母がせわしない中、斜めよみした記事なので、不正確なところもあると思うが、およそそんな内容であった。
彼女は世に知らしめたのだ、「どのようなかたちであれ人を傷つけることは許されないことだ」ということを。このような判決を下した裁判長も立派である。
彼女の勇気に惜しみない拍手を送りたい。
◇
現時点から過去24時間にqinggengcai.blog.fc2.com からの閲覧は17回。
無論こちらからのアクセスはできない。
先方が「本当にもうおれたちに関わってくれるな!」という意味で、わたしをブロックする分には一向に構わない。嫌われて遠ざけられるのは寧ろ歓迎したいくらいだ。ところが、彼らは相変わらず、こちらに日に十回前後訪れている。これはいったい何を意味しているのか。
「あいつの御託を聞いているとイライラする」というのなら来なければいいだけの話だ。
「虫唾が走る」「イラつく」「殴ってやりたくなる」「どうしてここまで頭がいかれているのか不気味である。」「とにかく嫌い!」....etc...というのではないらしい、だからこそ相変わらずこのブログに日参しているのだろう。
わたしは彼らに「いわれのない侮辱を浴びせられた」とは一言も言ってはいない。
いずれ「いわれ」があるのであろうからそれを聞かせて欲しいと頼んでいる。
しかしそれは法廷でも難しいらしい。
あちらだけがわたしのブログを閲覧でき、こちらからは見ることができないとなると、どうしても、「例によって」陰でコソコソひそひそという想像に飛躍する。
嘗てふたつさんは、彼らのわたしに対する執着は異常と言った。然り。
このような形でブログを「覗き見られて」嫌な気分にならない方がおかしい。
嘗て坪内祐三は言った、「SNSはこれからも絶対にしないでしょうね。SNSってなんだか暗闇に紛れて、他人の生活を覗き見ているような後ろめたさがあります」『スパ』2010年3月23日号での福田和也との対談」より。
◇
迷っている、彼らは、少女をいじめた子供に比べて、法廷に引き合う存在なのか、と。
本気で戦う価値のある相手なのか、と。
昨夜、ネット上を彷徨っていたら、どこかのブログランキングが目に入った。そこに例のブログもあり、彼のブログの人気は群を撫いていた。人気の点で言えば、わたしのブログが野良猫なら、彼のは巨きなゾウくらいの差がある。それを見て瞬時にやはりなと思った。
これも母が新聞で読んで紹介してくれた記事だが、それはある読者の投書であった。その投書をした女性は、連れ合いが亡くなり、彼の蔵書を処分しようと、古書店に電話をした。実際に見に来たのか、ざっと書名を読み上げただけなのかは分からないが、結局古書店は亡くなった夫の蔵書を買い取ってはくれなかった。彼女は、こういう本は今は読まれないのかと愕然としたという。
何故件のブログに人気があるのかがわかるだろう。
或る人がSNSの要諦を、「迎合性と相互依存性」と言った。
彼らのブログが正に相互依存性の見本である。
わたしは下のコメント欄で、ふたつさんの意見と視点が異なる旨を伝えたが、件のブログに於いて、AとBとCとDがそれぞれ意見をいう上で、仲間の肯定と承認を求めていることは確かなようだ。
下で、ふたつさんのコメントに、「彼らに承認欲求など無いように思う」と言ったことは、ここで訂正する。ひょっとしたら、彼らのそれはわたしの認めて欲しいという感情よりも、皮相ではあるが、より根深いのかもしれない。
ブログというものが、もし、若旦那と太鼓持ちの関係と相似形であるとすれば、一体個人の意見は何処にある?
いずれにしても、向こうは見られる、こちらは見られないという不均衡について、近いうちに弁護士の事務所に相談にいくつもりだ。
しかし、わたしがいくら鈍いとはいえ、あそこに集う者たちの本質的な魯鈍性を、その空虚を見抜けないようではまだまだ・・・
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