2020年9月30日
友の言葉2或いは虚無の中より
友の言葉
2度と手に入らないと思ったほうがいいと思います。
くれぐれも慎重に」
2020年9月29日
無題
2020年9月28日
グループ・ホームへの転居について、その他の断想
1 調和のとれた適切な食事摂取ができない。
2 洗面、入浴、更衣、清掃等の身辺の清潔保持ができない。
3 金銭管理能力がなく、計画的で適切な買物ができない。
4 通院・服薬を必要とするが、規則的に行うことができない。
5 家族や知人・近隣等と適切な意思伝達ができない。協調的な対人関係を作れない。
6 身辺の安全を保持したり、危機的状況に適切に対応できない。
7 社会的手続をしたり、一般の公共施設を利用することができない。
8 社会情勢や趣味・娯楽に関心がなく、文化的社会的活動に参加できない。
(上記1~8のうちいくつかに該当するもの)
2 清掃はほぼできなくなっている。畳1畳半くらいのカーペットに掃除機をかけることすら億劫で出来ていない。
2020年9月27日
さまざまな断想・・・
2020年9月26日
曰く不可解・・・
ご連絡ありがとうございます。
お気遣い、うれしいです。
でも、引用したいと思われたときは、
あまり気になさらないで使ってくださいね。」
無意味な生
2020年9月25日
終わりに見た街・・・(街はあるのか?消えたのか?)
連休中だったし、都内にだって人が出ているとは予想したが、
もう矢も盾もたまらず、地下鉄に乗り、東を目指し、うれしくて
歩き過ぎ、帰ってきてからブログを書く元気がなかった日の顛末
を、少々。
近場歩きのためにバスに乗るのは、あまり気にならない。バス停の
間隔が短いから、停まる度に換気されてるような気がする。あくまでも
"気分"の問題で、実際はどうなんだか。
それに比べて地下鉄に50分くらい乗らないと着かない東行きは、
決心がいる。決心というより、やけを起こしたのかな。
町/街の空気に飢えていた。換気用に窓が一部開いている、かなり
騒音がひどい大江戸線を下り、地上に出た瞬間、「うれしい!」と
思う。町/街が迎えてくれた。まだ町/街があった。
精神病者、精神障害者は如何にして生きるのか? 断想・・・
鬱が酷いときは別として, まったく行動しないで休んでいるだけだと精神的肉体的にどんどん衰えていってしまう.」というものだった。
わたしなら、そもそも上記のような会話が医師と交わされるということは絶対にありません。つまりわたしの辞書には「頑張る」とか「努力する」という言葉が端から欠けているのです。底彦さんは良くも悪くも、何かにがんばったこと、無理をしたことがありますか?わたしにはないと断言できます。
基本の基本に、何故そうまでして生きなければならないのか?という気分が常に常駐しているからです。「頑張った」見返りが「生きること」という意味がわたしには理解できないのです。至極単純にいえば、人生って、頑張って生きるほどの価値があるのか?という気持ちです。
それは「人による」のだと思います。少なくともわたしに関してはその価値は見い出せません。
「障害者の生きる権利」と同様に、これは個人的な想いであって、それを一般化するつもりは毛頭ありません。わたしが逆に医師から、もう少し頑張れますか?と訊かれたら「何のために?」と反問するでしょう?」
2020年9月24日
ワタシハ ドウスベキナノカ?-3-
2020年9月23日
ワタシハ ドウスベキナノカ?-2-
本当に、事情は人それぞれ、状況の捉え方も様々だ。
その中でも、特にその苦しさが伝わって来るのは、今現在、毒になる親の元で閉塞感や絶望感と戦っている人のブログ。」
ワタシハ ドウスベキナノカ?
憩いを得て、分解され、溶けこんでゆくべきものとして、土(大地)以上のものを探すのは無駄な事なのだ。」
ーエミール・シオラン
2020年9月22日
間違えなければならない
過去からの訪問者?未来からの訪問者?
わたしはそうは思わない。確かにどんな時代にも、それこそ「喜びも悲しみも」等しくあって、いいことずくめの時代など、どこにもなかった。わるいことばかりの時代も、なかった。わたしたちが子供のころには、すでに「公害」や「交通戦争」「受験地獄」と呼ばれるようなマイナスがあった。
しかしそれでも、ノスタルジーは過去の美味しいとこ取りではなく、わたしたちがどのような喜びと悲しみの詰め合わせを選ぶかだと思うのだ。
極端な言い方をすれば、現代と過去とを選べるなら、わたしは戦争や公害もひっくるめて、やはり過去を選ぶ。何故ならわたしには「現代のいいとこ」というものがさっぱり見えないのだから。
2020年9月21日
セプテンバー・ソング
2020年9月20日
困難な存在
「残念ながら」現在の日本の税制度では、他国に比べてわずかではありますが、国民の納めた税金が「弱者救済」「相互扶助」の目的に使われているという現状があります。
繰り返しますが、苦労して税金を払いたくないのなら、そのような生き方を模索すればいいと思うのですが。」
正当な自己否定
芸人は下手も上手いもなかりけり 行く先々の水に合わねば・・・
狂気・・・
自分がわからないということ
かわいそうなのか?バカなのか?
2020年9月19日
アンラッキー
2020年9月18日
名言
或る夜の断想・・・
でも、そんな時代だからこそ、引きこもりという生き方も一つのライフスタイルとして市民権を得られる契機になるかもしれない。誇れない生き方としての引きこもりがライフスタイルの一つとして認知されたなら僕の引きこもり生活の心苦しさも少しは軽減して生きやすくなるんじゃないかと思う。
わたしは以前、これと似た論旨の文章に反論を書いたことがある。
やりたい放題の人間ほど、やたらと元気そうに見えた。
それはある意味事実だろう。他人に嫌がらせをすることで、相手から心的エネルギーと呼べるようなものを強奪し、吸い上げて彼らは生き生きするのだから。
というような事態を招きかねない。所詮それが「インターネット」である。
それが可能かどうかわからないが、今回、約10年間使ってきた「ブロガー」のインターフェイスが全面的に仕様変更されたことを契機に、もう少し「アート」「文芸」といった、「ブロガー」が本来持ち味とする使用方法に舵を切った方がいいのかもしれないと考えている。
「夢は第二の生である」
現実というもの、リアリティーというものは味気なくつまらないものだが、外に出ることのできないわたしは、外で、人と交わっている夢を見て心慰められている。
王様にとって、毎夜視る乞食になる夢が必ずしも不幸を意味しているとは言えないかもしれない。乞食であることよりも不幸なのは孤独であることだ。孤独であるなら、「現実」と呼ばれる世界で、王であろうと乞食であろうと同じことだ。そして孤独でないのなら、やはり王であろうと乞食であろうと同じことだ。
鳥のなまえ
2020年9月17日
わたしに似た人・・・
チャーリー・ブラウンの妹、サリーは、宿題で作った「ワイアーの彫刻」の採点がCであったことに納得がいかず、教室で先生に異議を申し立てる。
◇
質問していいですか?採点されたのは彫刻そのものによってですか?もしそうなら芸術の値打ちを決めることのできるのは時のみだというのはうそですか?
それとも採点されたのは私の才能によってですか?もしそうなら私は自分ではどうにもならないことによって裁かれたことになりますね?
もし採点されたのが私の努力だったらそれは不当です。私はできる限り一生懸命やったんですもの!
この課題で何を学んだかということが採点されたんですか?もしそうなら先生、あなたもまた知識を私に伝える能力について採点されるべきではありませんか?すすんで私と”C”をともにする気持ちはおありですか?
創作の材料にした洋服掛けそのものの質によって採点されたのかもしれませんね…さてそれもまた不当ではありませんか?
ドライクリーニング産業によってわれわれの衣服を返すのに用いられる洋服掛けの質で私が採点されるべきでしょうか?それは私の両親の責任ではありませんか?彼らも私と”C”を共にすべきではありませんか?
◇
上記のような弁論の後、サリーは最後のコマで「きしる車は油がもらえる!」と満足気な表情をして見せる。
何事も納得のいかないことに対して、異議を申し立てるのはいいことだ。わたしが教師なら、「針金の彫刻」にではなく、その評価についての彼女の弁論に対して”A”を進呈したい。
但しひとことだけ、サリーに異議を申し立てたい。
針金のハンガーで採点されたのはきみの両親の責任じゃなくて、あくまでもドライクリーニング産業の責任だと思うけど?もちろんこれはきみの両親が利用しているクリーニング屋さんの責任ではなくあくまでも…………