2020年8月19日

12 件のコメント・・・


このようなやりとり」がこれまでに4人(5人)の間で度々交わされてきた。
今それは充分に実を結んだ果実となり、このブログの豊かな「収穫」として実っている。
いったいなにが間違っていたのだろうか・・・








4 件のコメント:

  1. こんにちは。

    「何も間違っていなかった」ということは考えられませんか?
    「何かが間違っていた」という結論が必要だとは思えませんが。

    コメントに書いたことについては、今も同じ気持ちですし、Takeoさんの状態も、実体としては変わっていないと思いますよ。
    それなのに、なぜ、どんどん悪く成っていくような印象があるのか?と言えば、それは、その状態が、長く続いているからにすぎないと思います。

    要するに、Takeoさんは鉄棒にぶら下がっている状態を続けているんだと思いますよ。
    当然、だんだんつらくなってきます。

    でも、実際に鉄棒にぶら下がっているわけではないので、諦めて手を放すということが、実際の行動として具現化出来ないので、つかまり続けているんじゃないでしょうか?

    『何のために治るのか?』→楽に成るため
    『元気になって何をするのか』→元気になってから考える
    それで、ダメでも元に戻るだけですから。

    そう考えた場合、Takeoさんの場合も底彦さんの場合も、治療は必要ないと思います。
    お二人に必要なのは、「福祉」だけだと思いますよ。

    あとは、お二人が、完全に何の罪の意識も持たずに、それを受け入れるかどうか?ということだけだと思いますが、どうでしょうか?

    ほんのわずかでも負い目があると、そこから、たちまち、元の位置に引き戻される可能性が高い気がしますね。


    個人的に言わせてもらえば、現在「社会貢献」と「社会のお荷物に成ること」のどちらがマシなことなのか?と聞かれれば、後者を推しますね。

    まぁ、こんなこと言っても誰にも相手にされませんけどね。

    それでは。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      「何が間違っていたのか?」というのは、この「認知行動療法」についての対話や、わたし、或いは底彦さんが、「良くなる」とはどういうことか?というやり取りに限定したことではありません。

      この投稿は昨日訪れてくれたどなたかが、閲覧した投稿です。

      今改めてふたつさん、底彦さんとのコメントでのやり取りを読み、もちろん、解決法など見つかりませんが、決して不毛な饒舌ではなかったと感じるのです。他の投稿で、Junkoさんや、瀬里香さんも含めて交わした言葉たちも同様です。それが今はもう無くなってしまっているということ。このブログを支配しているのは、周囲の沈黙と取り残された狂人の独白だけという現状に対し、何が間違っていたのだろうか?という自問です。



      ふたつさんの指摘するように、わたしの状態が長く膠着しており、今では主治医のところには電車を使わなければならないからいけない。歩いて10分のデイケアにも、最早何のために行くのかという意味を見いだせない(それはこの投稿でも触れています)そしてデイケアを継続するのか、中止するのかを、あと2週間のうちに決めて伝えなければなりません。(こちらからの連絡が無ければ自動的に利用者リストから削除されます)



      ヴィクトール・フランクルという精神科医がいました。プリーモ・レーヴィと同じく、「アイシュヴィッツの生き残り」です。

      わたしは彼の『夜と霧』も読んでいませんが、彼の著作に「それでも、人生にイエス」というタイトルの著述があります。

      プリーモが「人間であるということの恥」といい「これが人間か」と言っている時に、「それでも人生にイエス」と。

      いうまでもなく「人生いっぱん」というような抽象的なものは存在しません。人生生きるに価するか?という問いも、「他ならぬこの私の人生は?」という意味に他なりません。

      「それでも人生にイエス」という場合には、いまわたしを取り巻いている全世界に対し肯定を与えることではないでしょうか?

      プリーモは最後には人生に「ノー」を言って去ってゆきました。

      底彦さんが、厳密に言えば、プリーモ・レーヴィも、二階堂奥歯も、石原吉郎も、「わたし(Takeo)」を通して親しくなったと言われました。同じように、わたしも、プリーモ・レーヴィや石原吉郎に、ある程度こちらから近づいていましたが、決定的に親しみを抱くようになったのは辺見庸の仲介によってでした。辺見庸はフランクルの著作について、何故かどうしても素直に頷くことができないと言っています。プリーモ・レーヴィに心酔するような心性の持ち主が、同時にフランクルにも共感するということが可能なのか?

      わたしはそれをある種の「ダブルスタンダード」だと考えてしまう傾向があります。
      本を愛しながら、スマホも使うということも同様です。

      ある時期を境に、わたしが書けば書くほど、ふたつさん、底彦さん、Junkoさん、瀬里香さん、更にはデイケアの参加者たちのような「あたりまえのひとたち」との隔絶を意識せざるを得なくなったのでしょう。それはふたつさんたちの側からもまったく同じことが言えると思います。

      やはりわたしは「孤立と、独特の認識の化け物」であるのです。

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    2. 追伸

      このブログを彩り、豊かな実りを与えてくれる収穫とは、ここに残されたすべてのコメントを指しています。

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  2. 再度の追記

    肝心のふたつさんのコメントの主旨についてふれていませんでした。



    >そう考えた場合、Takeoさんの場合も底彦さんの場合も、治療は必要ないと思います。
    お二人に必要なのは、「福祉」だけだと思いますよ。

    あとは、お二人が、完全に何の罪の意識も持たずに、それを受け入れるかどうか?ということだけだと思いますが、どうでしょうか?

    ほんのわずかでも負い目があると、そこから、たちまち、元の位置に引き戻される可能性が高い気がしますね。


    個人的に言わせてもらえば、現在「社会貢献」と「社会のお荷物に成ること」のどちらがマシなことなのか?と聞かれれば、後者を推しますね。



    しかしそれには、この国に「名ばかり」ではない、本当の意味の「福祉」というものが存在するのか?という疑問に突き当たります。

    ふたつさんの言われていることには何のおかしなところもないと思います。

    弱者は救われる権利があります。国家は弱者を救う義務を負います。もし国やコクミンがそれを認めたがらないのなら、四の五の言っていないで、さっさと憲法を書き換えなければなりません。

    >個人的に言わせてもらえば、現在「社会貢献」と「社会のお荷物に成ること」のどちらがマシなことなのか?と聞かれれば、後者を推しますね。

    これはまったく「まっとうな」意見だと思います。

    余談になりますが「ペスト」という小説の中で、カミュは、人の善行を称賛することに強い疑問を呈しています。なぜなら、人を助けるということが「称賛に価する」という世の中は、とりもなおさず、「弱者が放棄されたままになること」が常態の世界に他ならないからだ、と。

    人を助けること、手を差し伸べることが、なんら称賛の対象にならず、ごく当たり前のことにならなければならないのです。

    改めて、コメントをありがとうございました。







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