2020年8月21日

「この不思議な世界」追記


先の「認知行動療法への懐疑ー間違った存在(追記)」に続いて、どなたかが、また過去の投稿を閲覧してくれた。「この不思議な世界2」という昨年1月の投稿である。

わたしはもう書いたはじから忘れてしまうので、過去に自分が書いたことを、誰かに教えられるということはとてもありがたいことなのだ。

「この不思議な世界2」で書かれているのは「自明性の喪失」或いは「予め喪われている自明性」についてである。

わたしにとっての「あたりまえの「自明性」」がわからないということは、たとえば、「何故いまは今であって、過去ではないのか?」という時間の連続性の断絶にある。

わたしはいまこの時代というものを受け容れることができない。もっと過激な言い方をするなら、今この時代を「あたりまえのように」受け容れている人たちをも、受け容れることができない。

わたしがデイケアの参加者たちと共にいて、また多くの当事者の書いたブログを読んで、気が滅入るのは、そして自己の存在が異質に感じられるのは、少なくとも、「いまがいまである」ことを不思議であると思っている人を見たことがないからだ。

「いまが過去ではない」ということを全く「自明の事」として「当たり前に」承認しているからだ。

わたしは先に「アウトサイダー」とは畢竟「人間の営み」というものをまったく理解し得ない者ではないかと言った。いうまでもなくそれはわたし自身の存在を起点にした発言である。── 多くの「精神障害者」と呼ばれる人たちは、わたしとは大きく異なる存在、「心(精神)を病んだ(精神に傷を負った)ごく普通の人々」であった。

であるからこそ、彼らは「自明性」が「自明性」以外の何ものでもない世界へ回帰したいと願うのではないか?

この本で特筆すべきは、木村敏が、自分も所詮は1=1の世界に住む、ひとりの正常者に過ぎず、彼らの苦しみを真に理解し得ない存在であるという厳然たる事実を彼らに向かって詫びている・・・少なくとも自身の限界を率直に吐露している点にある。木村敏が、所謂イッパンの精神科医と異なり、寧ろ哲学の領域により多くその身を置き、そこに自身の「足場」を築いているということは、予め「病んだ人たち」「異常な人たち」「治療が必要な人たち」という視点を持たず、そもそも「人の心が病むということはどういうことを意味するのか?」「あの人は異常だ」と言った正にその瞬間「ではわれわれの正常性はなにを根拠にするのか?」を主たる考察の材料とするからだ。

嘗てジル・ドゥルーズは「〈人間であるということの恥〉・・・この他に書くことがあるかね?」と言った。

木村敏にとって、「精神分裂病」という存在(の在り方)に勝る思索の場はなかったのではないだろうか・・・


ー追記ー

上記の投稿でわたしと底彦さんとのやり取りが微妙に喰い違っているように感じるのは、底彦さんの悩みの多くがHow? に発し、わたしの問題が、世界に対するWhy?であるからではないか、などと考えるのだ・・・
わかりやすく言えば、底彦さんはこの世界は紛れもなく1=1であるということを認めつつ、それに馴染めないで苦しめられているのかもしれない。認識と実存の乖離である。
一方わたしは何故この世界が1=1であるのかが、そもそも理解できないのだ。



[関連投稿] 「「わたしは なぜ どのように 頭がおかしいですか?」










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