2021年5月18日

マザー ナース ゴッド

 
1977年に出版された矢川澄子のエッセイ集『静かな終末』の中に「ナース」に関する文章がある。
「ナース」即ち看護婦である。
「今は『看護婦』なんて言わないの、全て『看護師』!」そんな嘲笑(わらい)が聴こえてくるようだが、わたしはナースは看護婦さん、と教わった時代の人間なので、それで通させていただく。

わたしは精神障害者だが、「障がい者」や「障碍者」などとは書かれたくはない。
現にそのように「ショウガイシャ」の表記を改めたところで、世の中の障害者に対する差別・偏見は少しも減ってはいないどころか、寧ろ、野放図の感を呈しているようにすら感じてしまう。これもまた人にいわせれば「障がい者特有の被害妄想」ということで片付けられてしまうのかもしれないが。


矢川氏はこの一文で、様々な視点から「ナース」について考察しているので、どこを引用すべきか悩むところだ。

例えば

「ナーチュア」Nurture という養育を意味することばがあり、氏育ちという時の氏はネイチュア、つまり自然で、育ちの方がナーチュアとされる。このナーチュアはしかし同時に滋養分としてのたべものそのものをもさすのである。

*

滋養などということばもいまではいいかげん古びてしまったらしい。けれどもじつはこの滋養とか慈母とかいうときのないしにあたるものが、ナースというときのニュアンスを伝えるのにいちばんふさわしいように思われる。
さながら母の如く、といってもここが肝心なところで、ことわっておくがナースとはけして母そのものではない。あくまでも母代わりなのだ。養いはぐくむことと母であることとははっきり別物である。
 (略)
ナースとはいつくしみであり、救いである。それなしでは人間が生きつづけられぬものの謂である。乳なしでは生きられぬみどりごにはじまって、老人、子供、病者、弱者、ひいては人生の敗残者、落伍者、故郷喪失者など、あらゆる孤独な魂がひとしなみに求めているもの。それは母(マザー)でも神(ゴッド)でもない、わたしにいわせればそれこそナースなのだ。
ナースには鬼子母神のおぞましさも、多産な牝のふてぶてしさもない。ただひたすら甘美にこまやかに、傷手を癒し、飢えや渇きをみたしてくれる機能があるばかりである。生きることに何らかの難儀を感じている人間がさいごにあてにすることのできる、いわばやさしさの代名詞みたいなもの、それがナースであり、ナースさえ行き届いていればたいていの問題は解決されるといっても過言ではない。

*

エロスといい、アガペーという。
むずかしいことはよくわからないが、大ざっぱにいって肉の愛を意味するエロスに対し、アガペーはふつう聖愛などと訳されている。肉の絆の束縛からはあくまでも別個のところに成立する友愛、同志愛などで、ほとんど神の愛にもなぞらえられるものだ。
素人考えで突拍子もないことを持ち出すが、日本人にはともすれば親しみにくいとされるこのアガペーなるものを、西欧のひとびとに思いつかせたのは、ひょっとしてこのナースという観念のなせるわざではあるまいか、というのがこの頃のわたしのおぼろげな直観なのだ。
マザーとナースの微妙なニュアンスのずれが、そのままエロスとアガペーの区別にもなぞらえられる気がする。
ばあや、ねえや、乳など、日本語ではこのナースにあたる役割がおおむね血縁関係からの類推ですませられてきたということも考えるに値しよう。
 (略)
これはやはりしあわせな島国の、閉鎖的な農耕社会の家族制度のなごりでもあろうか。養老院に行くよりは疎まれてもやはり家族と一緒の方が、といった発想も、ナースに対する信頼の情の歴史的欠如にもとづいているような気がしてならない。

(引用文中太字は本書では傍点、下線は引用者による)


この文中で、矢川氏は、「ナースとはけして母そのものではない。あくまでも母代わりなのだ。養いはぐくむことと母であることとははっきり別物である。」と書いている。
山本有三は『真実一路』の中で

「母になることは簡単だ、けれども、母であることは易しいことではない」

と言っている。


わたしにとって、
「それなしでは生きつづけられぬもの(者)」とは即ち母である。
先にも書いたようにわたしは「他者と良好な関係を築くことができない」人間である。
そして、ナース=「看護婦」もまた「他者」に他ならない。
わたしにとって、母はまさに、「それなしでは生き続けることができない存在」であり、わたしを「養いはぐくむこと」のできるただひとりの人である。

「生きることに何らかの難儀を感じている人間がさいごにあてにすることのできる、いわばやさしさの代名詞みたいなもの、それがナースであり、ナースさえ行き届いていればたいていの問題は解決されるといっても過言ではない。」

嘗て上に引用したような形で、わたしに「やさしさ」を惜しみなく与えてくれた人が母以外にひとりでもいただろうか?わたしが救いを求める手を差し伸べた時に、誰かがその手をしっかりと握ってくれただろうか。

上の文章の「ナース」を「神」に置き換えれば、それも可能かもしれない。けれども、ナースはいうまでもなく「神」でもなければ「天使」でもない。生身の人間である。
「日本人のナースに対する歴史的な信頼感の欠如」も致し方のないことだと思う。
矢川氏はナースを存在論として語っているのであって、職業としての看護婦・看護師について言及しているわけではない。
職業としてのナースはいても、存在としてのナースが、宗教と、就中哲学の欠如した国に育つことは難しいように思われる。それは障害者としてのわたしが、市役所の「障害者支援課の保健師」や都の「精神保健福祉センターの精神保健福祉士」そして「保健所の精神担当の保健師」と話をしていて、こちらの訴えが全く理解されていないと屡々感じることとも通じていると思うのだ。


以上、まとまりのない文章になってしまったが、

「生きることに何らかの難儀を感じている人間がさいごにあてにすることのできる者」

わたしにとってそれは福祉関係者でも障害者支援者(団体)でも、そして「ナース」でもなく、地球上に母ただ一人である。

母が死ねばわたしも死ぬ。なぜなら「母とはいつくしみであり、救いである。それなしでは人間が生きつづけられぬものの謂」であるのだから。



ー追記ー

「存在としてのナース」とはいっても、報酬をもらっている以上は「存在としてのナース」もまた「職業としてのナース」と同一である。
真の愛情、まことのいつくしみとは無償のものであるべきであるというのが、個人的な思いである。

更に付け加えるなら、ナースの勤めは苦しみを癒すことである。けれども、癒すことと、生かすこととは決して同義ではない。どころか、時として、「癒す」と「生かす」とはアントニム(対義語)かもしれないのだ。




 








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