現代アメリカのフェミニストであり、哲学者でもあるジュディス・バトラーは、「生は特権化された人々の権利に過ぎない」とまで言っている。
このジュディスの言葉も同じく『コロナ時代のパンセ』ー 辺見庸の中で見つけたものだ。
この本は現在予約が6人入っているが、もっともっと読まれていい。辺見は1944年生まれで、今年76歳になるが、今の若者にこそ読んでほしい。
ところでわたしは、ジュディス・バトラーのように「生は特権化された人々の権利に過ぎない」とは思わない。何故なら何度も書いているように、わたしは、「生」というものを格別素晴らしいものであるとは考えていないからだ。
太宰治は「生まれてきたのが運の尽き」といい、エミール・シオランは、『生誕の災厄』(生まれてきたということの不都合について)というタイトルの本を著している。
わたしは自分が極めて特異な存在であることによって、或いは様々な障害を持つことによって、常に孤立し、疎外されて来た。それがわたしの「生」であった。それゆえどうしても、「生が特権階級のもつ権利」などとは思えない。
無論ジュディスは「生一般」についてではなく、人間が生きてゆく上での諸権利について語っていることはわかる。例えば日本国憲法第25条を例にとれば「全て国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と言うとき、では現実に日本国民及び(国籍を問わず、現在日本国という国土内にいるすべての人間)が「健康で文化的な生活」を、「平和で安全な人間らしい生」をだれでもが享受しているのか?ということに対する全き「NO!」であることは明らかである。
しかし、そのような視点からしても、カミュのいうように「にんげんは誰もが「不条理」と双子として生まれてきた」という言葉が思い出される。
われわれ人間の生来の愚かさが、その賢明さをはるかに上回っているということは、歴史が証明しているのではないか。
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ジュディス・バトラーのいう「生」とは「人間が人間らしく生きていること(生きることが出来ること)の謂いである。
2021年2月、2013年から実施された、「生活保護費の引き下げは不当である」とする原告の主張が大阪地裁で認められた。原告は全国の生活保護受給者約千人、一審の名古屋判決ではこの訴えは斥けられ、二審の大阪地裁で、「生活保護費の引き下げは違憲である」という判決が下された。けれども、この原告勝訴を受け、直ちに大阪府内の全ての自治体が判決を不満とし控訴した。更に次に行われた札幌地裁の判決でも、「大阪地裁の判決は不法判決」であると、再度原告側の訴えを斥けた。
おりふれ通信 2021年4月号
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ジュディス・バトラーとわたしとの大きな相違は、わたしは人間というものに何の期待も持っておらず(持てず)、ジュディスはおそらく、フェミニストという人権活動家であることもあって、よりよい社会を作り上げるために思索し、また活動を続けるだろう。
仮に何とかあと10年、辛うじて戦争から免れたとしても、わたしは管理・監視社会の中ではとても生きてはいけない。
「落魄を詩とは見做さない世界」とは、即ち「美」の存在しない世界である。
こんにち誰もがスマートフォンを手にしている。相互監視のための携帯用の監視カメラのように。
そしてホームで飛び込みがあれば、呆然としたり、顔を引きつらせたり、蒼くなったりする代わりに、何人かの人たちが、その様子を「動画」に撮影するのだろう。わたしを心底戦慄せしめるのは、線路上の轢死体を覆うシートではなく、ひとの死の瞬間にファインダーをかざすという信じがたい心性である。皆が皆そうではなくとも、そのようなことが可能な機器が存在し、そのような光景を撮影する人間がたとえ僅かであっても存在する世界というだけで、わたしは脱落する。
それは最早、ゼニ・カネ(労働条件や報酬)の問題ではなく、健康で文化的な生活の保証以前の問題として、わたしの「生」を困難にしている。
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