定感」を持っているために、その「裏側」にある「自己否定感=コンプレックス」が見えなく成っています。
率直なところを述べれば、彼らにはコンプレックス(ここでは劣等感という意味で使われていると思いますが)はないと思います。
飽くまで個人的な印象ですが「彼ら」の文章を読んでいて、
>その「コンプレックス」を隠すために「強力な肯定要素」を持ち出してくると言った方がいいのかも知れません。
「彼ら」「彼女ら」が、ほぼ必ずと言っていいほど、「学歴」や「実績」や「蘊蓄」や「世間的な評価」などを掲げて「自己の社会的位置」を顕示しているのは、それらが、まさに、その「強力な肯定要素」と成り得るからです。
反論ではなく現実に、このような場面を見たことがわたしはありません。特に「学歴」や「実績」「世間的な評価」等を自慢している彼らをわたしは知りません。東大出にしても、学歴を自慢している場面を見たことがありません。
どうやらふたつさんとわたしの彼らの見方見え方は違うようです。
それでは上にふたつさんが挙げた「自己肯定の根拠」となるものは何かというと、それは「学歴」でも「社会的な肩書」でも「実績」でもない。彼らの持つ万能感=「その確信の強さ、自己肯定のすさまじさ」です。それがある限り、その自己肯定感を補強するものなど必要がないのです。
>一旦「すさまじい自己肯定」に成った後は、どんどん膨れ上がって行きますから、初めの段階では「満腹」であった「承認欲求」も、より貪欲な「飢餓感」を感じるように成り、結果的には、「攻撃性」や「暴力性」を帯びるように成っていきます。
そして、さらに、「暴力の味」を覚えた「彼ら」の「承認欲求」は、ますます貪欲に成っていき、さらなる「残虐性」にまで到達するケースも稀ではないと思います。
ここも難しい判断です。果たして例の男女2人に「承認欲求」などあるのかというのがわたしの気持ちです。確かに2人は激しい攻撃性を持っています、けれどもそれは承認欲求に因るものではないような気がするのです。何故なら認めて欲しいという感情はもっと切実で切迫したもののはずです。
わたしは彼、彼女は、そういう次元の存在ではないような気がしてならないのです。
ふたつさんとわたしの彼らへの視点の違いは結局「その確信の強さ、自己肯定のすさまじさ」とうフレーズに込められた重さの差ではないかと思います。
ふたつさんにはまだそのような人間たちを冷静に分析する余裕があるように見えます。
しかしわたしにとって「その確信の強さ、自己肯定のすさまじさ」というように描写される人間たちほど苦々しく、自分とはまったく無縁な存在としか思えないのです。
ですからわたしが、彼らには劣等感は存在しないと感じるのもわたしにとってはごく自然なことなのです。わたしが最も嫌うのは、自分は無謬だと信じて疑うことのない人間、自己懐疑の欠如した人間たちです。そしてその万能感の裏に差別の芽が隠されているということも本人は充分に承知しているでしょう。
彼らは知っています、生きていていていい生と、生きていてはいけない生があり、それについて仲間内で何を言っても許されるのだということを。
何故なら自分たちは少なくとも「生きていてはいけない」人たちと全く似ていないから、と。
Ciao Takeo さん
返信削除そしてふたつさんこんにちわ、
こちらこそお久しぶりです。
うーむ、私のようなぶっちゃけた人間からすると、自己愛でも承認要求でもなんでもいいじゃあないか、と思ってしまいます。大体、ふたつさんもおっしゃってる通り、この二つの性癖は誰もが、高い低いに関わらず、もれなく内蔵している一種の欲求だと思いますし、その高い低いはもちろんのこと、こう言った繊細かつ微妙なものを一個の単語で括ろうとする事自体に無理があるのではないかと私は考えます。
要するに
私たちは皆、どんな意見であろうと、どんな立場にあろうと、どんな生き方をしていようと、誰に「いちゃもん」をつけられることなく、自分の考えを持ち、それを表す権利をそれぞれ有する、例えそれが1億人の人たちが共通に持つ意見と異なっていたとしても、各々の意見や考え方は、一個の個人の考えとして尊重され発言される権利を有していると、そして他者は、彼らが同意するしないは別として、それに慎んで耳を傾けるその義務があると私は思っています。
欧米では、話をしていて、「僕は君とは考えが違うんだけど」というと、途端に相手は目を輝かせて、「へえ、是非聞かせてくれよ」と言うらしい。
全くその通りですよ
一人一人の意見とか思考と言うものが、どんなものであろうが、それぞれきちんと市民権を持っていますから、誰もが自分の思うことを言い、誰もがそれに耳を傾ける、のが、ごく当たり前なことだと認識されていますし、そして複数の人間が集まって、それぞれの意見が皆同じである。なんて「不思議なこと」は誰も期待していません。苦笑
それが故意に相手を侮蔑したり傷つけると言う目的でない限りは、皆、神妙に耳を傾けます。
それこそが、最低限の「大人」としての姿勢じゃあないかと私は認識しています。
それで熱い討論に発展することもありますが、それを口喧嘩とみなして眉をひそめたり、後々まで根に持つ人もこちらでは極端に少ないですね
日本の人は、嘘臭くてもただ耳に心地よい、私なんかからすると耳の後ろがザワっとしそうな真っ赤な嘘、の姿を纏った社交辞令(例えば、上でふたつさんが引用している東大出の方とのコメントのやり取りなんかまさにそれ 苦笑) に慣れていますから、ちょっと耳に異なる響きを持つ言葉を聞くとそれだけでただ自分を否定された、攻撃されたと思ってしまうようですね。
面白いですよね。
私はただの社交辞令で褒められても全然嬉しくないけれど、、。
で、そんなわけで相手の耳に痛かろうが痛くなかろうが、自分の考えを平気で口にする私は、日本で何人かの人と絶縁する羽目になりました。
だから私のような「口から先に産まれた」人間には、こちらの「自由になんでもワイワイ言い合う」環境はすこぶる暮らしやすいのです。
自分の口を塞ぐ事を強いられることこそ、我慢できないものはありませんから。
そして
日本では、誰かが話している時にそこに割って入るのは非常識とされていますが、こちらでそれをやったら一晩中口を開かないで終わる羽目になります。苦笑
だから皆がわいわい、割り込みあって話すのです。
当然、「私の話をまずは聞け」と言う怒号も混じったりはしますがね。笑
日本の人たちを見ていると、一体彼らは自信があるのかないのかわからなくなります。
皆、それぞれのいわば「標準的な」自分の暮らしぶりに大方満足していて、むしろそのスタンダードから外れる人たちを平気で上から目線で扱ったかと思うと、自分自身が思っている思考のその一端さえ表現する事を憚り、周りの空気を読みながら自分を殺してひっそりと周りに合わす。
もしくは自分の意見に対して万が一反論が出た場合、自分が理解できない、彼らからすると「スタンダード」に属さない思考やら存在に出くわした場合、彼らは過度に強気で傲慢に反応し、それらを抹殺しようとする傾向があるように思います。
つまり、前者は出る釘は打たれ、、ないようにしているのであり、後者は器が小さく、経験値も好奇心も低い。という事なのではないかと思います。
新しい傷でも古傷でも自分の内面の触れたくないところに触れないように、自分の感じたことさえ考えないように暮らしている人が多いからか、一旦争論に発展するとたくさんの人が正気を失う。
まあ、軽く括ってしまうと幼稚なんでしょうね。
日本人の人たちって、互いに自由に正直なところを話し合う、そういう語らいを楽しむ。という事に慣れていないのですね。
そしてそれ以前に、自分の意識を自分自身で探り、把握してそれを明確に言葉にすることに慣れていない人が多いですから、何か言えと言っても語る言葉が見つからないのかもしれません。
だからいつまで経っても目に見えない感情だとか感覚を言葉にすることが上手くならないんですよね。
言葉は使わないと豊かになりませんし、そして錆びます。
続く)
続き)
返信削除私は自己愛が強いのか、(苦笑) 他人の意見は気になりません。
そして最近では所詮こいつにはわからないだろう、と、予め感じる人たちに説明をしなくなりました。
話せば話すほど相手を混乱させ、挙句の果てには誤解を生じるという事がわかったからです。そう言う人々にお2人の言葉を借りれば、承認などしてもらう必要はない。
Takeoさんにまとわりついている人々のことを私はこうしてあらゆる精神学的用語を使って理解しようとは思いません。
理解したところで、何も得る事はない、、、でしょ?!
なんか臭う、臭い臭いと思ってよーく見たらただのウンチだった。って事でしょうから。ははは
何度も言いますが、彼らはただの満たされていない、自分のコンプレックスをひたすら隠して、自分が弱者だと見做した者や動物たちを相手に自分の力を誇示し、それで強いと思いこみたがっている「ただの」卑怯者で臆病者だからです。
私は時々、彼らがこそこそともしくは生き生きとTakeo さんのブログでのつつきどころを探り出し、それを互いに揶揄しようと例の方のブログにコメント打ち込んでいる姿を想像します。そして、かわいそうな人々だなぁとむしろ彼らのことを哀れに思います。
世の中には楽しいことがたくさんあると言うのに、誰か、それもすでに充分に困難を抱えている人にさらなる嫌がらせをして喜んでいる。
一体どれだけ根性ひん曲がっていたら、そういうことができるのかと人間性疑います。
そんな事をして、貶めているのは誰よりも自分自身であり、彼らの中にも微かにいるであろう良心は、相当恥ずかしがっていると言うのに、、。
愚かです。
話は少しずれますが、この社会で私が気をつけているのは、エネルギーバンパイアと呼ばれる人たちで、彼ら、彼女たちは、あらゆる手段で他者からエネルギーを吸い取ります。
その彼らの手管の一つが嫌がらせをする。と言う事
いくら無意識にやっている人が多いとは言え、他者からでもエネルギーを吸ってやろうなどと考える人が魅力的なわけはなく、普通に接していては、彼らのような人たちが外部からの必要以上の興味を得る事はできません。
そこで一番手っ取り早いのが、いじめです。
嫌がらせをして相手の気をこちらに引きつけ、エネルギーを吸います。
彼らがTakeo さんへの嫌がらせをやめられないのは、そのせいもあるのではないかと思います。
日常でもごろごろいますよ、そう言う人たち
そういう人に出会うと、(すぐわかります) 私は即座に距離を置き、関係を断ちます。
Takeo さんも、相手がTakeo さんがブログを閲覧する事を阻止しているのであれば、この際彼らとのコンタクトを完全に断ち切り、彼らの存在自体をなかったもののように、無視すればどうかと思います。
takeoさんが嫌がれば嫌がるほど、怒れば怒るほど、反応すればするほど彼らは嬉々としてエネルギーを取り入れます。
多分、Takeo さんに完全に関係を断ち切られ、相手にされなくなって一番ショックを受けるのは彼らだと思います。
愛の正反対に位置する感情は憎しみではなく、無視、無関心です。
最後に、
前回のコメントの後、補足しようと思いましたが、私の「休んでください。」は、ブログを休むではなく、Takeoさんの鋭すぎるアンテナを少しオフにできないかな?もしくはアンテナの感度を少し下げられないかな?と言う意味の休み。でした。
このあらゆる意味で煩くおぞましい社会は、私たちの正常な感性というアンテナの感度を少し落とさないと生きていけないと私は感じています。
私も昔に比べてずいぶん調整するようになりました。
今日もこちらはいいお天気ですよ
いつものように鳥がちゅんちゅん鳴いていて、ハエが1匹家の中を羽音煩く飛んでいます。
Takeo さんとお母様に少しでも平安な時間が訪れますようにと祈ります。
追記) 確かに日本には哲学が足りません。