2020年8月5日

誕生日 思いつくまま気の向く儘 - 1 -



57年前。1963年の今日、わたしはこの世に生を受けました。
「障害者として」という言い方が適切かどうかはわかりません。
少なくとも、小学校、中学、高校と、ごく普通に、まあそれなりに楽しく過ごせたと思っているからです。しかし記憶というものは案外いい加減なものです。

31年前、丁度26歳の誕生日に、わたしは馬込のアパートに移り、そこで20代後半から40代前半までの約20年間を過ごしました。先日も書いたように、わたしは「ああ、ここに住めて幸せだ!」と思える町に、部屋に、17年間住んでいましたが、当時の日記(?)を見ると、綿々と生きることの苦しさ、孤独が綴られています。今でも時々夢に見る「あの町 あの部屋」に住みながらも、わたしはかならずしも幸福ではなかったようです。
この部屋に住み、この町(馬込・山王)があり、また40代の6年間、生涯唯一の親友と呼べる人がいた時でも、わたしは常に生きることの困難を、どうしようもない孤独感を、そして「世界との不調和」を訴えていました。それが何に起因するのか、わたしにはわかりません。

しかし今日という日を、「生誕の災厄(The Trouble With Being Born)とは言いたくないのです。わたしは生きることの困難を日々感じています。けれども、「生まれてきたことの災難」とはどうしても言えません。わたしの存在によって犠牲になっている人がいるからです。「生まれてすみません」とは言えるかもしれませんが、「生んでくれとは頼まなかった」とは決して、決して言えません。
勿論「生まれてすみません」ならいいということにはなりませんが・・・



お読みになられなかったかもしれませんが、先日ポール・ヴァレリーの言葉を引用しました。

” われわれは《存在》を持つ以上に精神を持ち、単にわれわれだけであるのに必要な以上に精神を持つらしい。もし私が誰かを愛するにしても、私はその人を嫌うことも出来るだろうと抽象的に考えることができるし、誰かを嫌うにしても、同じ能力を持てる。しかし私は思考がその可能な判断の全分野において、その叡智的結合の世界に於いて、発展するのを嫌がるような、そういう一個人であり、一人の特殊な人間である。
私は自分の精神について、自分の身体、顔、経歴と同じ《特異性》でないものは知りたくない。”

つまりわたしは限定された自分から離れてものを考えることができないし、また、したくないのです。

もし私が誰かを愛するにしても、私はその人を嫌うことも出来るだろうと抽象的に考えることができるし、誰かを嫌うにしても、同じ能力を持てる。

ということができないし、したくないのです。

わたしは障害者として母を苦しめている存在であるということから一歩も離れることはできないし、そうしたくはないのです。

わたしは「Aが嫌いなわたし」か「Aが好きなわたし」でしかあり得ません。

「わたしはAがきらいなわたしだけれども、Aを好くことも出来るだろうと、抽象的に考え」られないのです。



わたしはやはり昨日のコメントで、「いいものを書いてきたという自負」ということについて述べました。

ニーチェはこのように書いています。

「哲学の体系というものが徹頭徹尾真であるのは、その創設者にとってだけである。
いやしくも偉大な人間に歓喜を感ずるほどの人ならば、たとえそれが徹頭徹尾誤謬であっても、そのような体系にも歓びを感じる。というのは、何といおうと、それらの体系は、まったく反撃できぬ一点、一種の人格的気風、色彩を帯びているからである。」

「証明し得ない哲学的思惟が、概して学的命題よりも多く価値を持つということは、そのような思惟の審美的価値、則ち美と崇高による価値にその根拠がある。
それは証明され得ずとも、「芸術品」として存在する。
決定的なことは、純粋な認識的衝動ではなく、審美的衝動である。
則ち照明を得ること少なきヘラクレイトスの哲学が、アリストテレスの全命題より、より大きな芸術的価値を有する所以である」

「酔わざる者の詩は、狂気者の詩に比すれば、無である ──」

ニーチェ独特の大袈裟な言い回しはさて措いて、わたしが「臆面もなく」「いいものを書いてきた」などというのは、まさに徹頭徹尾誤謬であろうとも、それが他ならぬ、わたしにしか書けないものであるが故に、という意味です。

「性格とは運命である」とは、「私が私であるということ」が運命であるということ。

ですからわたしは、この自分を離れて、このようにも、あのようにも考えることも出来るということを好まないし、気性として、性分として、できないのです。


不悉










10 件のコメント:

  1. こんにちは。

    ぼくが言ったことは、視点の変換ではありません。

    A地点からB地点に向かう物体がある時、TakeoさんがA地点に居れば、それは離れていきますが、B地点に居れば、それは向かってきます。
    しかし、Takeoさんが、その物体に乗っているときには、その物体はTakeoさんにとっては静止しているということに成ります。
    しかし、その物体の運動が消えてしまうことはなく、物体とTakeoさんは止まっていて、世界が動いていることに成ります。

    そして、Takeoさんは自分の立っている場所や時間を選ぶことは出来ないのです。
    何時どこに何として生まれ、その後、どのように変化していくのか、誰にも選ぶことは出来ません。

    自分に与えられた、その時々の視点は受け入れるしかないのだと思います。

    そんな中で、今自分が見ている時間と空間の世界を、自分がどこまでクリアーに見通すことが出来ているのか?ということは、おそらく永遠の謎だと思います。

    ただ、今自分が見ていると思っている世界を、信じ込んでしまえば、少しは楽かもしれませんが、そこから先に、思考が展開されることはなく成るでしょう。

    そういうことが、ぼくが言いたかったことです。


    それでは。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      今ふたつさんのコメントを、二度、三度、読み返してみましたが、わたしのこの投稿との喰い違いが何処にあるのかがわかりません。

      ふたつさんは先のコメントに

      >しかし、その論理を実際に障害者を家族にもって長年苦慮してきた人、そこから得られた喜びや苦労を実感している人に当てはめることは無意味だと思います。

      >これもまた、上の話と同じで、そういう状況に置かれた人たちの中には、「裏・表を併せ持った思考」が出来上がっている場合もそれなりにあるはずだからです。
      少なくとも、そういう状況がなければ行き着けなかったであろう「思考の深さ」を、その人たちが得たとすれば、それを一律に「不幸」と切って捨てるのは、やや短絡的なことではないかと思います。

      わたしはこの部分に対して、自分の意見をこの投稿で書いたつもりです。

      ここで下線や太字を使えないのは不便ですが、

      ふたつさんはこう仰っているように思いました。

      >その論理を実際に障害者を家族にもって長年苦慮してきた人、そこから得られた喜びや苦労を実感している人に当てはめることは無意味だと思います。

      「喜び」と「苦労」

      そして

      >、そういう状況に置かれた人たちの中には、「裏・表を併せ持った思考」が出来上がっている場合もそれなりにあるはずだからです。

      ここでは

      「裏」と「表」と

      「喜び」と「哀しみ」、「裏」と「表」とは対立する言葉です。それに対してわたしは、わたしの世界はそのような重層的な構造にはなっていないし、なることはないと言っているつもりです。母に「喜び」はないし、あるのは一重(ひとえ)に「苦労」だけだと。

      >そして、Takeoさんは自分の立っている場所や時間を選ぶことは出来ないのです。
      何時どこに何として生まれ、その後、どのように変化していくのか、誰にも選ぶことは出来ません。

      >自分に与えられた、その時々の視点は受け入れるしかないのだと思います。

      この部分に関しては、どこがわたしの意見と異なるのかがわかりません。

      >そんな中で・・・

      以降の文章に関しては、わたしには反論以前に何が書かれているのかがわからないのです。

      >ただ、今自分が見ていると思っている世界を、信じ込んでしまえば、

      今観ている世界以外の世界が他にそんざいしているということでしょうか?
      これは本当に単純な素朴な疑問です。

      今わたしの前に一本の樹がある、「今わたしの前に一本の樹がある」という事実を信じる以外に・・・いったい・・・????

      すみません、こういう認識論のような話になるとちょっとわたしの限界を超えているようです。






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    2. 追伸

      ふたつさん、気分を害されるようなことがあれば深くお詫びします。

      今わたしは苦しいのです。

      上記で引用したニーチェは書いています。

      「・・・誰もわたしの書いたものなど読んではいないのだからわたしに「敵」はいない」

      しかしわたしには味方はなく「敵」は確実にいます。

      しかしそれも妄想なのかもしれない・・・

      ワタシハ クルシイノデス

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    3. 誰もわたしの書いたものなど読んではいない・・・なんと羨ましいことでしょう・・・

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  2. 追伸

    今書いたようなことから、ぼくは自分の好みや感性を信用するのをやめてしまいました。

    「今自分が見ている世界」や「今自分が好きなモノ」や「今自分が信じているもの」は、明日には、必ず「明日の自分」をいとも無慈悲に裏切ります。

    だから、「明日の自分」から憎まれないためには、初めからそこに信を置きたくないと思うように成ったというわけです。

    最も極端に考えれば、「今自分が信じていること」こそが、実は「今自分が最も憎んでいること」なのかもしれないというのが、本当のことだと思いますから、そんなことを信じることが出来がるわけがありません。

    もう、ぼくには「今、見ている世界が、今の自分にとっての真実なんだ」とか、「今、自分が好きなものを好きだということこそが、もっとも正直な気持ちなんだ」という気にはなれないというようなことですね。

    まぁ、ぼくは物事を信じることが出来ないんだと思います。
    ほとんどのものを疑ってしまうことから逃れられないと思ったので、それを諦めたということですね。

    たぶん。

    それでは。

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    1. 再度のコメントをありがとうございます。

      今回のコメントはわかりやすく感じます。

      ふたつさんの想い、言わんとしていることと随分とズレてしまうかもしれませんが、この文章単独として、感じたことを書きます。

      つまり「今日の自分」と「あしたの自分」との連続性は端からナイということ。
      それはわたしにとっては主に人間関係に於いて顕著です。

      一般には、「昨日の敵は今日の友」という言い方をしますが、わたしは何度「昨日の友は今日の敵」・・・とは言わずとも、「昨日の友は今日は他人」という経験をして来たか。

      ですから今日と明日の自己の連続性など最初から信じてはいません。

      しかし今日一日、明日一日を生きる以外にどのような生き方があるでしょう?
      その時々に「今の自分にはこれだ」と思えるものに身を委ね、それを「暫定的な真実」としないで人はそもそも生きられるでしょうか?

      >「今、見ている世界が、今の自分にとっての真実なんだ」

      そう思います。あくまで「今の自分にとって」という補足が付きますが・・・

      >「今、自分が好きなものを好きだということこそが、もっとも正直な気持ちなんだ」

      わたしはそう思います。わたしは明日のことを考えません。ふたつさんの言われる通り、自分にも、他者にも裏切られる・・・というよりも、コロコロと変わるからココロなのだということ・・・

      説教臭いですが、今の瞬間瞬間を生きるしかないのだと、「わたしは」思い、感じています。

      わたしは単純に出来上がっていますから、そして繰り返し言っているように、世界は感覚の集積であると思っているので、「美味い」ものを「マズイ」とは思えないし、言えない。
      「心地よい音楽」と「木を伐る音」は絶対的に異なります。

      つまり言葉という抽象的なものは自分という個別性を裏切るけれども、自分の感覚=センス=五感(六感)はほぼ裏切らないだろうと思っています。

      もしそれが裏切られるとしたら、それはこの世界が急に美しく豊かに見えるときでしょう・・・



      無論ふたつさんがこのように感じるのはそれだけの理由があるのですから、それをわたしが裁く資格はありません。あくまでもTakeoという一個人の考えであると聞き流してください。

      わたしがいま心から言えることはひとつだけです。

      とても素晴らしいコメントをありがとうございました。

      武雄



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    2. 追伸乃至蛇足

      ポール・オースターは、「古典主義者」とは言葉を信じる者である。そしてロマン主義者とは早晩言葉に裏切られると知っている者たちである」と書いています。

      そしてロマン主義とは言うまでもなく、「知」の上に「感情」を置きます。



      わたしがヴァレリーやニーチェの言葉を通して言ったのは、「わたしはわたしから逃れられない」ということ。これを「マズいと感じる自分」、この音を騒音であり、「ウルサイと感じる自分」それを、抽象的に=自己から離れて、「そうでなく想うこと」はできないということ・・・マズいものを美味いとは決して思えないということ。しかし、マズいと思っていても「オイシイ」と「言う」ことはできる。それは自己欺瞞であり、自己への背信、裏切りだということです。

      繰り返しますが、ふたつさんはもっと複雑な感情を表明しているのだろうと思います。

      いづれにしてもふたつさんの感情を尊重します。

      大事なのはふたつさんがどのように感じ、考えているのか、「それだけ」であって、それが「誤り」であるとか「歪み」「ズレ」などということはわたしには「どうでもいいこと」なのです。

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    3. こんにちは。

      Takeoさんの言葉に、つい引き込まれて書いてしまいますが、書くことに苦痛を感じているというのは嘘ではないので、信じてください。

      ということで、今書ける範囲で書きます。


      まず、言っておきたいのは、ぼくもごく単純なことしか書いていません。
      しかし、如何に単純なことでも本気になって説明すれば、複雑化していかざるを得ないということは認めざるを得ないことですね。

      そして、そういう時には、もはや、「最も単純なことだと思われていること」と「最も複雑だと思われていること」の間に、大きな差はなく成るものと思っています。


      そういう前提で言うと、ぼくが言ったのは、視点の変換でもありませんし、「今好きだと思うこと」を嫌いだと言えということでもありません。
      「好き」はあくまで「好き」だという前提ではあっても、それを疑うことは出来るということを言っていますし、そこから「疑い」を排除してしまうことは、むしろ「安楽」なことではないだろうか?ということを言っています。

      「好きなモノ」を嫌いと言えば、変換や変節ということに成るでしょうが、「疑い」や「迷い」というのは、もっと不定形なものであって、流動的な状態だと思っています。
      その、よって立つ足場のない状態こそが、もっとも「クルシイノデス」。
      しかし、そこにこそ、「感性」と言うものは存在して居ると考えていますし、そこにしか「感性」は存在し得ないと考えています。

      だから、ぼくは、「迷うことこそ美しい」と言っています。
      そして、その「迷い」を奪ってしまう言葉が「才能」や「天才」という言葉なのだと思っているわけです。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      ※多くの人が「天才」こそ、「大いに迷っている人」だと思っているかも知れませんが、それは、与えられた「天才という偶像」が彼らを苦しめているのであって、「天才」だから迷っているのではないと思います。
      迷わず、スパッとやってのけるのが「天才の中の天才たるゆえん」です。
      たとえ、迷っていてもある時突然、スパッとやってしまうから「天才」と言われます。
      はじめから、最後まで迷い続けた人は絶対に「天才」とは言われません。
      でも、ぼくは、そういう所が「現在、創作や感性のある場所」だと思っているわけです。
      これは、「迷い」を「努力」に置き換えた場合も同じことが言えると思います。
      「努力」すればするほど「天才」から遠ざかりますが、もう、そこにしか「創作の場」はありません。
      これも、同じようにお決まりのセルフとして『「天才」こそ「努力」しているものだ』と言われますが、だったら、それを「努力家」と言っても差し支えないはずです。
      けっきょく「少ない努力で多くの功績を示した人」を「天才」と言っているにすぎません。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      話を戻すと、
      また、だからこそ、「天才」と言われる人たちが、その自らに与えられた勲章に耐えられずに死んでしまうことも多いのだと思っています。

      「ワタシハクルシイノデス」

      鴨居玲さんの最後の言葉ですよね。
      ぼくは、彼のような人に呪いの言葉として浴びせられた、「天才」や「才能」という呪詛を少しでも減らしたいと思っていますし、それでもなお、鴨居さんが生きられなかったとしても、その「天才という偶像」から解放された後で死なせてあげたかったと思ってしまうわけです。

      もちろん、そんなことが出来ると思っているわけではなく、そういう気持ちを表していかないと、自分には「創作」という道は無いと思っているので、そこだけは捨てることができないんですね。

      世の中に「天才」と「凡人」という上下の関係がある限り、「本当の感性」も「本当の創作」も「本当の芸術」もあり得ないと思うので、そこを破壊したいということですね。
      そこでもまた、『本当は、すべての人の才能が輝いているんですよ』という美辞麗句を作ってしまうので、また「天才伝説」から抜け出せなく成ります。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      あとは、「時間」についてです。

      ぼくは「時間」とは『永遠の過去から永遠の未来までが「いま」という瞬間に含まれていること』だと考えています。

      「時間」を語る時に、人間の認識の習性上どうしても「過去・現在・未来」を区切って考えてしまいますし、その三つを直線上に並べて考えてしまいがちなんですが、実を言うと、そこで、四次元であるはずの「時間」を三次元である「空間」に置き換えてしまっています。

      「失われていく過去」とは「三次元的な存在」における「過去」であって、そこでも、やはり次元の変換が、無意識のうちに行われてしまっています。
      「目の前にある木」というのは、あくまで「物質」であって、「時間」ではありません。
      でも、実はただ単に、人間が「物質」や「空間」などの認識を通してしか「時間」を感じることが出来ないというだけなんじゃないでしょうか?

      そう考えると、「物質」が変化したり失われたりするだけのことですから、ごく当たり前のことです。
      それを「過去」という名前を付けてしまうために、その区切られた「過去という時間」が失われてしまったと思ってしまうのではないだろうか?とぼくは考えています。

      もちろん、「空間」や「存在」がなければ、人間が「時間」を認識することは出来ないのかもしれませんから、人間にとって「時間」が無いと思うのは当然なのでしょう。
      しかし、それを『「空間」のない場所には「時間」は存在しない』と言ってしまっていいのでしょうか?
      ぼくは、それを、「時間」は変わりなくあるけれど、人間が「時間」を認識する術が無くなるだけだと思っているのです。

      そういう考えに基づいて、考えていくと、「永遠の過去から永遠の未来までが「今」という瞬間に含まれていること」というのが「時間」なのではないのかな?ということに成るわけです。

      こんなことを、うまく説明することなんてできませんし、説明する必要もありませんから、どうでもいいことだと思いますし、本当ならば、そこを飛ばしたところがら話をしてもいいと思っているので、その辺は飛ばしてしまうことが多く、それで、かえって話がややこしく成るというのは、困ったことですけどね。


      最後に、ぼくは、まったくと言っていいほど本を読まないで生きてきましたから、「ロマン主義」とか「古典主義」とか、それから、前にTakeoさんから、ぼくの考えと「中庸」とはどう違うのか?と聞かれたことがあったと思いますが、そういうのはほとんど知識がないので、ぼくには答えようがないんですね。
      いつも、無視してしまう形に成って、悪いなとは思っているんですけど、知らないものは答えようがないので、ご容赦ください。


      それでは。

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    4. こんばんは。

      >ぼくが言ったのは、視点の変換でもありませんし、「今好きだと思うこと」を嫌いだと言えということでもありません。
      「好き」はあくまで「好き」だという前提ではあっても、それを疑うことは出来るということを言っていますし、そこから「疑い」を排除してしまうことは、むしろ「安楽」なことではないだろうか?ということを言っています。

      仰っている意味は分かります。けれどもわたしは自分が好きだというものを疑うこと、また逆に嫌いであるという感覚を疑うことはできません。少なくともわたしはそのような感情の上に立って生きてゆくことは不可能です。

      自己の感覚にさえ疑いの眼差しを向けるということは、この世界に藁一本の拠り所もなくまったくの真空地帯で生きることと同じです。自分の好き嫌いを疑うこと・・・想像するだけでも恐ろしいことです。

      これは古くからある哲学的な問題ですね。「あらゆることを疑え、しかしあらゆることを疑っている「私」という存在だけは確かなものである」つまり疑う主体が存在しなければ、「疑う」ことさえできないということです。そのことは以前木村敏のデカルトの懐疑論に関する記述を引用しました。

      しかし哲学、木村敏、デカルト、懐疑論、現象学・・・などのタームを一切用いなくとも、わたしにはふたつさんの言われている境地に身を置くことは決してできません。誰がこういっているああいっているということと全く関係なく・・・
      わたし自身の限界として、無理なのです。



      >はじめから、最後まで迷い続けた人は絶対に「天才」とは言われません。

      それと同じようなことをフローベールが言っています。「最高の天才とはなんにも作らなかった人たちだ」と。彼は皮肉で言っているのではありません。

      正直いって、今回のコメントで、ふたつさんは、「懐疑論」「天才論」「時間論」というそれこそ難問中の難問を次々に繰り出してくるので、わたしの能力の及ぶところではないと感じています。じゃあ誰ならいいのかといってもこれらのテーマは永遠に人によって意見が異なるものなので、結局自分で納得のいく答えを見出すしかないのだと思います。

      例えばヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、生前から天才であったのか?ということでも、そもそも「天才」の定義が人によってまちまちなので、先ず何を以て天才とするかという定義の一致が相互に出来上がっていない場合には話はなかなか噛み合いません。

      「ゴッホは天才ですよね!」と言われても、「そうですか?」としか答えることができません。
      ボードレールはゴーティエに認められましたが、フローベールはゴーチェをまったく認めていません。わたしは「天才」という大雑把な括りで、個々の芸術家を総称することの意味がよくわかりませんし、そもそも、ポロックが天才なのか、サイ・トゥオンブリーが天才であるのかさえ分からないし、そういうことに関心もないのです。同じように鴨居玲が天才であるかどうかもわかりません。ただわたしが前のブログにも書きましたが、鴨居玲という芸術家が好きだということだけしかわたしにはわかりません。



      「「過去」というものが「時間」にのみもとづく概念ではない」ということは相変わらずわたしの意見です。そしてわたしの考えは、シモーヌ・ヴェイユの言葉について書いたことでほぼ出尽くしていると思います。

      これも繰り返しになりますが、わたしは議論は望むところですが、こういう「純粋時間論」のようなテーマは本格的な「学問」「アカデミズム」の領域に含まれるものだと思いますので、
      ふたつさんの言葉を借りれば、ベルグソンもアインシュタインも読んだこともなく、相対性理論さえ分からないわたしにはちょっと手の出ない話題になってしまいます・・・












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  3. こんばんは。

    捕捉します。

    ぼくが言っている「天才」とは、実質的な天才ではなく、世間が与えた「偶像」としての「天才」のことです。
    だから、「真の天才」とは誰なのか?ということとはほとんど関係ありません。

    前に、ぼくが『自分なんか売れないのに絵を描いているだけですから大したことありません』と言ってしまうと、他の売れない人たちのことも含めて「低く扱われてもやむなし」ということを認めることに成るから、そういうことは言わないようにしていると言った時に、Takeoさんは『どうして、自分一人のことを言ったことで売れない絵描き全般のことを言ったことに成るのかわからない』と仰っていましたが、ぼくの考えでは、「一般化」が起きているのは、ぼくの中ではなく、世間の中ですでに「一般化」が成り立ってしまっていると思っています。

    つまり、世間一般の人の中に、すでに『売れない絵描きなど大したことないに決まっている』さらには『だから、馬鹿にしてもいい』さらには『だから、そういうやつが芸術論などもってのほかだ』という「一般論」が出来上がっている中に、『私なんか、売れても居ないしダメですよ』という言葉を投げ入れれば、当然、その「一般論」を肯定することに成ってしまうということです。

    それと同じように、「天才=凄い人」という「一般論」が出来上がってしまっている以上、それを否定する必要があると思うというわけです。

    フローベールという人が言っていることは決して「一般論」ではありませんから、そういう人がたくさんいるなら、問題無いんですけどね。
    実際には、ほとんど居ませんし、その人が、その「何も作らなかった人たち」をなんとかして、世間一般に「天才」であると認めさせるために尽力したということではないと思いますから、その人の言ったことも、意地の悪い言い方をすれば、「口で言っただけ」ということでしかありません。
    その人が、本気で言っっていたとしても、ここでぼくが言っている「偶像」としての「天才」を破壊することにはならないということですね。


    それから、ぼくは、どんな立派な学者の本よりも、自分で考えたことの方が少しマシだと思っていますよ。
    もちろん、本の価値を認めていないわけではありませんが、本や学問は、自分がナニカを考えるためのヒントや切っ掛けだと思っています。
    それは、そういう立派なモノだけでなく、「戦争体験」であっても「いじめ体験」であっても、「仕事」であっても「主婦業」であっても、また、「引きこもり体験」であっても、全部同じ量の時間にはの、同じ価値があると思っています。


    それでは。

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