2020年8月17日

悲しき熱帯夜3


わたしにはどうしてもわからない。

スマートフォンを持っていても、「病気」や「障害」の症状に苦しむことはあるだろう。
痛み苦しみは感じるだろう。

しかし、スマートフォンを持ちながら「不幸」な人間というものが存在するのだろうか。
どんなに痛みがあっても、どんなに症状が苦しくても、それが「不幸」であるとは言い切れない。

スマートフォンを持ちながらも「不幸」であったり「孤独」であるということが本当にあり得るのか?もしあり得るとしたらそれは何故?

この疑問はつまり、「神を信じながらも不幸である」ということがあるのか?という疑問とぴったりと重なる。

西部邁の言葉を俟つまでもなく、IT機器は現代の神である。

生身の人間である以上、痛みや苦痛は感じるだろう、けれども、心の領域は「神」及び「信仰」によって固く守られているはずだ。

自殺者の激減もそのことによって説明がつくのではないか。

苦痛にのたうち回ることはあっても、不幸ではないはずだ。

いじめに遭っても孤独ではないはずだ。

・・・そうではないのか????

もし「それ」が「神」でなく「深い信仰の対象」でないのならば、何故彼らはそれに拝跪し、帰依するのか?何故文字通り肌身離さず共に歩むのか・・・






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