2021年5月15日

いま 思うこと

ふたつさん、Junkoさん、コメント欄一枠あたり原稿用紙10枚分にも亙るご意見を複数回頂き、ありがとうございました。 「自己愛」及び「承認欲求」についての議論はひとまずここで打ち切りたいと思います。おふたりがそれぞれに仰っていましたが、人間というこの不可解な生き物の脳や心の働きを、「自己愛」であるとか「承認欲求」という一語を以て裁いて=捌いてしまうことに昔から抵抗がありました。人間の心は重層的なものであり、各々の人間の「微妙な機微」というものを心理学で測定できるとは到底考えられないのです。

わたしは現在「例のブログ」を閲覧することができない。しかしそれはよく考えれば、悪いことではないのかもしれません。一時は以前にも話したことのある、わたしのコンピューター及びAV機器全般のアドバイザーのような友人に、何とかして「あのブログ」を見ることができないものだろうか?と訊いてみようかと思いました。けれども、変な言い方ですが、わたしの内側で彼の声がしたのです。

「なんでそんなにまでして見たいの?」

「・・・・」

「向こうはキミのことをよく言ってないんだろ、なら尚更どうしてそんなブログを見たがるのかな?」

「・・・・」

わたしは自分の中の想定問答で、彼の問いに答えることができませんでした。
そしていまのままの状態でなんら不都合はないと考えました。

唐突ですが、

「わたしは不完全である」ということ、「人間誰だって完全な奴はいない」ではなく
「わたしは」不完全な存在であるということを改めて思いました。

今回の一件で、わたしは思慮分別に欠けているということをこれも改めて認識しました。
無論先方のブログにも同じことが言えます。「思慮・分別」というのは、主に「大人」の属性です。わたしたちは誰も言葉の本来の意味での「大人」ではなかったということを今強く思うのです。

10代の女性が、中学時代に自分をいじめた子を法廷に連れ出して勝訴したという出来事に快哉を叫びましたが、わたしはもう10代ではない。関わらないで済む者であるなら関わりを持ちたくはない。いかなる形であろうと。

それが可能であれば、いちばんシンプルで効果的な解決策は、このブログを先方の人間たちが閲覧できなくすることです。けれども、ブロガーに関してはそれを行うのは極めて難事業です。日本語のテクニカルサポートもなければ、日本語版のヘルプも、「よくある質問と解決法」が載っているだけ。要は電話やメールでこちらの要望や質問を伝える方法がありません。


Junkoさん、約8千字に及ぶコメント、何度か読み返しました。
いかにもJunkoさんらしい痛快で愉快なコメントです。

成程エネルギー・ヴァンパイアというのも言い得て妙です。

わたしは長く続いた、「彼ら」との関係を、この際きっぱりと終わりにしたいと思うのです。
ふたつさんも、Junkoさんも、そして底彦さんも、これだけ度々話題になりながら、遂に、(下衆な)好奇心と野次馬根性に駆られて、あのブログを見に行くことはしなかった。そのことをわたしは感謝・・・というよりも、良い読者に恵まれたなと感じています。

省みて、わたしは彼らを罵倒するだけの何ほどのものを持っているかと自問した時、結局同じ穴の狢ではないかというような気持ちになるのです。知らず知らずのうちに、「バーカ!」「バカって言ったらお前がバカ」の世界、子供の世界に入り込んでいたのです。

ジェーン・オースティンは言っています、

「私たちの人生は余りにも短く、人といさかいを起こしている暇なんてないんです」

わたしの目指すブログはあくまでもアート、文芸、そして自己表現の三本柱です。

Junkoさんの言葉

Takeoさんが嫌がれば嫌がるほど、怒れば怒るほど、反応すればするほど彼らは嬉々としてエネルギーを取り入れます。多分、Takeo さんに完全に関係を断ち切られ、相手にされなくなって一番ショックを受けるのは彼らだと思います。

同感です。けれどもわたしには、

Takeo さんも、相手がTakeo さんがブログを閲覧する事を阻止しているのであれば、この際彼らとのコンタクトを完全に断ち切り、彼らの存在自体をなかったもののように、無視すればどうかと思います。

これが難しいのです。そいういう点でも、今現在、わたしが彼らのブログを見たくても見られないという状況は、寧ろ望ましいことと言えるでしょう。

しかし、見ることを阻止することが出来ず、見られていることを常に意識してしまうわたしのような人間にとっては、自分の目指すブログを作るためには、新たなブログの開設以外にないのかなと思います。(その辺りはまだ迷っています)

無論、新しいブログが軌道に乗れば、Junkoさん、ふたつさんにも連絡します。

最後に「自己愛」「承認欲求」云々についての対話は打ち切らせていただきますが、この投稿についてのコメントは気軽に書きこんでください。

改めて、示唆に富むコメントをありがとうございました。


不一










3 件のコメント:

  1. こんばんは。

    これは、この記事を読む前に(15日の昼)八割ぐらい書いたもので、せっかく書いたので、加筆してここに送ります。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    私が言った『「愛」と「憎しみ」は表裏一体』と言うのは、人間の感情(心)を分けて語ることは難しいという意味です。
    「感情」や「心」と言うモノは、その一面だけを切り取って語ると意味がなく成ってしまう性質があるような気がするわけです。
    これは、それらを「魂」と言い換えれば、さらにわかりやすいと思います。

    「魂」は「一つの魂」であって、その一面だけを切り取ってしまうと「魂」とは言えなく成ってしまいます。
    しかし、それを語る上では、どこかに論点を設けて語る必要がありますから、その論点を見つけるためには、どこかしらの一面を切り取って話をする必要があります。
    いきなり「魂全体」の話をするには、宗教的な絶対性が必要に成ってしまうからです。

    例えば、Takeoさんがおっしゃっている「100%の憎しみ」とか「完全なる憎しみ」と言う感情は、「完全なる愛」つまり「神の愛」に匹敵する絶対性を必要とすると思われます。

    だから、これは議論の対象ではないような気がするわけです。
    やはり、「人間の範囲」で話をする場合は、「相対的な話」をした方がいいような気がしますね。

    つまり、『絶対に正しいものは無い』とうぜん『絶対に間違ったものも無い』ということで、すべては「少しマシ」と「これはちょとぉ』の間にあるという前提ですね。

    Takeoさんが、自分の中に「自己愛」や「自己肯定」を見つけ出せないということは、私にもわかりますし、「憎しみに満たされた心」と言うモノを想定することは出来ると思います。
    しかし、その人の人生全体を見渡した場合、『すべての瞬間が「憎しみ」で満たされている』と言うのは、違うような気がします。
    どんなものでも、「対比するもの」が無いと、それを意識したり感じたりすることは不可能です。
    つまり、「完全に憎しみに満たされた心」では、「憎しみを感じること」が出来なく成ってしまいます。
    『赤い壁に打たれた赤い点には、点である意味がない』と言うようなことです。

    やはり、どんなに強い「憎しみ」を抱いている人でも、また、その「憎しみ」がもう逃れようのないものであって、その人がそこから解放されることのないほどのモノであったとしても、やっぱり、『この「憎しみ」と言う感情は、本来なにか別の感情であっても良かったはずのものである』と言うような気持があるからこそ、それを「憎しみ」と感じるのであって、「憎しみ」が「全て」であれば、それは、その人にとって、「最も通常の心の状態」ということに成ってしまいます。

    それから、JUNKOさんのおっしゃっている『「愛」の反対にあるのは「無視」』であるというのは、私も同感です。
    そして、だからこそ「愛」と「憎しみ」は、どちらも「感情」であるということにおいて、表裏をなしているわけです。
    そして、「無視」と言うのは「無感情」のことであると思うわけですね。

    つまり、「感情の中」における対極が「愛と憎しみ」であり、「人間の中」における対極は「愛と無感情」であるということだと思います。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    「承認欲求」や「自己肯定」・「自己否定」についても、上と同様に分かちがたいものについて語ることを前提にしています。

    これらは「感情」とは言えないかもしれませんが、人間の精神の中でも、かなり深いところに埋め込まれている心理であって、やはり一面だけを切り取って話をしてしまうと、「トリック=ギミック)」にハマってしまう可能性が大きく成ると考えます。
    (これは、一応、語ることが出来てしまうので困る)

    「彼ら」「彼女ら」がやっていることも、まさに、そう言うギミックに成っていて、Takeoさんの「承認欲求」と言う一面だけを切り取って、自分たちの都合のいいように話を展開してしまうから、Takeoさんの言っていることは理解できなく成ってしまいますし、場合によっては逆の意味に成ってしまいます。

    しかし、「彼ら」も、どちらかと言えば「承認欲求」の強い人であるはずで、だからこそ、「ブログをやる」とか「障碍者(家族)支援」とかと言った、「義務のない活動」をしているんだと思います。
    (「彼女」が何をしているのかは知りませんが、ナニカはしているのでしょう)

    おそらく、「彼ら」には、それらの活動を「やる必要(義務)」は無いはずです。
    もし、「承認欲求」が無ければ、そういう活動を「やる側」ではなく、「読む側」や「受ける側」に成っているでしょう。

    もしも、「社会的な正義」や「社会貢献」や「慈善」などを掲げるのであれば、『なぜTakeoさんは助けなかったのでしょうか?』
    ただ単に、Takeoさんの話を聞くだけでよかったはずですが、それは、どうして不可能だったのでしょうか?

    答えは簡単です。
    Takeoさんは、「彼ら」「彼女ら」に「承認」を返さないからです。

    ただし、これらのことは「彼ら」や「彼女ら」を否定しているわけではありません。
    ただ単に、「誰にでもあるモノ」を「彼ら」も持っているというだけのことですから。

    しかし、そこで、他人を責めることについては、私は否定的に考えます。
    なぜならば、そこに「意味」がないからです。
    「誰にでもあるモノ」を『アナタには有り、自分には無い!』ということを理由に相手を責めることには、私はどうしても「意味」を見出すことができません。
    そう言うことですね。

    まして、自分たちの「承認欲求」が非常に強く成ってしまっているのに気づかずに、他人の「承認欲求」だけを切り取ってやり玉に挙げるということには、まったく「意味」を感じられませんから。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    つづく・・・

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  2. ・・・・つづき

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    最後に、「自己肯定≒優越感」と「自己否定≒劣等感」です。

    これらは、同じものではありませんが「原因と結果の関係」だと思います。
    「自己肯定感」が強い人は、ごく自然に「優越感」を持つように成りますし、「自己否定感」が強い人は、やはり自然な成り行きで「劣等感」を持つように成るでしょう。

    そして、それが相乗的に成っていくと「自己肯定」の場合は「自己愛性人格」が形成される可能性が高く成りますし、「自己否定」の場合は「うつ状態」や「自虐性人格」に成る方が多いと思います。

    そして、ここにも私は「表裏の関係」があると思いますが、これについては、「表裏一体」とまでは考えていません。
    (前のコメントでは、そう書いてしまったかも知れませんが)

    分けて考えられる範囲かなと思います。


    そして、「彼ら」ではなく、「彼」は「自己愛性の人格」だと、私は思います。
    「彼女」は知らないのでわかりません。

    私が知る限りにおいて、「彼」の人格的特徴は、ほぼ「自己愛性の人格」に当てはまると思います。
    しかも、Takeoさんのように専門家でも迷うようなパターンではなく、けっこう典型的な人のように私には思えます。

    ただし、私は、もちろん専門家ではありませんし、専門的な知識があるわけでもありませんから、ごく個人的な認識として、私のイメージするところの「自己愛性の人格」には、適合しているという意味です。

    あくまで、「自己愛性人格」であって、「自己愛性人格障害」とまでは言いません。
    症状や病気の名前は専門家が付けるものだと思いますから。

    だから、あくまで、個人の意見ではありますが、「彼」の車のナンバー・プレートを見ただけでも「自己顕示欲が強い人」と言うくらいのことは言えるでしょうし、それを、「車好きのブログ」ではなく「哲学のブログ」で公開せずには居られない「彼」を「自己愛的な人」と判断するのは、それほど無理のあることだとは思いません。
    これは、「彼」に特定したことではなく、同じような行動をとっている人を見かけたら、私はきっと同じことを思うでしょう。

    やはり「料理のブログ」で自分が作った料理やそのレシピを公開している人は、「単なる料理好き」なだけかもしれませんが、例えば、あえて、職場の会議で、自分の料理自慢を始める人は「自己愛性の人格」だと言える確率がずいぶんと高い気がします。

    ただ、これも「彼」を否定しているわけではありませんし、私は「自己愛性の人格」を否定しようとも思っていません。
    当然、私が絵を描くのも「自己顕示」でしょうし、そこに「承認欲求」もあると思います。

    私が、肯定できないのは、「差別」や「弱い者いじめ」に類すること、それだけです。
    ただ単に「多勢に無勢」というだけで「弱い者いじめ」だと私は考えていますから、その点で、「彼」や「彼ら」を肯定的にとらえることは私には出来ませんね。
    これも、それだけです。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    「彼」の話はともかく、この「自己肯定」が「すさまじい自己肯定」に成り、さらに「すさまじい自己優越感」に成っていく過程で、「攻撃性」や「暴力性」が発現することがあると私は思っています。

    そして、そこには、常に「その裏側に潜んでいる劣等感」が関係しているというわけです。

    「彼ら」「彼女ら」に「劣等感」が無いというのは、私は違うと思います。

    一点の「劣等感」も持たない「全能感」を持てるのは「神」だけですが、もはや、そういう完全な「神」は宗教の世界にすら存在して居ないと言ってもいいと思います。
    いまもそれが存在して居るとすれば、ごく一部の原理主義者の中だけだと思いますが、その原理主義者たちも、「カネ」と言う「カミ(紙)」には勝てませんから、もしも、今「全能」を謳うことが許されるものがあるとすれば、それは「カネ」でしょう。

    しかし、「カネ」には「神」の神聖さがありませんから、やはり、それも違うでしょうね。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    これも上の話と同じで、「劣等感」や「優越感」を一切持たない人は居ないということが前提に成ります。

    そして、私は、そこに「自己肥大」ということが強くかかわっていると考えています。
    これは、一人一人の人間と言うよりも、社会全体の持っている性質としての「自己肥大化現象」と言うべきものです。

    ここまで語ってきた、「自己愛」「自己嫌悪」「自己肯定」「自己否定」「優越感」「劣等感」のすべてにわたって、影響を及ぼしているのが、この「自己肥大化現象」だと思っています。

    ちょっと、話が長く成りすぎたので、ここから先は、「つづき」のコメントで書こうと思います。


    それでは。

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    1. こんばんは。

      >「感情」や「心」と言うモノは、その一面だけを切り取って語ると意味がなく成ってしまう性質があるような気がするわけです。

      それはよくわかります。人間の感情はいわば「坩堝」であり「混沌」であって、ショウ・ケースのように、これは「愛情」これは「憎しみ」というように、分けて並べるということは不可能ですね。

      その話はよくわかりますが、例えばわたしが「100%の憎しみ」と言った場合

      >Takeoさんがおっしゃっている「100%の憎しみ」とか「完全なる憎しみ」と言う感情は、「完全なる愛」つまり「神の愛」に匹敵する絶対性を必要とすると思われます。

      という具合に話が進んでゆくと、それはきわめて「合理的」なものになってしまうという危惧を覚えるのです。確かにふたつさんのおしゃる通りですが、そもそも「人情の機微」というものを言葉で語ることができるのは、極めて狭い範囲でしかないと思います。それを合理的に語るにはね。
      ではわたしたちはどのようにしてその説明困難な「機微」なるものを知るのかといえば、第一に、現実の人間関係であり優れた文言作品であり、同じく優れた映像作品からだと思います。

      それらが優れているのは、人間の感情を不合理なまま描出しているからです。つまり小説や映画の中には、憎しみや悲しみに凝り固まった人間が登場します。存在として「不合理な」者たちです。「合理性の目」から見れば「あり得ない」人物たちです。

      わたしが「哲学」や「心理学」にどうしても馴染めないのは、それらの根底に、「非・合理性」や「どろどろぐじゃぐじゃしたもの」即ち人間の感情を、どうしても、合理性の枠の中に押し込めたいという志向性を感じてしまうからです。

      >「完全に憎しみに満たされた心」では、「憎しみを感じること」が出来なく成ってしまいます。

      それは「今この時」のみを視ていればそういうことになります。けれども、今、100%の憎しみ、100%の悲しみに覆い尽くされた人間に、「憎しみ」「悲しみ」以外の、比較し得る対象がないかといえば、そんなことはありません。そこには時間の流れがあり、幸せだった過去という「いま現時点」とは異なった時間が流れていました。それとの差異が大きければ大きいほど、現在の「憎しみ」「悲しみ」の量、強さ、持続性は大きくなり、強まります。

      >『赤い壁に打たれた赤い点には、点である意味がない』と言うようなことです。

      その赤い点は嘗ては白かったかもしれない、黒だったかもしれない。ただ、今現在「赤い点」であるだけかもしれないのです。
      わたしが執拗に彼らに発言の根拠の説明を求めたのは、彼らにはわたしが『赤い壁に打たれた赤い点』にしか見えていないからです。わたしがはじめから赤い点であったかの如き論理には、相手の現在しか見えていないという欠陥があります。だからわたしは、批判する相手に対し、あなたはわたしの来し方のいったい何を知っているのかと尋ねるのです。

      >『この「憎しみ」と言う感情は、本来なにか別の感情であっても良かったはずのものである』と言うような気持があるからこそ、それを「憎しみ」と感じるのであって、

      それは例えば過去の持続であるとか。喪われなかった世界であるとか・・・



      >「彼ら」「彼女ら」がやっていることも、まさに、そう言うギミックに成っていて、Takeoさんの「承認欲求」と言う一面だけを切り取って、自分たちの都合のいいように話を展開してしまうから、Takeoさんの言っていることは理解できなく成ってしまいますし、場合によっては逆の意味に成ってしまいます。

      ふたつさんには申し訳ありませんが、彼らがわたしを如何様に見、いかように判断し内輪で裁こうとも、わたしには何の関係もないことです。

      ◇二伸について◇

      >「自己肯定感」が強い人は、ごく自然に「優越感」を持つように成りますし、

      その仕組みがわかりません。なにかを肯定するということは、対象(或いは自分の)ありのままを認めるということではないのでしょうか?先程話したわたしの高校時代の友人も、また母も、自然な自己肯定感を持っていますが、二人と優越感=人に勝っているという感情とはどうしても結びつきません。それはふたつさんでも、Junkoさんでも同じことです。



      以上、せっかく長い時間をかけて考えてくださったコメントに全く不十分な返信しかできないことをお詫びします。

      これらのコメントも、またJunkoさんのふたつのコメントも、一読に価する者であると思いますので、ひとりでも多くの読者に読んでもらえることを希望します。


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